花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「越後上布」について

2011-06-29 | 越後上布について

presented by hanamura


まもなく7月ですね。
九州では平年より早く梅雨明け宣言がだされました。
東京でも、晴れた日には陽射しが照りつけ、日傘が手放せません。

暑くなってくると、
お着物は敬遠されてしまいがちですね。
しかしお着物ほど、品良く涼感を演出できるお召しものは
他にないのではないでしょうか。
眩しい陽射しの中でお着物をお召しになっている方の
凛とした佇まいはとても美しいものですね。

とくに、これからの季節にお召しになる
透け感のあるお着物は、涼やかなのはもちろんのこと、
夏着物特有の艶も感じられます。

また、夏ならではの麻素材のお着物は、
身体の中を風が吹きぬけるような着心地の良さがあり、
盛夏のお出かけにはぴったりです。

今日は、その中でも最上級の麻のお着物、
越後上布についてお話しましょう。

越後上布は、新潟県の小千谷、十日町、魚沼市、南魚沼市を中心に
古来より受け継がれてきた伝統的な麻織物です。

昔から、良質なお米の産地としても知られてるこの地方は、
日本でも有数の豪雪地帯でもあります。

そのため、農業を営んでいる農家の人々は、
半年近くも雪に覆われる農閑期になると、
織物を織ることによって生活の糧を得てきました。

雪は、時に自然災害を招きますが、
一方で、豊かな恵みももたらします。

春になって溶けた雪解け水が
豊かな水源となり、
良質なお米や蚕の食料となる桑の葉、
越後上布に用いられる芋麻(ちょま、からむし)を育ててきたのです。

この地方で織物が盛んに行われているのは、
人々が過酷な自然の中で自然と共存し、
生きぬいてきた証しでもあります。

越後上布はそのような環境の中で
1,000年以上も織り続けられ、
1955年には国の重要無形文化財に指定されました。

越後上布は古来より貴重品として扱われ、
すでに奈良時代の頃には都への献上品ともなっていました。
以降も、越後上布は時の権力者への貢ぎ物として
欠かすことができないものでした。
江戸時代には、武士が着る夏用の裃としても用いられました。

その越後上布を織り上げる工程は
まず糸つくりからはじまります。
越後上布の原料である芋麻の繊維を細く裂き、
1本ずつ手で撚りながら繋げ、長い糸にします。
髪の毛ほどの糸を撚り、
着物一反分の糸をつくるには、100日近くを要します。

撚られた糸は、地機(じばた)にかけられ、
丹念に織り上げられていきます。
細くて繊細な糸を用いて織るには、
繊細な技術力が必要とされ、
一反を織り上げるには
さらに80日を要します。

このときに、雪が積もり生じた湿度は
適度な湿度を必要とする細い麻糸にとってまさに最適なのです。

こうして時間をかけて
丹念に織り上げられた反物は、
雪の積もった2月から4月の晴れた日に雪の上に晒されます。
雪が溶けて発生した水蒸気が、
紫外線に当たりオゾンとなります。
このオゾンのもつ漂白作用により、黄ばみがかった麻の色が白くなるのです。

こうして織り上げられた越後上布は、
身にまとったときにふんわりと軽い着心地です。




上の写真は白色地の越後上布です。
空の青さが映りこんだような冷ややかな白さをもつ地には
雪の美しさを思わせる透明感さえ感じられます。
微細に織り出された幾何学文様は、雪の結晶にも見えます。

厳寒の季節に雪が織り上げたともいえる織布を
陽射しが照りつける盛夏に身にまとうということは、
やはりお着物ならではの洒脱な楽しみと言えますね。

※写真は花邑 銀座店にてご紹介しているお着物です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は7月6日(水)予定です。

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「蜻蛉(とんぼ)文様」について

2011-06-22 | 文様について

presented by hanamura


夏至を迎え、一年中で一番日が長い時期になりました。
梅雨の曇り空が多いため、
日の長さをあまり実感できないのですが、
梅雨晴れの日には、夜の 7 時過ぎまで空が明るく、
美しい夕暮れの雲を眺めることができます。

