第43代紫組要領次第

開成高校第43代紫組要領次第係のホームページ。

贈る言葉

2011-06-28 15:34:04 | Weblog
Aimer, ce n'est pas se regarder l'un l'autre, c'est regarder ensemble dans la même direction.

サンテグジュペリの言葉です。

英語訳は、
To love is not to look at one another: it is to look, together, in the same direction.

日本語にするなら、
愛するとはお互いを見詰め合うことではない。一緒に同じ方向を見て歩くことである。

Good luck!




追記1
せっかくのいい言葉でもすぐ、se regarderってのは代名動詞で、、、って文法解説したくなって、挙句の果てに、やっぱりmêmeの発音をねっとり言う感じのフランス語が一番アムールな雰囲気が出るよね、とか言い出したくなる自分は本当に粋じゃないね。うん。きっとそれが結婚相手が見つからない理由なんだろう。


追記2
または
「見詰め合っているうちは恋だ。同じ方向を見るようになったら愛だ。」
とか。

なんにせよ
Good luck!


まあ、俺が、贈る、なんて立場じゃないわな。赤面。

結婚考 放射能結婚式という一つのあり方

2011-06-28 15:33:46 | Weblog
今月は三件の結婚式があった。
内、二件は同じ高校の同じクラスの人が同じ日にやるという事態になってしまったため、片方はちょっとしか出れなかった。それだけが残念だった、などという負の表現は使わずに、みんながめでたかったし幸せそうだったからよかったとする!気持ちがあればいいの!気持ちだよ!気持ち!
年齢的にも結婚が立て続くわけで、来年の6月もきっと多くなるんでしょう。呼ばれることを祈りつつ。あと自分も結婚できることを祈りつつ。日本語か英語かフランス語できる人なら人種は問いませんよ。紹介してね。


さて、こうも三件も続くと、いろいろと思うわけで、それをきっちりと思ったままに書くことが大切だなあと思うわけであります。思った時に書かないと新鮮味がなくなって、内容の目新しさという意味の「新鮮さ」ではなくて、思ったという新鮮さ、わかりにくいね、まあいいや、とにかく、思った時に思ったように書いたほうが、いい、と思うのですよ。


まず、結婚式は楽しいものであるということだ。以前行ったことのある、親戚の結婚式は全然面白くなかったのであるが、やはり友人の結婚式は違う。これは、違う。うん。ずっと知ってきた人間が新しい環境で新しく出逢った人と新しい経験を積み重ねて最後に新しい一組の人生を始めるに至る、その流れの一瞬に身を置かせていただくというのは、もう、これは幸せとしか形容がしようがない。本人も幸せだろうが、これ、列席している吾輩も幸せになれるのである。

それは流れというか放射能なんです。愛の熱線とかそういうんじゃなくて、気合とか覚悟とか、いやそういう体育会系のそういうんでもなくて、なんていうか、思い、そう、思いの放射線放射能がばんばん発生してるんですよね。放射線って遺伝子を壊して身体に害をなすみたいな話があるけど、破壊って、必ずしも悪いことではなくて、創造的な破壊もあるはずで、その創造的な破壊っていうか、とにかくポジティブな放射能が70京ベクレルぐらい感じ続けるわけです。

ほとばしる「放射状に広がる直線的な何か」が会場を支配していました。
言葉になりません。
表現不能。
敢えていうなら、

○○(←新郎の名前)すごすぎる。。。

もうそれだけで、へとへとになりました。はい。二次会で難破もとい、ナンパするとかそんなエネルギーはなかったです。正社員じゃないからどうせ無理だし、とか卑屈になっていたし。はい、それは自分のくだらない話。めでたい方に話を戻す。


