釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

紀元前11世紀の東北の青銅器

2010-10-30 12:40:22 | 歴史
晴れると日中の日射しの中では暖かいが、朝晩はめっきり冷え込んで来た。この寒さが紅葉にどう影響するだろう。1954年、山形県飽海郡遊座(ゆざ)町吹浦(ふくうら)の三崎山遺跡から刀身も柄の部分も一体鋳造である26cmの青銅刀子(とうす)が発掘された。2001年にこの青銅刀子の鉛の成分が古代中国の殷文明の遺跡から発掘された青銅刀子と同じであることが科学的に証明された。三崎山遺跡からは縄文時代中期から後期のの土器や石槍などが伴出している。中国の殷王朝は紀元前17世紀から11世紀にかけて栄えた太古の王朝である。殷墟や甲骨文字、奴隷の生け贄などで知られ、異邦の土地を通るときは、邪霊を祓うために異民族の生首を掲げて進んだことから、首が進むと書いて「道」という漢字が創られたと言う。殷(商)は青銅器の製造技術が進んでおり、現在まで日本国内でのこの時代の青銅器製造の史実的な証拠は見られないところから山形県三崎山遺跡出土の青銅刀子は殷(商)で造られたものと見られている。日本国内最古の青銅器である。このことから少なくとも紀元前11世紀には東北に青銅器を持つことのできる首長がいて、大陸とも繋がりを持っていたことが分かる。中国最古の地理書『山海経』(せんがいきょう)で「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」ある、倭は後の倭人のことではないとする見解が強いそうだが、紀元前12世紀から紀元前3世紀まで存在した燕の時代であれば、三崎山遺跡出土の青銅刀子を考えれば、十分後の倭、つまり、倭人の国であることが理解できる。日本の太古は正史では語られない豊かな史実を有している。それだけに正史のみを頼みとする史観は自ら歴史を狭めており、結果的には日本の歴史を歪める。正史によれば紀元前11世紀の東北には金属器を持つ首長など存在しない。しかし、山形県下には「越」国の王を祀る古四王神社が20以上ある。
甲子川のカルガモ

日本列島の先住民

2010-10-29 12:53:06 | 歴史
暑い夏が終わり、秋が訪れたかと思うと突然の寒さがやって来た岩手。昨日は盛岡近郊の山に雪が降ったそうだ。まだ10月の終わりだと言うのに。江戸時代後期に書かれた《東日流外三郡誌》は内容の検証は無論必要だと思うが、偽書として排除するのは明らかに筋違いだと思う。正史とは違って、これまで無視され続けて来た東北、さらには、日本の古代史に異なる伝承があることを知らせてくれている。縄文の巨石文化が今も残されているように、江戸時代には各地に口伝により、貴重な歴史が残されていた。それを集めて記したのが《東日流外三郡誌》である。それによると、一万八千年前の太古に、シベリア大陸の沿海州方面から北方原住民族が氷雪原から歩いて東日流(つがる)に至り、津軽地方の阿曽部(あそべ)の森に住着いた。阿曽部族(阿蘇辺族)と呼ばれる。阿曽部族の太祖は宇曽利で、その名は現在も下北半島の恐山の麓にある湖に残されている。毛深く、山野で狩りをし、毛皮を着て、冬は地湧湯で暖をとった。アベと称したが、征く、行こう、起よ、覚めよの意味だと言う。伝説ではケモト・タキなる若き男女が食べ物を求め氷海を経て東日流にたどり着き、古代国王となり子孫を残したのだと言う。東日流だけでなく、流鬼、渡島、飽田、越、出雲及び北筑紫へも移って行った。阿曽部族の一族には、阿倍、阿部、安倍、安東、安藤、阿久津、阿保、天内、荒木、相内及び蘇我、曽根、外崎などの姓があると言う。しかし、一万五千年前から一万二千年前に本州北部を縦走する那須火山帯と鳥海火山帯の激しい火山活動が起こり、十和田湖を生じた十和田火山群、八甲田山、岩木山などの大噴火により、自然を壊滅させるとともに阿曽部族の大部分が犠牲になった。
津軽と下北

心優しく寂しがりやの友へ

2010-10-23 08:13:59 | 文化
今朝6時過ぎに親しい年下の友が亡くなった。サラリーマンをやった後、再び大学へ入り直した時に知り合った友だ。地元出身で古い車を持っていたので夜な夜な真っ暗な街中や郊外をよくドライブしてくれた。いつも車中では陽水の曲がかかっていたような記憶がある。彼もやはり一度他大学へ入り、何とか卒業単位をもらったばかりだと言う話だった。早川の文庫本をたくさん持っていて、一時はこれをまとめて借りたりもした。結構雑学的なことを知っていて、話を始めると尽きることがなかった。卒業後もよく電話をかけて来てくれた。つい2週間ほど前にも電話をして来て、眠れないと言っていた。博識なので、その知識がもったいないと思い、ブログを書くようにすすめた。すると翌日書きはじめたからと、連絡をくれた。2~3の記事を書いてから、「妻の最後の日」などと言う不審な言葉がブログに出たので、メールでその意味を尋ねた。しかし、返事はなかった。何か深く尋ねてはまずいことかも、と言う気もしたのでそのまま様子を見ていた。彼の始めたブログもそのまま更新されない状態が続いていた。恐らく二度目の大学では友人の中では彼と過ごした時間が一番長かったと思う。自分では過去をあまり振り返る方ではないので、過去の記憶は残りにくい方だ。だから、彼の優れた記憶力に頼り、これからじっくりと大学時代のことなどを聞こうと思っていたのだが。人はいつも失ってはじめて、失ったものの大切さに気付かされる。

