東京チャペルでやっているアルファコースで、聖霊について集中して学ぶアルファウィークエンドに参加。
いろいろ収穫が大きかったけど、とくに大きかったのは、「『三位一体』というけど、どうも自分が思っていたよりかなり『一体』らしいぞ」ということだった。以下、コースで学んだことや、牧師や他の参加者とのやりとりなどから得られた、現在の自分の理解をメモしておく。
たとえばイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた場面も、父と子と聖霊が一堂に会したというふうにしか見ていなかった。聖霊がイエスにくだったというのも、いわば"on"であって"in"とは思っていなかった。けれどすぐあとで、イエスが聖霊に満たされたとあるじゃないか。これは明らかに"in"だ。
-第三位格と第二位格が"in"って、どういうことだ?
-それが「一体」ということなのだよ。
そうすると、万物は御子によって創造されたというのも、理解がかわってくる。
父が子とともに、つまり"with"で創造をおこなったと思っていたのだけど、これも"in"なんじゃないか?
-父と子が"in"って、どっちがどっちの「中に」なんだ?
-どっちがというのではなく、まったく対等で一体なのだよ。
-そこまで三位が一体だとすると、今までヤハウェ(ヤーウェ、エホバ)は「父」の名だと思っていたけど、あるいは「三位一体としての神の名」なんだろうか。
-どちらかというとそうだろう。ヤーウェが「父」の名なら、キリストに向かってハレルヤ(ヤハウェをたたえよ)というのはおかしくなる。
-確かに、イエスも「父」をヤーウェと呼んだことはなかったね。
聖書を読んでみようではヤハウェは「父」の名としていたけど、あちこち直したくなってきたな。
-たとえば「キリストの霊」って出てくるけど、これは受肉の状態を離れて霊の状態になったキリスト?それとも聖霊?
-キリストは肉体を持ったまま昇天したから、「受肉の状態を離れて」というのはおかしいんじゃないか?だからそれは聖霊だろ。
-キリストは今この時にも、肉体(物質)をもったまま、天で神の右にいるということ?
-そうだから、キリストが初穂と呼ばれるんだろう。終わりの時には人も肉体を持って復活し、神の国に入ることになる。
今までの理解がかなりピンボケだったような気がする。
いろいろなことがパッと照らされて示されたような。
聖霊についての集中的な学びの中で、「もしかしたら聖霊のバプテスマを受けちゃうかも?でもって、異言で祈れるようになったりして?」という思いはあった。
結果として、そうはならなかった。けど、それでよかったのかもしれない。
気付かされたのは、私が聖霊を求めるとき、そこに「神がいるなら見せてみろ。そうしたら信じようじゃないか」という思いがあるのではないかということ。いわば「しるしを求める『悪い時代』の一人」だったということ。
主は聖霊を与える代わりに、そのことを気付かせたんじゃないだろうか。
いろいろ収穫が大きかったけど、とくに大きかったのは、「『三位一体』というけど、どうも自分が思っていたよりかなり『一体』らしいぞ」ということだった。以下、コースで学んだことや、牧師や他の参加者とのやりとりなどから得られた、現在の自分の理解をメモしておく。
たとえばイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた場面も、父と子と聖霊が一堂に会したというふうにしか見ていなかった。聖霊がイエスにくだったというのも、いわば"on"であって"in"とは思っていなかった。けれどすぐあとで、イエスが聖霊に満たされたとあるじゃないか。これは明らかに"in"だ。
-第三位格と第二位格が"in"って、どういうことだ?
-それが「一体」ということなのだよ。
そうすると、万物は御子によって創造されたというのも、理解がかわってくる。
父が子とともに、つまり"with"で創造をおこなったと思っていたのだけど、これも"in"なんじゃないか?
-父と子が"in"って、どっちがどっちの「中に」なんだ?
-どっちがというのではなく、まったく対等で一体なのだよ。
-そこまで三位が一体だとすると、今までヤハウェ(ヤーウェ、エホバ)は「父」の名だと思っていたけど、あるいは「三位一体としての神の名」なんだろうか。
-どちらかというとそうだろう。ヤーウェが「父」の名なら、キリストに向かってハレルヤ(ヤハウェをたたえよ)というのはおかしくなる。
-確かに、イエスも「父」をヤーウェと呼んだことはなかったね。
聖書を読んでみようではヤハウェは「父」の名としていたけど、あちこち直したくなってきたな。
-たとえば「キリストの霊」って出てくるけど、これは受肉の状態を離れて霊の状態になったキリスト?それとも聖霊?
-キリストは肉体を持ったまま昇天したから、「受肉の状態を離れて」というのはおかしいんじゃないか?だからそれは聖霊だろ。
-キリストは今この時にも、肉体(物質)をもったまま、天で神の右にいるということ?
-そうだから、キリストが初穂と呼ばれるんだろう。終わりの時には人も肉体を持って復活し、神の国に入ることになる。
今までの理解がかなりピンボケだったような気がする。
いろいろなことがパッと照らされて示されたような。
聖霊についての集中的な学びの中で、「もしかしたら聖霊のバプテスマを受けちゃうかも?でもって、異言で祈れるようになったりして?」という思いはあった。
結果として、そうはならなかった。けど、それでよかったのかもしれない。
気付かされたのは、私が聖霊を求めるとき、そこに「神がいるなら見せてみろ。そうしたら信じようじゃないか」という思いがあるのではないかということ。いわば「しるしを求める『悪い時代』の一人」だったということ。
主は聖霊を与える代わりに、そのことを気付かせたんじゃないだろうか。