驚くばかりの恵み

日々のお話をしましょう。

母の夢

2015-04-08 09:26:54 | 日常
母が召されて、約4年半。
母の夢をよく見ます。
それは、いつも母がニコニコして帰って来る同じ夢です。
私にとって母は大きな存在でした。
母は入院やショートステイを嫌がっていました。
帰って来る時は満面の笑顔でした。
私の見る夢の中で母はどんどん若くなり、はつらつとしています。
今は、私より若くなり、
絵を描き始めたあの頃、50歳ぐらいでしょうか。
私も夢の中で自然に若くなります。
夢は不思議です。

想像の翼を広げて

2015-01-01 10:12:07 | 

「風を感じて」

思い切り走りたい

そんなことを考えていたら
楽しくなって
小さな子供に戻り
どこまでも青く澄んだ空の下を
どこまでも続くクローバーの野っ原を
笑い転げながら

ほんとうに

友だちと鬼ごっこをしているような気がして
嬉しくて仕方なかった

神さま。ありがとうございます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今年もよろしくお願いいたします。

ちょっと冒険して来ました。

2014-09-19 11:33:49 | 日常
今年の夏の異常気象はひどかったように感じました。
去年の夏の暑さのことは忘れてしまい、何をしていたのかもわかりません。
家にいることが多くなり、物忘れが激しくなって来ています。リハビリも休んでいます。
動くためにはお薬をいつもより多く飲まなければならないので、つい、億劫になって、出かけなくなってしまいます。
こんなことではいけないと、ずっと行きたいと思っていました天王寺美術館で開催中の「子ども展」に行って来ました。
若い頃、いくらでも歩けた時と違い、腰痛持ちになった私はタクシーのお世話になっています。それも感謝なことです。

山本駅までは歩きました。電車に乗り、上本町まで、そこからタクシーを利用しました。
運転手さんは優しい方でなるべく近くまで行ってあげると、道を探してくださいました。
美術館まであと少しというところで、ガードマンのような方が立っておられて、「ここからは前もって許可を受けてないと車で入れません。」と言われました。
運転手さんは怒りに満ちた表情でいろいろ交渉してくださいましたが、決まりは変えようもなく、「私は歩けます。」と、歩行器を下してもらって、緑の木々の坂道を登りました。振り向くと、まだ、運転手さんはガードマンの方と話をされていました。
この前の時は、教会の姉妹方と一緒に車で連れて来ていただいて、地下の駐車場から階段で登りました。重い歩行器は姉妹が持って上ってくださり、私は申し訳ない思いでいっぱいでした。

チケット売り場で、正面玄関を教えられ、横の長いスロープを「よいしょ、よいしょ。」と登りました。

絵は、モネ、ルノワール、ルソー、マティス、ピカソを始めとする18~20世紀の主にフランスで活躍した画家たち47人による、86点の作品が出展です。
絵をじっくり観ていますと、頸椎症の私は首の痛みがひどくなり、数か月苦しまなければならず、さっと観て終わります。
絵の中の子どもたちは、時代を感じさせる、豪華な額縁のどれも愛らしく、可愛いものばかりでした。楽しませてもらいました。
絵葉書は思ったより安く、一枚、120円でした。少し買いました。
図録は本が増えるので買いませんでした。これも年のせいです。

昔、美術館南側の階段を降りたところに美味しいケーキのある喫茶店があり、行きたいと思いましたが、歩行器では階段がダメなので、エレベーターのところに「2階に喫茶」と書いてありましたので、行ってみましたら、小さな喫茶コーナーがあり、誰もいませんでした。
アップルポテトケーキと冷たい紅茶をいただきました。小さいケーキでとても美味しかったです。お客さんは私一人でゆっくり休ませていただき、お店の人に「美味しかったです」とお勘定の時に言いますと、お店の女性の方も素敵な笑顔をくださり、嬉しかったです。

天王寺公園へスロープを上ったり下りたりして行きましたら、すっかり、変わっていました。お花がないんです。人もいません。昔は憩いの場で、歌を歌う人あり、お花に囲まれ、人が沢山おられたのに、大阪市財政難の厳しさをこんなところで思い知らされました。
タクシー乗り場まで汗しながら、やっと行き着き、上本町まで帰りました。

昔、私がいた谷町筋も変わっていました。また、ゆっくり、歩いてみたいものです。

上本町デパ地下で夕食を買って、疲れたので、山本からタクシーにまた乗って帰りました。
疲れたけれど、楽しい一日を過ごさせていただけたことを神さまに感謝して、横になりました。

