丸森町から! 一條己(おさむ)のほっとする丸森

15頭の乳牛と田に30羽の合鴨。畑に特産ヤーコンを作っています。訪れるだけで「ほっとする町」丸森町の様子をつづります。

食品放射線測定室は1階の会計室の隣です

2011-11-26 16:00:10 | 日記

 

説明書?

この900cc容器と測りで干し柿を

刻んだ干し柿を機械に入れます

10分間待ちます

金山の干し柿はNDでした

 

 

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「ひな野」の創始者大宮マダムが今日来ました

2011-11-21 21:56:46 | 日記

しんこさんちでレリーフをつくり

我が家で柚子をげっと

緑山で昼食

 

 

 

 

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昨年に続いて一日かぎりのヤーコンレストラン

2011-11-21 21:48:17 | 日記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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9区敬老会は欠入分館で

2011-11-20 22:01:20 | 日記

 

 

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ホールボディーカウンターを受けた知人が来ました

2011-11-19 22:13:25 | 日記

今日お客さんがきてふくしまのホールボディカウンターを受けた体験を聞きました。

横になって測る機械と椅子にかけるようにして測る機械があるそうで

椅子に掛けるようにする機械だったそうです

3分間測ったそうですが

彼女の体内被曝はNDでした。

医師の説明では通常の自然界の数値だそうです

福島市に住んでますが

東日本大震災の3月11日にはお産をして丸森の実家に帰っていましたが

先月末に職場復帰のために福島に帰りました。医療関係者で乳児のいる方が優先に調査されたそうです。

原発事故後には県から積算染料計が支給されましたが

その数値はきかないでしまいました。

こちらにいた時には普通に父と母の栽培した野菜と町の水道を飲んでいました。

子供はちょうど1歳です。

もう少ししたら測ってもらえるそうです。

これがホールボディカウンターの結果通知です

 

福島市は現在1マイクロシーベルトに下がったそうです。

貴重な情報だと思いましたので参考にしてください。

 

勉強になる記事を見つけたのでコピーしました。次の様な内容です。

除染最前線にいるのは私たち農業者です。そのことを少しお話します。

今年の3月の原発事故が起きた時、私は暗澹たる気分になったことを思い出します。数十年続くであろうトンネルの中に入ってしまった、という気分でした。

大地には放射能が降り積もっており、一木一草まで汚染されているのだろうな・・・、と考えると、今まで見ていた田畑や村の風景までもが別の異様なものに見えてきました。

ともかく無条件に怖い。福島第1原発がある北から風が吹けば怯え、土埃を吸うことさえ恐ろしいのです。

事実、これは後に知ることになるのですが、放射能の「見えない雲」は3月21日午前6時頃に私たちの頭上を通過していたのです。

友人が冗談半分に、「オレたち村ぐるみで第5福竜丸に乗っちゃったのかな」、と言いました。

毎朝、起きて県のモニタリング数値に目を通すことが日課になり、それすらもどかしく、自分でもガイガーカウンターを買い込みました。放射能関連の本も手に入る限り買い込みました。

まっさきに計ったのは田畑でした。村の中をガイガーカウンターを持って走り回ったような気がします。そしてわずかの数値の上下に心臓が縮む思いがしました。

今になると、大昔からやり続けてきたことのようです。わずか8か月前の話なのが不思議なくらいです。

春真っ盛りに花を楽しむ余裕もない私に襲ったのが、前代未聞の不買でした。壊滅的と言っていいような何も売れない状況が続きました。

学者や県は耕すな、と警告しましたが、春に耕さないような農家は農家ではありません。

水がぬるみ、地温が上がり、大地はこんな年でも私たちを呼んでいました。

「こんな時だからこそ、種を播こう」、というのが私たちのグループの合い言葉になりました。

「とんでもない、汚染された野菜を食べさせるつもりか」、という声も沢山聞きました。というより、そのような声ばかりでした。

震災直後にあった温かい支援の声はかき消され、耳を覆いたいような声ばかりが私たちを取り囲みました。

罵声、罵り、蔑み。そして有名なある学者は、私たちを「テロリスト」、「詐欺師」とまで決めつけ、「絶対に食べるな」と言いました。

やがて、「東日本はもうお終いだ」、という声すら聞こえ始めました。

衝撃でした。農家が農地を耕し、作物を作ることがテロリズムだとは。計って安全を確認して出荷したものまで、東京の市場で危険なゴミのように箱も開けられずに棄てられるとは。

金銭の問題ではなく、私たちが心の中でいちばん大事にしているものが踏みつけになっていきました。

しかし、変わったのは私たち人間だけで、自然はなんの変化もしていませんでした。田んぼにはいつものように蜘蛛が朝露を光らせながら網を張っています。メダカは例年と変わらず、温水の中で泳ぎ回っています。

麦の穂は風に気持ちよさそうに首を振り、野草は土を持ちあげて若芽を出しました。ツバメは今年も納屋に巣を作りにやってきました。

なんの変わりもない。なんの違いもない例年どおりの春が、そこにあったのです。

彼らは私たちに言っていました。「なにも変わらないよ。変わったのはあんたらの心の方だ」。

そしてあれから250日。土の放射線量は着実に低下しています。もはや100ベクレルを超える田畑のほうが少ないくらいです。

そして作物はことごとく、検出限界以下です。 私たちが春に想定した何百分の1以下の線量でした。

こんなことが3月に予測できたでしょうか。私たちは、セシウムの半減期が来る30年の間、苦しみ続けるのだと覚悟していたのですから!

これは奇跡だと思いました。

ただ、私たち人間が起こしたのではなく、土地の粘土や腐植物質がセシウムをはがい締めにし、ゼオライトが分子の隙間の牢獄に幽閉し、地虫や微生物が食ってくれたのです。

私たちがしたことは、ただ最初の一歩である「耕す」ということをしただけです。大地とそこに住む生物は、耕されることで空気が入り、活性化し、混ざり合い、溶け合い、放射性物質をという外敵と立ち向かってくれたのでしょう。

私たちは大地とそこに小さい生物に助けられたのです。彼らの浄化力に救いだされたのです。

答えは、高価な除染資材にあったのではなく、私たちの足元にあったのです。私たちのこの気持ちは、今や確信に変わりつつあります。

飯館村で、今もっとも有効な「除染」をしている人々は、避難区域に残ることを選んだジィちゃん、バァちゃんたちでした。

彼らの作る畑がもっとも確実に放射線量を下げていく働きをしています。

農業は耕すこと。種を蒔くこと。堆肥を入れて豊かに保つこと。・・・このなんでもない農の営みが最大の「放射能との闘い」ではないのか、と私は思っています。

その意味で、私たち農家は放射能の闘いの最前線にいます。肩の力を抜いて、日々淡々と土と生きることを通して。

 

 

 

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