江戸の語源
(写真:喜多見・慶元寺)
江戸に関する著述や言及は少なくないが、「江戸」の語源については、余り触れられていないようだ。なんで「江戸」というの?か、不思議に思いませんか?
もちろん、秩父流平氏(ちちぶりゅうへいし)の一派である「江戸四郎重継」が拓いたからだ・・という説明では、説明になっていない。江戸重継は、現在の千代田城辺りに館を構えてから、「江戸氏」を名乗ったからだ。それ以前は、「平 重継」だった。
武蔵江戸氏 左頭三つ巴(桓武平氏秩父氏流) 亀 甲(後裔喜多見氏の家紋) |
画像元 http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/medo_k.html
語源はなかなか見つからなかった。挙げ句、ひょんなことからワカッタ。馬鹿馬鹿しい限りだ。
(館が)東京湾の奥の「日比谷の入江」にある「門戸」だからだそうだ。
広辞苑にも「江所(江に臨む所)の意」とあり、異説としてアイヌ語源説では云々・・と説明している。入江の門戸だから、江戸だってヨウ! バカみたい。
この江戸氏が「源 頼朝」に協力したから、鎌倉幕府が成立したと云っても過言ではないかも。歴史に「もし」はないが、頼朝が再起の旗を揚げて下総から上ってきたときに、江戸氏が抵抗していたら、また日本は変わっていたかも知れない。
太田道灌
江戸氏は後に、太田道灌に負けて、母方の実家の勢力範囲である世田谷区喜多見に退いた。後に喜多見氏と改姓。
時代はグッと下がった江戸時代の将軍綱吉のとき、喜多見重政は側用人に登用されて二万石の大名となるが、元禄二年(1689)、江戸城内での刃傷事件に連座し、重政は領地を没収された。喜多見氏は断絶。
06.05.01
※ 傷みが激しいので、修復しました。