また、いろんなところに動けるあいだに出かけてみたいです。

ずっとお休みしていました。

2014-07-24 10:26:03 | 日常
暑い日が続きます。
長いあいだ、ブログをお休みしていました。
来てくださった方、ほんとうにごめんなさい。

私は言語障害があるので、思いを飲み込み、我慢することが多いです。
そんなことから、手紙はよく書きました。
それが手紙がなかなか書けなくなり、お礼も簡単なメールで済まし、お手紙のお返事も忘れたころにしたり、言葉が通じることを祈りつつ、電話で済ましたりしていました。

このあいだ、少し辛い目に続けて会いました。
と言うよりも、私の存在自体が申し訳ないという思いもありました。詳しくは書けません。
今はみんなが優しくしてくださいます。私と普通に対応してくださいます。
そんなことに驚きながらも、感謝しておりました。
辛いことは、私の障がいについての反応です。昔なら、こんなことは当たり前です。
その起こった場所もショックなことでした。
ずっと落ち込んでいました。相談しようにも悪口になるようで言えません。
相手の方々の反応も、私が鏡を見れば当然です。わかっているのです。
神さまにお任せすれば、何にも考えることもないんです。

そんな時に与えられたのがこのみことばです。
取るに足りないことで時間をつぶしてしまいました。反省です。

第Ⅰコリント人への手紙13章4~8節

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

何事も前向きに、これから、また、心機一転、手紙や文章を書かせていただきたいです。
よろしくお願いします。

「お交わり」

2013-11-05 16:41:08 | 日常
主にあるお交わりをいただいきました。
優しい姉妹がご実家にお帰りだと聞き、お宅にお訪ねさせていただきました。ご近所と言ってもゆっくり歩いて25分ぐらいでしょうか。
何年振りかでお会いしました。
穏やかに、静かに近況をお話なさる姉妹に、私は嬉しくうなづきながら感謝しました。
息子さんがご結婚されて、お嫁さんの御両親とお会いされたと、お写真を見せていただきながら、お話を伺いました。
「神さまが良くしてくださって、感謝です。」と繰り返し言われる姉妹は、困難を乗り越えられた喜びに満ちておられました。
祈り合った若き日が懐かしく思い出されます。
いい時を与えてくださった神さまに感謝し、犬が待つ我家に歩行器を押して、私の気持ちも穏やかに賛美しつつ帰りました。

ああ、良かったです。

2013-10-05 07:43:19 | 日常
9月の初めに養護学校のクラスメートからメールが来ました。
「М先生が体調を崩されている。何か聞いてないか。何かわかれば教えてほしい。寂しいことだ。」と言うのです。
М先生は中学部の3年間、担任をしてくだった優しい先生です。私が本を読むきっかけを与えてくださった先生です。

私は、まず、どんな絵を描いても褒めてくださる美術の女性の先生にお電話しました。
昔、中学部クラス女子全員と言っても6人です。М先生の京都のお宅を訪ねました。その時に偶然に美術のA先生が来られ、A先生のお宅にもお邪魔した覚えがあったからです。
A先生は、「今、М先生とお付き合いがないから、わからない。」とお話されました。

次にМ先生と親友で小学部の担任のクリスチャンのI先生に。先生も奥さまも私の声に慣れておられるので安心してお電話ができます。で、お電話しましたら、「現在、この電話は使われていません。」と言うアナウンスが聞こえました。何度も再ダイヤルしましたが、同じでした。こうなると、I先生のことも心配になります。そこで、「お電話が不通になっているようですからお電話をください。」と、I先生にハガキを出しました。2日ほどしてお電話があり、「何事ですか。」と言う感じです。I先生はお元気だとわかりました。М先生の症状をご存知なら、I先生からおっしゃると思い、何も聞かず、電話を切りました。
私が電話番号を間違って押したようです。これからは慎重にしなければ。

次はお向かいの養護学校の分校にお勤めされておられて、今は退職されているお向かいの奥さんにお聞きしましたら、友だちに聞いてあげるとおっしゃられ、待つことにしました。数日して伺いましたら、「ごめん。忘れていた。聞いておくわ。」とのお話。待ちました。
しばらくして、お聞きしましたら、「友達が知らないので、友達の友達に聞いてみる。」とのお話です。お向かいの奥さんもとてもお忙しい方です。

これは、直接、М先生にお聞きするしかありません。
おウチの方が出られて、切られることを覚悟して、私の声で通じることを祈って、電話番号を慎重に押しました。すると、出られたのがМ先生でした。先生は私がお聞きする前にご自分の病状経過を話され、完治されたとの嬉しいお話で、旧約聖書をお友達と読んでおられるということでした。