結婚式にはいろんな形があると知った。三件とも違う雰囲気で、出席者たちも雰囲気があって、この違いも楽しかった。

エンターテイメント産業で働く友人の結婚式では、なんていうか雰囲気がい意味で軽い。「おれの仕事なんて危機的な状況になったら一番最初に切られる仕事なんだけど、だからこそ面白くなくっちゃうんぬんかんぬん」ってことを笑いながら話す彼は、やはりなんでも楽しくひらりとこなしてしまうんだなあと思った。含み笑いをした彼が、バンド仲間の誘い笑いにやられてしまい、結局厳粛な誓いの場もなんだか始終笑いが絶えない素敵な雰囲気になってしまったのでした。ケーキに入刀した刀を勢いでなめてしまったり、それを近くにいた友人にも続けざまでなめさせてしまったりと、会が進めば進むほどカオスになって行った気がする。二次会が、駅前の居酒屋ってのも彼っぽい感じの力の抜けた感じで良かった。外語大の人たちは話しやすかった。

次に「神7」として扱ってもよい、我らの神、いや仏、兎に角いつも旅行をいい方向に導いてくれる■氏の結婚式である。これもすごい。まずイケメンである。伊勢谷友介
に似てるんじゃないか疑惑があったんだけど、「ほら竜馬伝の高杉晋作役の人」と言ってもだれもわかってくれなかったので、リンクを貼っておく。http://haiyudb.info/wp-content/uploads/2011/04/iseya.jpg
そのほかの感想は、もう言葉になりません。ようするにさっき書いた放射能だよ。それしかない。ポジティブ放射能結婚式。とりあえず愛の巣にはまた遊びに行こうと思ふ。

二次会は▽君の演奏がすばらしかった。自然発生的に二回目のさびでは会場から大合唱が起こってもうこれは、神降臨って感じでした。観たい方は内田にメールアドレスを送ってください。gmailアドレスが望ましいです。動画のリンクを送ります。音質が悪いので、今度はデジカメじゃなくて、本格的なビデオカメラを買っちゃおうかななんて思ったりしました。あとデジカメって動画撮影しながらズームしたり・明るさ調整できないのよね。それが不便。○○さん改善よろしく。KAIZEN。

最後に、ぎりぎり間に合った軍隊出身の夫婦の結婚式は、なんていうか、美人美男。もうごちそうさまです。勝てません。白旗上げますから、捕虜にしてください。という感じでした。ただ、列席者に坊主が多すぎるのは怖いですね。ごついし。うん。日本をぜひ守ってほしい。医療もぜひ守ってほしい。



思ったのは結婚式中、写真や動画をとることばかりに気を取られて。いや、大好きな仲間だから撮影したくなるわけですから別にいいんだけども、あまり、そのなんていうか、feelしていなかったかも、と気づいたのである。旅行中もよく三人で写真ばかり取っていると、「やばいおれらfeelしていない!レッツfeel!」なんてやってるわけで、もっともfeelしてもよかったかなあと思ったり。でも動画があると、再feelできるわけで、それもそれでよし、どっちもよし、めでたいからなんでもよし、ということで。

なんか感動しまくった二週間だったんだけど、文章に起こすとなんだかうまくかけない。文章力が足りないからなので、この辺でおしまい。

結婚式の二次会ってやっぱり出合いの場として大切だと思う。仕事していると同世代の女子との出会いなんて絶対に、そう絶対にないし、婚活支援サイトでは、内田:いし:年収いくら:身長いくら、みたいなスペックでしか見てもらえないし、そういうのは嫌だし。こういうワンチャンスワンチャンスをちゃんと生かしていかないと自分の結婚なんて本当に「来世マター」になってしまう。

まあ、友人の結婚式でも十分幸せを感じたから「来世マター」でも全然いいんだけどね。来世来い。早く来い。恋よ来い。鯉も来い。故意で漕いで来い。

追記:そいや、ずっとクラスが一緒でバンドも一緒にやってた、その友人に子供が生まれるそうで。彼は自分を結婚式に呼ばなかったけしからんやつなので、今度家に訪問するという約束に漕ぎつけた。本当にけしからんやつだ。まあこれもめでたいからよしとする。

祝ってばかりもいられん。俺もそろそろ、一緒に歩いてくれる人を見つけなくっちゃな。正社員じゃないけど、安定感は抜群だし、夢もちゃんとあるし、一緒に生きてみて面白いとは思うんだけどな。頭はおかしいけどな。その辺をきっちりわかりやすく、伝えるようにしていこう。ワンチャンスワンチャンスをこつこつと。こつこつ。