日の暮れかかった街を歩くことも、
これからの季節の楽しみのひとつですね。
涼を求めて川べりなどを散策する方も多いことでしょう。
河原などの水辺の光景は、
眺めているだけでも涼やかな気持ちになり、
ひとときの間、日中の暑さを忘れさせてくれます。

夏の間、水辺には人だけではなく、
よく眺めるとたくさんの虫たちが集まっています。
蚊や蝿などはご遠慮願いたいところですが、
同じ虫でも蜻蛉の姿をみかけると、
思わずうれしくなってしまいますね。

蜻蛉というと有名な童謡「赤とんぼ」のイメージや
俳句では秋の季語にもなっているので、
秋の風景を連想してしまいますが、
実際は春から秋にかけてさまざまな蜻蛉を見ることができます。

今日はこの蜻蛉(とんぼ)文様について
お話ししましょう。

蜻蛉は、古来より世界中に棲息している昆虫です。
蜻蛉の先祖は、およそ 3 億年以上前に棲息していた昆虫ともいわれ、
蜻蛉は古代の昆虫の生き残りともされています。
その種は 5,000 種にもなり、
日本にはそのうちの 200 種が棲息しています。

古くから棲息していたようで、
弥生時代の遺跡からは蜻蛉が描かれた銅鐸も出土しています。
素早く餌を捕らえる勇ましい蜻蛉の姿が崇拝され、
信仰の対象になっていたと考えられています。

古代、蜻蛉は「秋津(アキツ、アキヅ)」とよばれていました。

古代の日本では日本のことを指して
「秋津島(あきつしま)」とよんでいましたが、
この「秋津」とは、蜻蛉のことを指しています。
この名前は日本神話に登場する神武天皇が
日本を一望したときに、そのかたちが蜻蛉に似ているといったことから付けられたようです。

また、平安時代には生命の儚い蜻蛉の姿が
陽炎に例えられ「蜻蛉(かげろう)」ともよばれました。

蜻蛉(とんぼ)という名前でよばれるようになったのは、
鎌倉時代の頃です。
蜻蛉(とんぼ)の名前の由来は定かではありません。
一説には、蜻蛉が羽根を広げ飛んでいる姿が、
穂が飛んでいる光景を思わせ、
「飛ぶ穂」が「とんぼ」となったと言われています。
また、「飛ぶ棒」が「とんぼ」になったという説もあります。
いずれにしても、蜻蛉は庶民に親しみやすいよび名として、
広く定着していきました。

戦国時代になると、前にしか進まず、退かないという蜻蛉の性質から、
強い虫をあらわす「勝虫」や「勝軍虫」とも言われ、
蜻蛉の文様は縁起物として
武士に好まれ、武具や着物の文様として用いられました。

その中でも、勝負と同音の菖蒲に蜻蛉が組み合わされた文様や、
矢に蜻蛉が組み合わされた文様は、
とくに縁起がよいものとされました。



江戸時代になると、蜻蛉は縁起の良い文様としてだけではなく、
水辺の風情をあらわすものとしても
着物や帯の意匠に用いられるようになりました。
上の写真の名古屋帯は、水辺に咲き誇る撫子や萩といった草花に、
蜻蛉が飛ぶ夏の風情ある光景をあらわした絽の夏帯です。

また、江戸時代には「蜻蛉玉」という小さなガラス玉が人気を博しました。
名前の由来は、澄んだ小さな丸い玉が、蜻蛉の目を連想させることから付けられました。

蜻蛉玉は帯留めや玉かんざしにも用いられています。
小さな蜻蛉玉は夏の帯にも、
異国情緒のある更紗の帯にもとても良く合い、
装いのさりげないアクセントとして現代でも人気があります。

※写真は花邑 銀座店にてご紹介している名古屋帯です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は6月29日(水)予定です。

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「花車文様」について

2011-06-16 | 文様について

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6月も半ばを迎え、沖縄では早くも梅雨明け宣言が出されました。
しかし東京では、まだまだ雨の降る日も多く、
色鮮やかな紫陽花が満開です。