先生方も80歳を越えられるお歳になられておられます。

ああ、三人のお世話になった先生方もお元気で、ほんとうに良かったです。神さまに感謝いたしました。

クラスメートには、嬉しくメールで連絡しました。

これからは恐れずに慎重に電話を掛けることにします。

大阪府立堺養護学校(今は校名が変わっているようです)

2013-08-24 13:04:38 | 思い出
養護学校のスクールバスは昔懐かしいボンネットバスで、梅田、天満、上本町、天王寺と、子供たちを乗せて行きました。堺市内の子供たちが多かったように思います。
毎日が遠足のような感じで、バスの中もラジオが掛かっていて楽しかったです。
最初は勉強をした覚えがありませんが、早くも覚えることが苦手な私は国語が苦手科目になり、算数が好きでした。私たち一年生は、おとなしいクラスというイメージでした。
今で言う、リハビリも「治療」と言う科目で週に二時間あり、障害に応じた治療がなされました。
六時間の科目が済むと、また、スクールバスに乗って帰ります。だから、私が上本町から家に帰る頃には、近所の子供たちの下校時間より遅くなりました。でも、土曜日だけは三時間で帰るので、生玉小学校から大所して下校して来る子供たちと会うのが嫌な時間に思えました。
(今の子供たちは優しく、私が歩行器で歩いていても振り返って見られることもありません。私が大人になったからでしょうか。時代が変わったからでしょうか。「何かお手伝いしましょうか。」と言われるには、ほんとうに驚きます。)
ある時、上本町から家へと歩いていますと、ひとりの男の子にからかわれ、不覚にも泣いてしまいました。親にはそんなことは言えませんから、いつものように家に帰ると、母は私が泣かされたことを知っていました。魚屋さんの前でそんなことがあり、魚屋さんから電話があったと言うのです。「お譲ちゃんがいじめられていたから、ウチから飛び出して、男の子を叱った。」と言うのです。そんなことは何もなかったのに、大人はおかしいことを言うものだと思いました。母には何も言いませんでした。
養護学校は、私たちが二年生になると、一年生が二クラスとなり、三年生になると、一年生は三クラスになりました。今はどんな形になっているのか、わかりませんが、一学年、三クラス制となりました。
それに伴い、校舎も建て増しがあり、バスが増えたり、早く行く組と、遅く行く組みがあったり、バスが何往復もしたりしました。
私たちが高等部になると歩ける生徒たちは電車通学になりました。各駅停車の電車も本を読める楽しい時なりました。

いろんな出会いがあり、いろんなことを教えていただいた養護学校の楽しく、とても長く、幸せに感じる、思い出深い12年間を今も感謝しています。

母もPTAの役員をずっとさせていただき、肢体不自由児協会の会員でもあり、母としても意義ある活動ができて良かったと私は感じます。

生玉幼稚園

2013-08-05 09:20:13 | 思い出
話は前後しますが、

私の最初の記憶は、よちよちと表に出て、転び、泣いて、ウチに入ったことです。
谷町筋がまだ細い道で、お隣りが尼寺でお灸で有名なお寺でした。
お灸のある23467の日は、出店も出て、お祭りのような毎日でした。
おじゅっさんにもお寺の人にも可愛がっていただきました。
母に叱られると言いつけに行きました。すると、優しく慰めてくださいました。
幼稚園の入園式から帰るとすぐに制服も見てもらいに行き、写真を撮っていただきました。
お灸に来られる方は多く、遊びのようにお向かいの子と下足番を手伝いに行きました。
近所の子たちは物心付いた時から私と遊んでいましたから、いじめもなく、仲良くしてくれました。
母が申しますには、幼い頃の私は言うことを聞かない手に負えない子供だったそうです。
私は近所の子供たちと共に幼稚園に一年間行きました。
生玉神社のすぐ近くです。
朝、友達が迎えに来てくれて、一緒に行きました。
絵を描いたり、歌を歌ったり、遊んだり、楽しいと言えば楽しかったです。 
体育の時間はテラスでお休みしていました。
でも不思議に生玉小学校のプールに入った覚えがあります。幼稚園にプールがありませんでした。
先生に連れられて列になって、生玉小学校にはみんなでよく行きました。
母は最初の頃、小さな弟を連れて、慣れるまで付き添ってくれました。
ちょっと評判の悪い女の子がいました。女の子は私を見ると早速嫌がらせを始めました。
母は、帰りに、その子に「仲良くしてね。」とガムをあげました。
それから、そのナオミちゃんという子と私はいつも一緒にいることになりました。
優しくしてくれたナオミちゃんは小学校に上がるとすぐに引っ越したようでした。
幸せになっていて欲しいと思っています。もう一度、会いたいと思う人の一人です。
でも、幼稚園に行くのは何か気が進まず、よく休みました。
私の性格も変わり、おとなしい子になったと母は申します。私もそう感じます。
こういう私の性格は好きではありませんが、性格はまた変わって行きます。

