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魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(4)

2014-08-22 22:58:09 | 論文 川端康成
伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(4)

けなげな雪子

 電報が来たのは、あくる年の4月だった。
 電文を見て、妻の時枝が、「ユキコ……、差出人が、雪子となつてますよ。あの子が一人で、どんなに困つてるかもしれませんわ。行つておやりになつたら……?」と言ってくれる。
 佐山にも、どうしてだか、「ユキコ」といふ3字の音が、悲しく胸にしみる。麻布の家に1度行ったきりで、向こうからも音沙汰がなかったのに、雪子はどういうつもりで、自分の名前で母の死を報せてよこしたのか。
 葬式はいつかわからないが、その前に行くとなると、少し金を準備して行かなくちゃならんかもしれんね、という佐山の言葉に、「そんなこと……」と時枝は一時、気色ばみかかったが、「しかたがないわ。最後の御奉公と言ふんでせうかね」と笑いにまぎらわして、それを許し、喪服も用意してくれる。

   民子の家には近所の人らしいのがごたごたゐたが、むろん佐山を誰だかわからうはずがなく、
  「雪ちやん、雪ちやん。」
   と呼んだ。
   雪子は走り出て来た。母に死なれたとは見えない、元気な少女だつた。
   佐山を見ると、よほどびつくりしたやうだが、なんとも言ひやうなく純真にうれしい顔を、ぱつと見せた。そして、ちよつと頬を染めた。
   ああ、来てやつて、よかつたと、佐山は心が温まつた。
   佐山は黙つて、仏の方へ行くと、雪子がついて来た。
   佐山は香をたいた。
   雪子は民子の頭の方に坐つて、少しかがみながら、
  「母ちやん。」
   と民子を呼ぶと、死顔の上の白い布を取つた。
   佐山は、民子が死んでゐることよりも、雪子が佐山の来たことを母に報せて、民子の顔を佐山に見せたことに、よけい心を突かれた。(中略)
  「母ちやんが……」
  「母ちやんが?」
  「佐山さんによろしくつて言ひました。」
   そして、雪子は急にむせび泣くと、両手で顔をおさへた。
  
 雪子は、ほかの客は眼中にないかのように佐山につくす。佐山は雪子を外に呼び出して、通夜のときに食べるものを用意してあるか訊ねると、それもしていなかった。近所の寿司屋に頼むのがいいと、佐山は雪子をつれてゆく。

   暗い坂を下りて行くうちに、佐山の方が悲しくなつて来た。
   雪子はまた溝の縁を歩くのである。
  「真中を歩けよ。」
   と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た。
  「あら、桜が咲いてますわ。」
  「桜……」
  「ええ、あそこ……。」
   と、雪子は大きい屋敷の塀の上を指さした。

 帰ってくると、近所の人たちが相談して、佐山を重んずべきだと決めたらしかった。その夜、佐山はお隣の二階に寝た。
 あくる朝、雪子は火葬場で、佐山の渡しておいた金を払った。用意しておいてよかったのだ。


雪子の失踪

 第5章で、作品は、ふたたび現在に戻る。
 婚礼の日の朝も、雪子はいつものように、佐山の二人の子供たちの弁当をつめる。それも自発的に、自然に、である。
 それから、雪子を家に引き取った経緯がしるされる。
 民子の葬式からしばらくして、佐山は雪子に手紙を出してみたが、宛名人の転居先不明という付箋がついて手紙は戻ってきた。
 ある日、時枝が百貨店に行くと、食堂の給仕をしている雪子に会った。そのなつかしがりようが、ちょっとやそっとではなかった。夜学校をやめて、百貨店の寄宿舎にいるというのを聞いて、時枝が「あなたなら、きつと、うちへおいでつて仰しやるわよ」というような話から、雪子は16歳で佐山の家の人になったのだった。
 女学校をつづけることになった雪子は、子供たちの世話から台所のことまで、じつによく働いた。時枝がすっかり雪子を気に入った。
 そして後々のために、佐山の家へ雪子の籍を入れて養女にしたのも、時枝の考えだった。
 縁談があった。相手の若杉は、大学を出て3年ばかりたった銀行員で、係累も少なく、申し分ない話だった。
 婚礼の日の朝、しるしばかりの祝いの膳について、雪子の挨拶があってから、

   「雪ちやん、どうしても、どうしてもつらいことがあつたら、帰つてらつしやいね。」
   と、時枝が言ふと、急に雪子はくつくつくつと涙にむせんで、手をふるはせて泣いた。部屋を走り出てしまつた。

式場では、親戚のいない雪子の側は寂しかったが、披露の席では、雪子の女学校の友達を10人ばかり招いておいたので、華やかだった。しかし佐山は、民子のことが切なく思い出されてならなかった。民子の幽霊が、娘の花嫁姿をのぞいてはいないかと、窓の方を振り向いたりした。
 披露の席から帰る車のなかのさびしさと言ったらなかった。そのとき、時枝がずばりと言う。「あなた、雪ちやんが好きだつたんでせう?」
 「好きだつた。」と佐山は、静かに答える。
 ――ところが、思いがけないことが起こる。3日目には新婚旅行から帰って、仲人の家などへ挨拶に歩くことになっているので、佐山が若杉と雪子の新居へ行ってみると、なんということか、民子の第2の夫であった根岸が新居に坐りこんで、脅迫しているのだった。根岸は、佐山にも、雪子をことわりなしに嫁入りさせたのは、けしからんと食ってかかった。
 根岸は雪子の養父ではあったが、雪子は彼の籍には入っていないし、民子とも別れたのだから、無法な言いがかりであった。
 佐山は根岸を帰すつもりで、あるビルの地下室で説得していると、その間に、雪子がちょっと出ていったきり、戻ってこないのである。
 その夜、雪子は若杉の家にも佐山の家にも戻らなかった。


愛の稲妻

 雪子は失踪したのか、自殺しはしまいか。
 佐山は雪子の最も親しかった女学校友達に電話をかける。
 その友達は、結婚のすぐ前に、雪子から長い手紙をもらったと言ったが、次の言葉をいいよどんだ。
 それを、あえて訊くと、

   「あの、よくは分りませんけど、雪子さんに、好きな人があつたんぢやありませんの?」
  「はあ? 好きな人ですか? 恋人ですか?」
  「存じませんのよ、私……。でも、初恋は、結婚によつても、なにによつても、滅びないことを、お母さんが教へてくれたから、私は言はれるままにお嫁入りするつて、そんなことがいろいろ書いてありましたの。」
  「はあ?」
   佐山は受話器を持つたまま、ふつと眼をつぶつてしまつた。

 そして次の日、佐山が撮影所に顔を出すと、雪子が朝早くから来て、彼をしょんぼり待っていたのである。
 佐山は直ぐに車を呼んで、雪子を乗せる。
 自分の愚かさと言おうか、うかつさと言おうか――。
 しかし、今さらそれには触れられないので、

   「ほかにも、なにかつらいことあつたの? ――つらいことがあれば、帰つておいでと、時枝は言つたが……。」
   雪子はぢつと前の窓を見つめたまま、
  「あの時、私、奥さんは幸福な方だと思ひましたわ。」
   雪子のただ1度の愛の告白であり、佐山へのただ1度の抗議だつた。
   雪子を若杉のところへ送りとどけるために、車を走らせてゐるのかどうか、それは佐山自身にも分らなかつた。
   民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。

 ……結びの文章の木霊のような響きの美しさは、類を見ない。読者の心を、母から娘へと受け継がれた、長い歳月の愛への想いにさそう。




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