教育委員会の「伊勢山田之図」は、案内板の絵図だけでなく、すでに、いくつかの書物に見られる。
ざっとひろっても
「伊勢古市の文学と歴史」「河崎」「山田の歴史」などの立派な書物です。↓
伊勢教育委員会のお墨付きがあるものを 原物と同じもの つまりコピーとして採用したのは当然ことです。が、罪な話です。
確かに、世義寺が世儀寺と書かれているのはおかしい。でもわざわざ修正する必要はない。原図を保管されている方が「してはならないこと」と言われましたが 至極ごもっともです 。ただ修正したくなる気持ちはわかります、義に人偏がついているだけですが、地域の常識からすると それは考えられないのです。過去においても同じで、作成者は、地元の者ではないかもしれません。
この絵図で疑問に思われるのは、先にあげたようんに、
文化12年(1815年)作成のこの図に文政5年(1822年)のことが書かれている、
明治22年に神苑会によって造られたとされるされる勾玉池が描かれている。
小田の橋のとなりに 岡本の字(あざ)の小田が書かれていることです。
小田川の水門など その場所は、先に触れましたが。
特に小田は、宇治と山田の合戦の歴史の中にでてくるから、誤解を生みかねません。
たとえば、本居記念館の(年譜)ページに、
「小田橋は、瀬田川に架かる橋で、古来、外宮・内宮神人間の紛争や、北畠氏の関所(岡本番屋)等で知られる」 と書かれるという次第です。(なお瀬田川→勢田川)
上記は、 伊勢国司の北畠が長禄4年に関所(山田関)を設けていた場所は岡本の小田ですが、その小田を、この伊勢山田之図に書かれている小田のところだと 勘違いしているのだと思います。
そもそも、岡本には下ノ切、中切 、上ノ切、滝浪、小田、梶ヶ森などの字(あざ)があり、小田の橋の西隣は、字 下ノ切でした。
その時代(室町)は、まだ、間の山は墓地で行き止まりであり、古市も、久世戸から、朝熊岳へ行くための 通り道であり参宮道とはいえなかった。 スノコ橋はあったとしても、小田の橋でさえ、あったかどうかわかりません。
室町当時は、外宮から内宮の参宮道は岡本を南下し勢田の通る今の御木本道路に沿った道でした。 田丸からは近いところであり、当時の主流だったのはこの参宮街道だった。田丸の岩出の渡しを通る参宮道と交わる道でもありました。
岡本の字(あざ)小田は、小田の橋のあたりと思われがちですが、今の世義寺橋を渡って右側の所(勢田川改修以前は川が蛇行して広い場所だった)であったといえます。もし、江戸時代のように、小田の橋が参宮道だったとしても、関所をつくるのは無理です。この関所なら ここを通らず内宮へ行ける道が他に幾つもあるからです。
なぜ他の古地図にはなく 違う字(あざ)の場所にもかかわらず、伊勢山田之図にこの小田が載っているかは
①小田の橋のそばであり、江戸後期に 小田と呼ばれるようになった?。
② 書き(写し)間違え?
① 下の切というところで、いくら小田の橋の傍でも、字(あざ)が 下の切から小田に取って変わるとは思えない
②世義寺を世儀寺と書くぐらいだから、地元の常識に落度があり、写し間違いの可能性はある
さて、この伊勢山田之図や、伊勢山田並の図 は、そのモデルといえる絵図があります。18世紀の山田惣絵図を参考にしているのはいちもく一目瞭然です。そのため書写している時に、上記の理由で、写しまちがえも 考えられないことではない。
伊勢山田之図 ↓ 山田惣絵図↓
山田惣絵図で、小田と書いてあるところは 見にくいですが、「岡本小田のはし」です。両方とも、 小田と書かれている位置が同じであり、伊勢山田之図は、小田の字だけ書くという、写し間違えをしたかもしれない。
やはり、
伊勢山田之図には、疑問点が多く、とりあえず 小田の橋や牛谷坂にある
この絵図は 撤去してもらおうと思っております。