この夏はエブリデイカチゅーシャ。

2011-06-28 15:33:18 | Weblog
なんだかぼんやりとした心から何かが漏れ出てくるような影のさやけさ、ではなくてそれだったら漏れ出づる影のさやけさですね、と思ってみたところでこれ以上発展の余地なしということでこの辺でやめなければならない。

どうも、今日は思いが、そうなんていうかできのわるい膜でおおわれているような、温めた牛乳の薄い膜をさらに10分の一にしたような薄さの気持ち悪い膜、なにかそんなものを昔見た記憶があって、そしてそれは身近にあるものなはずなんだけれどそれがなかなか思い出せない。

兎に角も、ウサギにつのが生えちゃってそんな兎に角ではありますが、そんな感じの膜が先ほどから僕の視界と思考の全体を覆っているのである。と思ったらさっき風呂に入った時に洗顔クリームのふたをあけたはずみにそのクリームが目に入って、めっさ痛かったからそれがきっと視界をいつまでたっても覆っているだけなんじゃないかということで、やはりこれ以上どうも文章を書いても発展する気がしない。


僕は石川遼が好きである。まあ好きな理由は彼が隣町、松伏町出身であって、春日部、古くは粕壁、と書く我が居住地から越谷のレイクタウンなる偉大なるショッピングモールに行くには松伏町を通って行くのであって、ようするに身近な存在なのである。

いやいや実はそれだけじゃなくって、彼のトークが好きなのである。というのも、彼がこの前ニュースで、海外特派員会見みたいなあれだ、でしゃべっていて、僕はそれを字幕で見ていたんだけれど、いや職場だったので音声が出ず映像だけしか目に入らなかったわけではありますが、たしか、ファンの声援がプレッシャーだか重荷になるはずがない。なぜならファンから応援されて我々の仕事は成り立っているのであり、それが重荷だったら仕事にならないじゃんか、と言っていた時なんかは、もう猛烈に共感、共感というと自分もそんな仕事をしているようですが、僕はただの自宅警備員、もとい自宅のパソコンセキュリティー担当官ですけれども、まあ共感しちゃったわけですよ。

よって、共感する以上は自分もスポーツ業界か芸能業界で一旗ドカンとあげなければならないわけで、まあ下積みもない自分がドカンと旗揚げするなら、やっぱりオーデションだろ、とAKBとかSKE(栄、の略称だとさっき知った)あたりの審査、つまりオーデションを受けようと思ったら、やっぱり女子限定だろうから、調べることなく断念。

そんなこんなでMステなる森田和義アワーミュージックステイションを見ていたところ、宇多田ひかるの紹介でNY出身と書いてあって、はいはい、と思ったんだけども、やっぱり海外出身てのは格好いいのであるから、「出身」という言葉の定義がさっぱりわからないけれども、イギリス生まれである僕は今後は「ロンドン出身」を前面に押し出して、全面外交を試みようと思うのであるのでした。おやすみなさい。

明日は友人の結婚式です。先週の友人は小学校塾以来の友人ですが、かれの結婚式で僕は一つの悟りを得ました。彼が、高校卒業後大学に入り、就職し、その中で培った人間関係の中から新しい世界を作っているのを目の当たりにした僕は、というと分かりにくいですが、ようするに就職先で出会った女子と結婚したという事実を見た僕は、うーんなるほど、みな新しい世界を開拓して、そこで自分の居場所みたいのをどんどん構築しているんだななんて思って、いや、「思って」なんていう言葉だと安っぽいんだけれど、兎に角、おっとまたでてきたトニカク、ドカンと、おっと三度目で出てきたドカンと、衝撃を受けたのです。くっつけて書くと、兎に角ドカンと衝撃を受けたのです。