季節を彩る草花を見ると、
四季のある日本の自然豊かさが感じられますね。
その一方で、その時期に咲いて散っていく草花の姿からは、
時の移ろいや儚さをも感じられます。

着物や帯の意匠では、
季節を代表する草花をあらわし、
草花同様にその季節限定の装いを楽しむものも多いですね。

しかし、季節限定ではなく
四季折々の美しい草花が一堂に会した伝統文様も多くあります。
今日お話しする「花車文様」もその中のひとつです。



花車文様とは、御所車に
梅、桜、杜若、藤、萩などの春夏秋冬の草花が配された文様です。

御所車とは、平安時代に貴族が乗っていた牛車(ぎっしゃ)のことです。
当時、御所車に乗ることができたのは一部の貴族のみでした。
御所車には持ち主の権威を示す華やかな装飾が施され、
中には金銀があしらわれたとくに豪華なものもありました。
御所車は乗る人の身分や用途によって、
その様式も異なっていたようです。

豪奢な御所車の姿は、人々を魅了し、
当時書かれた源氏物語の中には、
この御所車が度々登場して、
物語の中で重要な役割を担っています。

しかし、貴族社会が衰退し、鎌倉時代になると、
非実用的な御所車は使用されなくなっていきました。
そして時代を経るにつれ、
人力で持ち上げて人を運ぶ輿(こし)や駕籠(かご)などの実用的な乗り物が
御所車にとって変わるようになったのです。

この御所車が意匠のモチーフとして文様化されたのは江戸時代です。
当時、典雅で華麗な平安時代の文化に対する憧れが高まり、
着物の意匠に古典文様が多用されるようになりました。
なかでも御所車は、源氏物語を象徴する、
物語性を秘めた文様として人気を集めました。

また、四季折々の草花を組み合わせた意匠も、
同じように流行しました。
当時、貴族や武士たちの間で華道が広まり、
家々で花を飾ることが盛んになりました。
この華道の広がりとともに、
四季の草花を盛り込んだ華麗な花文様がつくられるようになったのです。

当時流行したこの二つの文様が組み合わされた花車文様は
人々の美意識が凝縮した文様とも言えるでしょう。

御所車に載せられた草花からは、
源氏物語に登場する女性たちの姿が連想させられます。
そこには、時の移ろいや儚さといった、
源氏物語の主題でもあるものの「あはれ」が
見事にあらわされているといえるのではないでしょうか。

※写真は花邑 銀座店にてご紹介している名古屋帯です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は6月22日(水)予定です。

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「蔦文様」について

2011-06-08 | 文様について

presented by hanamura


梅雨に入り、日増しに暑くなってきました。
雨の恵みを受けて育った若葉は、
青々とした葉を空に向かって広げています。

家々の庭先や塀などを眺めてみると、
蔦がお日さまに向かって上へ上へと
その蔓を伸ばしています。
自然のもつ生命力の強さが感じられる光景です。

今日は、その蔦の文様についてお話ししましょう。

蔦は、世界各地に自生する植物で、
西欧では「アイビー」の名前で古来より親しまれてきました。
古代エジプトでは悪酔いを防ぐといわれ、
薬草にもされていました。

古代ギリシャの遺跡からは、
蔦と唐草を組み合わせた蔦唐草文様の陶器などが
多く出土しています。

西欧では、家の壁に這わせた蔦が、
邪気を払うと考えられ、
茂った蔦が裕福の象徴ともされました。

日本でも蔦は古くから一般的で、
すでに平安時代には絵巻物などに描かれています。
ただし当時の日本で蔦と言えば、
青々とした様子よりももしろ赤く紅葉した様子が好まれていました。
そのため、蔦を題材にして当時詠まれた和歌には、
秋の風情を感じさせるものが多いようです。

以前から文様としても多く用いられてきた蔦は、
桃山時代になると、着物の意匠にもあしらわれるようになりました。
当時、勢いがあった武家の間で、
生命力のある蔦は、縁起の良いものとされました。

江戸時代になると、
徳川吉宗が蔦の文様を好んで用いたことから、
町民の間にも蔦文様が広まりました。
一方、芸妓や遊女たちの間でも
蔓が絡まり伸びることから、
客が離れないとして人気を得ていました。