井上陽水   氷の世界


弘法大師と慈覚大師

2010-10-11 12:58:24 | 歴史
子どもの頃を過ごした四国では弘法大師の事蹟が語り継がれていた。香川県には弘法大師が造った溜め池がたくさんある。味が天下一品である讃岐うどんも弘法大師、空海が中国より持ち帰ったうどんに由来すると言われる。八十八カ所霊場は弘法大師に所縁の地である。讃岐国が弘法大師空海の出身地であるため、四国では確かに弘法大師の事蹟が濃厚に見られるが、四国に限らず、西日本には弘法大師に所縁を持つ物が多い。この西日本の弘法大師に対し、東日本では慈覚大師、円仁(えんにん)に由来する物が多い。西の弘法大師、東の慈覚大師と言われる。円仁は下野国の生まれである。空海、円仁はそれぞれ平安時代に入った第1回、第2回の遣唐使船で唐へ渡っている。空海は比叡山に天台宗を興した最澄とともに唐へ行っているが、自分自身は真言密教を学び伝えた。慈覚大師、円仁は後に比叡山の天台宗座主となっている。東北には数多くの慈覚大師、円仁の事蹟があり、平泉毛越寺、中尊寺はその代表と言える。遠野で伝承されている「遠野七観音」も慈覚大師の作と称されている。円仁は唐へ渡って苦労をして9年後の847年に54歳で博多津の鴻臚館までたどり着いた。3年後には毛越寺、中尊寺を開山している。65歳で天台座主になっていることから、円仁の東北や北海道までを含めた東日本の行脚は50代半ばから数年をかけてと言うことになる。円仁は唐へ渡った9年間の苦労を『入唐求法巡礼行記』として記しており、マルコ・ポーロの「東方見聞録」や玄奘三蔵の「大唐西域記」と並んで世界三大旅行記とされている。
白菊 平安時代に唐から渡って来た花の一つ

仏教伝来

2010-10-08 12:54:03 | 歴史
秋晴れのさわやかな日をほとんど見ることなく日が過ぎて行く。曇天が続くと気分まですっきりしなくなる。日本書紀によると552年(元興寺縁起では538年)、百済の聖明王の使者が訪れて、欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりとされている。432年に成立した『後漢書』によると西暦65年の後漢の光武帝の三男、楚王英(そおうえい)の記事に仏教信仰の事実が記されており、この時代の遺跡からも仏像が発掘されている。同じ『後漢書』には「建武中元二年(AC57)、倭奴国、朝に賀して貢を奉ずる、使いの人、自らを大夫と称す、倭国の極めて南の界いなり、光武、印綬を以て賜う」の文言があり、1784年に当時の筑前国那珂郡志賀島村から「漢委奴國王」と書かれた金印が発見され、これが57年後漢の光武帝から与えられた物だと考えられている。当時の倭国と中国の間にはそれほどの親密な関係があった。中国は周辺の異民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼び、四夷」あるいは「夷狄」と総称し、蔑視していた。そうした中で金印を授与されるのは極めてまれなことであった。だとすれば、その金印を授受する関係であった二国間で文化が伝わらないはずはないと考えられる。『古代東国への仏法伝来』という本を読むと古墳時代の関東には仏像や仏が彫刻された三角縁仏獣鏡が伝わっている。群馬県板倉町の赤城塚古墳は4世紀 から5世紀にかけて築かれたものだが、そこからも三角縁仏獣鏡が発掘されている。4世紀に東国で仏の像が見られるのであれば、大陸に最も近い九州北部にはさらに早い段階で仏教関連の文物が伝来していたであろうし、仏教そのものも伝わっていたと思われる。しかし、近畿大和以外に伝えられた仏教は日本書紀では無視されている。無視せざるを得ないのだろう。
七変化(しちへんげ) 同じ株の中で花の色が変化する