僕は怠け者で、いやそんなことはなく医学部で死ぬほど勉強して、頭がショートして一旦、むしろ八旦ぐらい八反あみかになっちゃうぐらいに、死んでしまっていたわけですが、あれ以来、自分が環境に適応するためにがむしゃらになるのは百害あって一利なしという日本の伝統的な諺つまり英語でaxiom、まあpロバーブでもいいんだけど、そんなことを心の底から感じてしまって、ぎゅっとそのプロバーブがハートを握りしめていまして、それ以来、自分が頑張りすぎるよりは、環境をせめてすこしでも合うように変えてしまえとおもってきたわけです。しかし、かれのその幸せそうな、というか含み笑い的な笑顔を見ていると、その含み笑いが塾帰りの千代田線で見ていた彼の笑顔そのものなんですけど、とにかく新しい環境に適応する、よしんば適応とは言わなくても、たぶん「よしんば」の使い方間違ってるけど、そこと折り合いをつけて新しい境地を開拓するフロンティア精神を発揮しなくっちゃいけないななんて思って今週一週間を過ごしたわけであります。え、気づかなかったって?そりゃそうだあなたとは今週あっていないですから。ずっと茨城にいましたよ。もう茨城はおれの庭だ。なんて。

さて、そんなショッキングな経験を経ての、今週末の結婚式二件を控えているわけで、それはもういやがおうにもテンション上がりまくりのはずなんですが、眠い。そりゃあ昨日友人(公共政策)のジャズライブを聴きに行って帰宅が遅くなって、しかも今朝は早くから、竜ケ崎の竜宮通りなる風流極まりない街に行ってきたんだから当たり前です。いやほんとにそういう通りがあったんです。

ということで眠いし、明日は偉大なる友人の偉大なる結婚式披露宴の偉大なる受付の偉大なる片棒を担がせていただくわけで、こればっかりはへまをするとまったく医大、おっと縁起でもない、偉大なるミステクになってしまうから早寝しなくっちゃね。

ということで英語のaxiomというかpロバーブを炸裂させておしまい。

A friend in need is a friend indeed.
幸い僕はFriendsがいる気がします。複数形万歳。


ああやっと思い出した。たぶん、高校の科学の実験でつくったなんかの膜だ。たしか有機化学分野。オゾンはくさくてまじで吐きそうになったし。塩化なんちゃらを吸い込んだときは本当に死ぬかと思った。みなさん、人間の命は有限ですよ。動物ですから。限界ありますから。



鹿、立つ。

2011-06-28 15:32:52 | Weblog
という題名で、去年の知床日記とフランスのラスコー日記と今回の地震日記を混ぜてちょいと書こうと思ったが、書こうと思った瞬間に、それは書かない、ってことであって、いやつまり繰り返しになるけれど、書こうと思ってるってことは書いていないわけで、書いていないってことはそれは大概の場合、自分の場合、それは書かないという結末に落ち着いちゃうんであるからにして、結局そのネタは当分お休みなさいってことになるのである。

ついでに同じく書こうと思ったネタとして、変わるか変えるか、ということでして、まあいろいろと疲れたりストレスを感じることもあるみなさんだとは思いますが、今が自分が変わるべき時なのか、周りを変えるべき時なのかの変えると変わるの違いについてはしっかりと考えておくべきなんじゃいけないんじゃないかという話なんですが、この変わると変える、最初は変わると変えると、の順番で書いたくせに三度目に出てくるときには、「変えると変わるの違いについて」などと、順番が逆になっていたりするわけで、そのあたり自分の一貫性のなさにまた愕然とするのである。

さて、自分を変えるべきだというのは美しいし、なんていうか日本的な気合でなんとかなる!悪いのは自分だ!周りは悪くない!欲しがりません勝つまでは!という思想につながるような気がするんだけど、はっきり言ってそれ相当頑張った経験がある自分としては、これは嘘、変えることに注力しすぎるといつかは破たんするか、それとも自分の人生に関心を持たなくなるかの二者択一になるからこれまったく注意が必要なんだよね。