また、当時活躍した絵師の俵屋宗達は、
「伊勢物語」にも書かれた
宇津の山にある蔦の細道を題材に、
下の写真の屏風絵「蔦の細道」を手がけました。



悠々とした山並みに生い茂った蔦を
緑青色であらわした屏風絵に添えられた和歌は
それ自体も蔦の一部のようにも見え、
無限に蔓を伸ばす蔦の生命力が感じられる名作です。



上の写真は、
蔦文様が紗に織り込まれた夏季用の名古屋帯です。
金糸であらわされた典雅な趣きの蔦文様が光の加減によってきらめき、
蔦の持つ生命力がその輝きとともに強く感じられる帯です。

生命力がみなぎる夏に向かい、
蔦のように伸びやかに、そしていきいきと
日々を過ごしていきたいものですね。

※写真は花邑 銀座店にてご紹介している名古屋帯です。

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「分胴文様」について

2011-06-01 | 文様について

presented by hanamura


今日から 6 月ですね。
東京では例年より早い梅雨入り宣言が出され、
その通りに連日、雨雲が広がっています。
あちこちの庭先では紫陽花が咲きはじめました。

梅雨の時期には、
気持ちまでふさぎがちになりますが、
吉祥文様があらわされたお着物を身にまとって、
縁起を担いで明るくいきたいところですね。

日本の文様には、実にたくさんの吉祥文様がありますが、
今日はその中のひとつ、
分銅文様についてお話ししましょう。

分銅文様の「分胴」とは、
目方を量るときに天秤量りの天秤皿に載せる重りの分銅のことです。
みなさんも学生時代に授業で使ったことがあるのではないでしょうか。
現代では、分銅と聞いて思い浮かべるのは、筒状の形をしたものです。

しかし、室町時代の頃に用いられていた分銅は現代と形が異なり、
円形の真中がくびれたような姿をしていたのです。

その形は、着物に縁が深い蚕の繭の形に由来しています。
当時、蚕の繭からつくられる絹糸は
とても高価で、同じ重さの金とも交換されていました。

そのため、金と同等の価値を持つ絹糸が採れる繭に見立て、
その形が考案されたのです。

分胴は、貨幣として使用されていた金や銀の重さを
天秤で測るときに用いられていました。
天秤の一方に金銀を乗せ、
もう一方に分胴をのせて目方を測り、
その価値を定めていたのです。

安土桃山時代に豊臣秀吉は、
「法馬金」とよばれる
金や銀を小分けにしてこの分胴の形に鋳造したものを
いざというときのために蓄え、備えていました。

ものの価値を定め、時の権力者の蓄財の意匠にも用いられた分胴は、
お宝=縁起の良い物とされ、
江戸時代の頃になると文様化されるようになりました。
縁起の良い物ばかりが集められて意匠化された「宝尽くし文様」の中にも
その姿を見ることができます。

後にはこの分胴の形を連続的に繋げてあらわした、
「分胴繋ぎ文様」も考案され、
こちらも吉祥文様として着物や帯の意匠に用いられました。
実際の分胴は、青銅などでできた、硬く武骨なものですが、
分胴繋ぎ文様は、波型のやわらかい曲線であらわされ、
一見すると抽象的な幾何学文様に見えます。
そのため、簡素ながらも粋な文様として
たいへん人気を集めました。



上の写真の名古屋帯は、明治時代から大正時代につくられた
絹絽の丸帯からお仕立て替えしたものです。
分胴繋ぎに葡萄唐草を組み合わせた気品のある意匠となっています。

ちなみに、江戸時代に将軍が貯蓄していた金や銀の分胴は、
幕末の財政難によってそのほとんどが鋳潰(いつぶ)され、
消費されてしまったようです。
また、紙幣が用いられるようになるにつれて
分胴を利用することがなくなり、
分胴そのものも影が薄くなってしまいました。

それでも日本の地図を眺めると
分胴は銀行のシンボルマークとして残っています。


※写真は花邑 銀座店にてご紹介している名古屋帯です。

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