伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(4)
けなげな雪子
電報が来たのは、あくる年の4月だった。
電文を見て、妻の時枝が、「ユキコ……、差出人が、雪子となつてますよ。あの子が一人で、どんなに困つてるかもしれませんわ。行つておやりになつたら……?」と言ってくれる。
佐山にも、どうしてだか、「ユキコ」といふ3字の音が、悲しく胸にしみる。麻布の家に1度行ったきりで、向こうからも音沙汰がなかったのに、雪子はどういうつもりで、自分の名前で母の死を報せてよこしたのか。
葬式はいつかわからないが、その前に行くとなると、少し金を準備して行かなくちゃならんかもしれんね、という佐山の言葉に、「そんなこと……」と時枝は一時、気色ばみかかったが、「しかたがないわ。最後の御奉公と言ふんでせうかね」と笑いにまぎらわして、それを許し、喪服も用意してくれる。
民子の家には近所の人らしいのがごたごたゐたが、むろん佐山を誰だかわからうはずがなく、
「雪ちやん、雪ちやん。」
と呼んだ。
雪子は走り出て来た。母に死なれたとは見えない、元気な少女だつた。
佐山を見ると、よほどびつくりしたやうだが、なんとも言ひやうなく純真にうれしい顔を、ぱつと見せた。そして、ちよつと頬を染めた。
ああ、来てやつて、よかつたと、佐山は心が温まつた。
佐山は黙つて、仏の方へ行くと、雪子がついて来た。
佐山は香をたいた。
雪子は民子の頭の方に坐つて、少しかがみながら、
「母ちやん。」
と民子を呼ぶと、死顔の上の白い布を取つた。
佐山は、民子が死んでゐることよりも、雪子が佐山の来たことを母に報せて、民子の顔を佐山に見せたことに、よけい心を突かれた。(中略)
「母ちやんが……」
「母ちやんが?」
「佐山さんによろしくつて言ひました。」
そして、雪子は急にむせび泣くと、両手で顔をおさへた。
雪子は、ほかの客は眼中にないかのように佐山につくす。佐山は雪子を外に呼び出して、通夜のときに食べるものを用意してあるか訊ねると、それもしていなかった。近所の寿司屋に頼むのがいいと、佐山は雪子をつれてゆく。
暗い坂を下りて行くうちに、佐山の方が悲しくなつて来た。
雪子はまた溝の縁を歩くのである。
「真中を歩けよ。」
と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た。
「あら、桜が咲いてますわ。」
「桜……」
「ええ、あそこ……。」
と、雪子は大きい屋敷の塀の上を指さした。
帰ってくると、近所の人たちが相談して、佐山を重んずべきだと決めたらしかった。その夜、佐山はお隣の二階に寝た。
あくる朝、雪子は火葬場で、佐山の渡しておいた金を払った。用意しておいてよかったのだ。
雪子の失踪
第5章で、作品は、ふたたび現在に戻る。
婚礼の日の朝も、雪子はいつものように、佐山の二人の子供たちの弁当をつめる。それも自発的に、自然に、である。
それから、雪子を家に引き取った経緯がしるされる。
民子の葬式からしばらくして、佐山は雪子に手紙を出してみたが、宛名人の転居先不明という付箋がついて手紙は戻ってきた。
ある日、時枝が百貨店に行くと、食堂の給仕をしている雪子に会った。そのなつかしがりようが、ちょっとやそっとではなかった。夜学校をやめて、百貨店の寄宿舎にいるというのを聞いて、時枝が「あなたなら、きつと、うちへおいでつて仰しやるわよ」というような話から、雪子は16歳で佐山の家の人になったのだった。
女学校をつづけることになった雪子は、子供たちの世話から台所のことまで、じつによく働いた。時枝がすっかり雪子を気に入った。
そして後々のために、佐山の家へ雪子の籍を入れて養女にしたのも、時枝の考えだった。
縁談があった。相手の若杉は、大学を出て3年ばかりたった銀行員で、係累も少なく、申し分ない話だった。
婚礼の日の朝、しるしばかりの祝いの膳について、雪子の挨拶があってから、
「雪ちやん、どうしても、どうしてもつらいことがあつたら、帰つてらつしやいね。」
と、時枝が言ふと、急に雪子はくつくつくつと涙にむせんで、手をふるはせて泣いた。部屋を走り出てしまつた。
式場では、親戚のいない雪子の側は寂しかったが、披露の席では、雪子の女学校の友達を10人ばかり招いておいたので、華やかだった。しかし佐山は、民子のことが切なく思い出されてならなかった。民子の幽霊が、娘の花嫁姿をのぞいてはいないかと、窓の方を振り向いたりした。
披露の席から帰る車のなかのさびしさと言ったらなかった。そのとき、時枝がずばりと言う。「あなた、雪ちやんが好きだつたんでせう?」
「好きだつた。」と佐山は、静かに答える。