ノーベル化学賞の日本人受賞

2010-10-07 12:58:53 | 文化
毎年スウェーデンの王立科学アカデミーはノーベル賞の受賞者をこの時期に発表している。今年はノーベル化学賞を、鈴木章・北海道大名誉教授、根岸英一・米パデュー大特別教授の二人が日本人として受賞している。これまでで物理学賞6名、化学賞7名、生理学・医学賞1名、文学賞2名、平和賞1名の計17名で、一昨年物理学賞を受賞した米国籍の南部陽一郎氏を加えると18名になる。過去のノーベル賞受賞者でちょっと気になったのが、1987年にノーベル化学賞を受賞したチャールズ・ジョン・ペダーセン氏である。ノルウェー人の父と日本人の母の間に生まれ、父親の仕事の関係で、韓国、日本に住み、勉学のため米国へ渡り、マサチューセッツ工科大学(MIT)で修士課程を修めた後、学費の関係で博士課程を諦め、総合化学会社のデュポン社に就職し、65歳まで勤めた。デュポン社在職中に25の論文を発表し、65の特許を取得している。超分子化学の基礎を築いたことでノーベル化学賞を受賞した。2002年に同じくノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏と同様ノーベル賞受賞者の中ではめずらしい博士号を持たない研究者である。田中耕一氏とともに企業内で研究に従事していた。京都の島津製作所に勤務していた田中耕一氏は東北大学卒業後大学院へは進まず、ソニーの入社試験を受け、不合格になっている。二人は他のノーベル賞受賞者の多くとは異なり、ノーベル賞受賞の王道を歩んでいない。今年受賞した二人のうち根岸英一氏は東京大学卒業後、一旦、帝人に入社しており、その後帝人を退職し、、米国の大学で研究を続けている。鈴木章、根岸英一両氏はともに1960年代にやはり1979年にノーベル化学賞を受賞しているパデュー大学の教授ハーバート・C・ブラウンのもとで研究している。
庭の彼岸花

縄文人の活動範囲

2010-10-02 12:48:52 | 歴史
中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)という人が書いたと言われる全30巻にもなる『論衡』という思想書がある。その巻一九恢国篇第五八に 成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯 「成王の時、越裳雉を献じ、倭人鬯草を貢ず。」と書かれているそうだ。成王は中国の周の時代の第2代の王で紀元前1000年頃に在位した王である。これまで学会レベルではここに書かれた倭人は後年「倭人」と呼ばれた人々とは同じだとは認められていない。むしろ別の種族だと言う意見すらあるようだ。無論、後年の「倭人」と同じであるということを積極的に支持するだけの論拠はないが、3000年前の縄文晩期の日本列島の人々の交易範囲の広さから考えると周の王者へ朝貢することも十分あり得ることだと思える。長野県南佐久郡の14,000年前の矢出川遺跡からは遠く離れた伊豆七島の神津島の黒曜石が発掘されており、ロシア沿海州のウスチノフカにある13000年前の三つの遺跡からは出雲の隠岐島や秋田の男鹿の黒曜石が発掘されている。さらに、4,000年前~3,500年前のウラジオストク周辺の遺跡からは出雲の隠岐島の、また、北海道の赤井川の黒曜石が発掘されている。このことはわれわれが想像する以上に縄文人たちは広い範囲で交易を行っていたことを示してくれる。

秋桜 メキシコ原産で明治の初めに渡来したようで、最初は「あきざくら」と呼ばれたらしい

荒吐王国(日高見国)と亀ヶ岡文化

2010-10-01 12:43:48 | 歴史
1622年2代目津軽藩藩主津軽信枚の命で現在のつがる市木造亀ヶ岡の地に亀ヶ岡城を築城しようとして多くの土偶や土器が発掘された。そこには後代北方民族のイヌイットが雪原で光よけに着用していた器具に似ていることから遮光器土偶と名付けられた土偶も含まれ、漆の塗られた土器など3500年前の縄文後期の亀ヶ岡文化と呼ばれる文化の存在が認められた。5500年前の青森市三内字丸山のいわゆる三内丸山の縄文文化が衰えた後に北海道から東北南部にわたる広い範囲で見られ、特に青森県の八戸市で太平洋に注がれる馬淵川流域は岩手県の二戸市を含み多くの亀ヶ岡文化の遺跡が発掘されている。是川遺跡はその代表と言える。沿岸部では土器製塩も行われていた。この亀ヶ岡文化の様式の土器は中部・近畿地方でも発掘されている。『東日流外三郡誌』の元禄十(1697)年八月藤井伊予が書いた「日高見国大要」では「荒吐族が日高見国中央国閉伊にいでたるは安日彦立君以来五十三年なるも、東日流国耳は聖域として、一族の長老在住し、国王立君のときは必ず安東浦かむい丘(館丘)と称す処にて祭礼し、四王亦は郡司も、石かむい(盛多)と称す処にて祭礼せり。」と記されている。安日彦・長髄彦兄弟は津軽で阿曾部族(あそべぞく)・津保化族(つぼけぞく)をも統一して荒吐族を興したが、後に閉伊に王城を移した。この閉伊がちょうど馬淵川流域に当たる。すなわち『東日流外三郡誌』で述べられている荒吐族の文化はまさにこの3500年前の亀ヶ岡文化に一致する。

甲子川ではもう鮭の遡上が始まっている