養護学校の入学は、私にとって、嬉しくてたまらないことにとなりました。
とにかく、学校に行くのが楽しかったです。
担任の先生は、母と見学に行った肢体不自由児の学園「希望学園」でお会いした、幼い私にはおばあさんに見えた森先生でした。
希望学園は、養護学校の二年生から五年生になった子供たちが多かったと思います。
私は低学年なので、詳しいことはわかりません。


初めての試験

2013-08-03 08:24:31 | 思い出
昨日の続きです。

私の記憶にあるS野さんご一家の記憶の始まりは突然に養護学校の試験の前からです。
母は玩具屋さんで、洋服を着た人形と着ていない人形を買い、S野さん宅を訪ねました。洋服を着た人形をお土産にして、洋服を着ていない人形は私にくれました。これは母の精一杯の気持だったと計り知るのはあとのことです。
女の子はU子ちゃんという、おとなしそうな感じの3人姉妹の末っ子で、おばあさんにとても可愛がられていました。
そのあと、何日か、何週間かして、一緒に新設される養護学校の試験を受けに阪和線の百舌鳥まで行きました。
畠と田んぼと草むらの中を通って行きました。試験は聾学校でありました。
沢山の人たちがいて、校庭も廊下も人であふれていました。
口答の試験のようなものがあり、試験をしてくださった先生のお名前も入学してわかりました。
養護学校は聾学校の向かいに新しく創設されました。養護学校の設立は1956年5月1日です。
あまりに多くの方が受けに来られていましたので、入学出来ないかも知れないと母は言っていたように思います。
帰りに仁徳天皇陵に行きました。御陵のその当時の印象は、「何もないところだった。」でした。今はきれいに整備されているようです。
養護学校にはU子ちゃんと一緒に幸いにも行けることになり、同じ学級になりましたすが、彼女は学年が遅れていたので、一学年上のクラスになりました。
学校は一年生から五年生までありました。一学年一クラス、12、3人から18人の小さな学校からの始まりでした。
学校設立のために運動して来られた方々のお子さんたちが入学出来ず、入学の基準がどこにあったのか、全くわからないことでした。

母が勇気をもらった

2013-08-02 10:51:30 | 思い出
私たち家族が上本町8丁目にいた頃、63年以上前の昔の話です。

まだ赤ん坊の私をお風呂屋さんに連れて行った時に、障害のある女の子を連れて来ていたお母さんとの出会いが母を変える一因となりました。
女の子は私より5才年上で、生涯を通して現在に至るまでの私の親友となっています。
その彼女は、このブログも始めるように勧めてくれ、そして、何よりもイエスさまのところに案内してくれたのです。
それはまたの機会に詳しくお話しさせていただくことにします。

母は、その当時、同じ障害を持つ、そのS野さんという親子を初めて見かけて、話しかけ、そして、それが、どんなに嬉しかったか、大きな勇気をもらったかを、その後、私が母から何度も聞く話となります。
そのお母さんは絶世の美女であられ、上品で、優しく、賢く、字もきれい。非の打ちどころのない方で、母の憧れの人となりました。
私の記憶にはないことで、よくわからないのですが、慶応病院で脊髄から隋液を取り、空気を入れる治療を2度しました。
1度目は東京にいた祖母の弟の家で気を遣って、病院へ通ったそうです。その効果があり、私が歩けるようになったと言うのです。母は喜んで泣いて付いて歩いたそうです。
2度目は父のしていた事業も軌道に乗り、産まれたばかりの弟と「ねえちゃん」というお手伝いをしてくださる方と行きました。その時は効果なく、言語障害が重くなったというのです。
その時に写した写真があるんです。母は昔からカメラを持ち歩いており、私の年では珍しい写真が少なからずあります。
その治療は養護学校の友人たちも受けており、「とても痛かった。苦しかった。」ということです。効果はほとんどないとのことです。
歩いたのも、言語障害が重くなったのも「そういう時」だったのではないかと、記憶のないことに、私は心ひそかに思って来ました。
大阪でもできる治療をなぜ東京まで行ったのかと思っておりましたら、ずっと後になって、知ることですが、S野さんご一家がご主人の転勤で東京におられ、その慶応病院の治療もS野さんに誘われて一緒に受けたということでした。