――ところが、思いがけないことが起こる。3日目には新婚旅行から帰って、仲人の家などへ挨拶に歩くことになっているので、佐山が若杉と雪子の新居へ行ってみると、なんということか、民子の第2の夫であった根岸が新居に坐りこんで、脅迫しているのだった。根岸は、佐山にも、雪子をことわりなしに嫁入りさせたのは、けしからんと食ってかかった。
根岸は雪子の養父ではあったが、雪子は彼の籍には入っていないし、民子とも別れたのだから、無法な言いがかりであった。
佐山は根岸を帰すつもりで、あるビルの地下室で説得していると、その間に、雪子がちょっと出ていったきり、戻ってこないのである。
その夜、雪子は若杉の家にも佐山の家にも戻らなかった。
愛の稲妻
雪子は失踪したのか、自殺しはしまいか。
佐山は雪子の最も親しかった女学校友達に電話をかける。
その友達は、結婚のすぐ前に、雪子から長い手紙をもらったと言ったが、次の言葉をいいよどんだ。
それを、あえて訊くと、
「あの、よくは分りませんけど、雪子さんに、好きな人があつたんぢやありませんの?」
「はあ? 好きな人ですか? 恋人ですか?」
「存じませんのよ、私……。でも、初恋は、結婚によつても、なにによつても、滅びないことを、お母さんが教へてくれたから、私は言はれるままにお嫁入りするつて、そんなことがいろいろ書いてありましたの。」
「はあ?」
佐山は受話器を持つたまま、ふつと眼をつぶつてしまつた。
そして次の日、佐山が撮影所に顔を出すと、雪子が朝早くから来て、彼をしょんぼり待っていたのである。
佐山は直ぐに車を呼んで、雪子を乗せる。
自分の愚かさと言おうか、うかつさと言おうか――。
しかし、今さらそれには触れられないので、
「ほかにも、なにかつらいことあつたの? ――つらいことがあれば、帰つておいでと、時枝は言つたが……。」
雪子はぢつと前の窓を見つめたまま、
「あの時、私、奥さんは幸福な方だと思ひましたわ。」
雪子のただ1度の愛の告白であり、佐山へのただ1度の抗議だつた。
雪子を若杉のところへ送りとどけるために、車を走らせてゐるのかどうか、それは佐山自身にも分らなかつた。
民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。
……結びの文章の木霊のような響きの美しさは、類を見ない。読者の心を、母から娘へと受け継がれた、長い歳月の愛への想いにさそう。
けなげな雪子
電報が来たのは、あくる年の4月だった。
電文を見て、妻の時枝が、「ユキコ……、差出人が、雪子となつてますよ。あの子が一人で、どんなに困つてるかもしれませんわ。行つておやりになつたら……?」と言ってくれる。
佐山にも、どうしてだか、「ユキコ」といふ3字の音が、悲しく胸にしみる。麻布の家に1度行ったきりで、向こうからも音沙汰がなかったのに、雪子はどういうつもりで、自分の名前で母の死を報せてよこしたのか。
葬式はいつかわからないが、その前に行くとなると、少し金を準備して行かなくちゃならんかもしれんね、という佐山の言葉に、「そんなこと……」と時枝は一時、気色ばみかかったが、「しかたがないわ。最後の御奉公と言ふんでせうかね」と笑いにまぎらわして、それを許し、喪服も用意してくれる。
民子の家には近所の人らしいのがごたごたゐたが、むろん佐山を誰だかわからうはずがなく、
「雪ちやん、雪ちやん。」
と呼んだ。
雪子は走り出て来た。母に死なれたとは見えない、元気な少女だつた。
佐山を見ると、よほどびつくりしたやうだが、なんとも言ひやうなく純真にうれしい顔を、ぱつと見せた。そして、ちよつと頬を染めた。
ああ、来てやつて、よかつたと、佐山は心が温まつた。
佐山は黙つて、仏の方へ行くと、雪子がついて来た。
佐山は香をたいた。
雪子は民子の頭の方に坐つて、少しかがみながら、
「母ちやん。」
と民子を呼ぶと、死顔の上の白い布を取つた。
佐山は、民子が死んでゐることよりも、雪子が佐山の来たことを母に報せて、民子の顔を佐山に見せたことに、よけい心を突かれた。(中略)
「母ちやんが……」
「母ちやんが?」
「佐山さんによろしくつて言ひました。」
そして、雪子は急にむせび泣くと、両手で顔をおさへた。
雪子は、ほかの客は眼中にないかのように佐山につくす。佐山は雪子を外に呼び出して、通夜のときに食べるものを用意してあるか訊ねると、それもしていなかった。近所の寿司屋に頼むのがいいと、佐山は雪子をつれてゆく。
暗い坂を下りて行くうちに、佐山の方が悲しくなつて来た。
雪子はまた溝の縁を歩くのである。
「真中を歩けよ。」
と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た。
「あら、桜が咲いてますわ。」
「桜……」
「ええ、あそこ……。」
と、雪子は大きい屋敷の塀の上を指さした。
帰ってくると、近所の人たちが相談して、佐山を重んずべきだと決めたらしかった。その夜、佐山はお隣の二階に寝た。
あくる朝、雪子は火葬場で、佐山の渡しておいた金を払った。用意しておいてよかったのだ。
雪子の失踪
第5章で、作品は、ふたたび現在に戻る。
婚礼の日の朝も、雪子はいつものように、佐山の二人の子供たちの弁当をつめる。それも自発的に、自然に、である。
それから、雪子を家に引き取った経緯がしるされる。
民子の葬式からしばらくして、佐山は雪子に手紙を出してみたが、宛名人の転居先不明という付箋がついて手紙は戻ってきた。
ある日、時枝が百貨店に行くと、食堂の給仕をしている雪子に会った。そのなつかしがりようが、ちょっとやそっとではなかった。夜学校をやめて、百貨店の寄宿舎にいるというのを聞いて、時枝が「あなたなら、きつと、うちへおいでつて仰しやるわよ」というような話から、雪子は16歳で佐山の家の人になったのだった。
女学校をつづけることになった雪子は、子供たちの世話から台所のことまで、じつによく働いた。時枝がすっかり雪子を気に入った。
そして後々のために、佐山の家へ雪子の籍を入れて養女にしたのも、時枝の考えだった。
縁談があった。相手の若杉は、大学を出て3年ばかりたった銀行員で、係累も少なく、申し分ない話だった。
婚礼の日の朝、しるしばかりの祝いの膳について、雪子の挨拶があってから、
「雪ちやん、どうしても、どうしてもつらいことがあつたら、帰つてらつしやいね。」
と、時枝が言ふと、急に雪子はくつくつくつと涙にむせんで、手をふるはせて泣いた。部屋を走り出てしまつた。
式場では、親戚のいない雪子の側は寂しかったが、披露の席では、雪子の女学校の友達を10人ばかり招いておいたので、華やかだった。しかし佐山は、民子のことが切なく思い出されてならなかった。民子の幽霊が、娘の花嫁姿をのぞいてはいないかと、窓の方を振り向いたりした。
披露の席から帰る車のなかのさびしさと言ったらなかった。そのとき、時枝がずばりと言う。「あなた、雪ちやんが好きだつたんでせう?」
「好きだつた。」と佐山は、静かに答える。
――ところが、思いがけないことが起こる。3日目には新婚旅行から帰って、仲人の家などへ挨拶に歩くことになっているので、佐山が若杉と雪子の新居へ行ってみると、なんということか、民子の第2の夫であった根岸が新居に坐りこんで、脅迫しているのだった。根岸は、佐山にも、雪子をことわりなしに嫁入りさせたのは、けしからんと食ってかかった。
根岸は雪子の養父ではあったが、雪子は彼の籍には入っていないし、民子とも別れたのだから、無法な言いがかりであった。
佐山は根岸を帰すつもりで、あるビルの地下室で説得していると、その間に、雪子がちょっと出ていったきり、戻ってこないのである。
その夜、雪子は若杉の家にも佐山の家にも戻らなかった。
愛の稲妻
雪子は失踪したのか、自殺しはしまいか。
佐山は雪子の最も親しかった女学校友達に電話をかける。
その友達は、結婚のすぐ前に、雪子から長い手紙をもらったと言ったが、次の言葉をいいよどんだ。
それを、あえて訊くと、
「あの、よくは分りませんけど、雪子さんに、好きな人があつたんぢやありませんの?」
「はあ? 好きな人ですか? 恋人ですか?」
「存じませんのよ、私……。でも、初恋は、結婚によつても、なにによつても、滅びないことを、お母さんが教へてくれたから、私は言はれるままにお嫁入りするつて、そんなことがいろいろ書いてありましたの。」
「はあ?」
佐山は受話器を持つたまま、ふつと眼をつぶつてしまつた。
そして次の日、佐山が撮影所に顔を出すと、雪子が朝早くから来て、彼をしょんぼり待っていたのである。
佐山は直ぐに車を呼んで、雪子を乗せる。
自分の愚かさと言おうか、うかつさと言おうか――。
しかし、今さらそれには触れられないので、
「ほかにも、なにかつらいことあつたの? ――つらいことがあれば、帰つておいでと、時枝は言つたが……。」
雪子はぢつと前の窓を見つめたまま、
「あの時、私、奥さんは幸福な方だと思ひましたわ。」
雪子のただ1度の愛の告白であり、佐山へのただ1度の抗議だつた。
雪子を若杉のところへ送りとどけるために、車を走らせてゐるのかどうか、それは佐山自身にも分らなかつた。
民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。
……結びの文章の木霊のような響きの美しさは、類を見ない。読者の心を、母から娘へと受け継がれた、長い歳月の愛への想いにさそう。
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