ある程度がんばってだんだんめんどくさくなった時に、もっと頑張らなくちゃ!ではなくて、めんど、環境変えちまえ、逃げちまえ、っていうのもきっと大切なことなんだと思います。高校時代の友人が当時言っていた言葉に、「20年近く生きてきていまさら変われるわけもない」ってのは結構的を射たものだなんて、いっつも思っているわけです。

とはいえですが、やはり僕のような怠け者で常に人のせいにして口を尖がらせているような子供者はですね、そのなんていうか、変わるってこともたまには考えなくっちゃって思うんです。いや、たまには、じゃなくて最近とみに、というか最近初めて、思ったんです。

ということで変わろうと思っていまして、とりあえず、正直一辺倒よりはもうちょっと戦略的に、発言や行動を練って練って練りまくれ!打って打って打ちまくれ!ニイタカヤマノボレ!みたいなそんな、MAX、すなわちスーパーモンキーズまいなす安室奈美恵みたいな発想が大切だと思っておやすみなさい。ああそうです、トラトラトラですよ。


ぐーせい

2011-06-28 15:32:31 | Weblog
おおおおおお

おおおおおお


みなぎる

みなぎる


みなぎるぞおお

おおおお

おおおおおお


大地から 大地から

這い上がる

大地が這い上がる

おおお

その

立ち上がれ

立ち上がれ


大地の


大地が


立ち上がれ

おおおおお


這い上がる


みなぎるぞ


そそり立つ

全身が

全身に

すべてが


ああああああああああああああああああああああ


みなぎる


大地の


おおおおおおお

ありえたかもしれない別のぼくの後ろ姿。

2011-06-28 15:32:06 | Weblog
題名

「ありえたかもしれない別のぼくの後ろ姿。」(韓国映画、2011、監督:内田)

みなさんにもあるでしょう。あの時ああしていたら今頃はこうなっていたに違いない、と後悔することが。後悔とまではいかなくとも、あの時別の選択をしてたらどうなっていたかな、と夢想することぐらいはあるでしょう。

「選択肢が多いほど人間は後で後悔をする」、というのは将棋の名人羽生さんの言葉でもありますが、たしかに昔と違って、職業の自由の住まいの自由もいろんなものが自由になり、チャンスが広がったからこそ、逆に選択の苦しみ、を味わうことが増えています。選択するうえで苦しみ、選択した後でも苦しむ。むろんこれは自由を謳歌するためのコストだと思えば些細なものなのですが、さてさて人生はかようなものでして。。。

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5月24日、19時3分、僕は春日部駅前にいた。出勤時の朝は雨が降っていて、車で送ってもらったため、さて帰る段となったが、自転車がない。そこで、帰路では、歩いて帰るか・バスで帰るか、を一瞬悩んだ。とりあえず駅前のバス停に向かった僕は、次のバスの出発が19時15分であることを確認した。

「なるほど、10分以上待つのか。」

それだったら歩いたほうが早いか、まあ遅れたとしても、ちょっとであろう。バス停でじっと待つよりも歩いたほうがきっと面白いに違いない。天気もいい。夕日もきれい。うん歩いて帰ろう。
と大して悩みもせず歩き始めた。

家までの道を歩く、というのは日ごろ自転車と自動車で移動する田舎者にとってはそうそうあるものでもなく、道の感触を確かめながら、小学生に戻ったような気持ちで帰って行った。途中縁石の反射板などを傘でつついたりしたので、まあ、まったく小学生のようなものだった。


家に近づいて、遠くに我が家が見えてきたとき、ちょうど家と僕の間を左右に走る道を一台のバスがブロロンと音を立てて僕の前を通った。そう、1915春日部駅前発のバスである。携帯の時計は、今が19時21分であることを示している。

ここで僕は考えた。そうか、あのとき、駅でバスを待っていたら、今頃僕はバスを降りたところで、あの道を歩いているんだろう。今のぼくから、バスが通ったその道まで1分ぐらいかかるから、きっと彼は家に少し早く着くに違いない。

そこで、僕は考えた。あのバスから降りてきた僕の姿を想像してみよう。そうしてそいつに追いつくにはどうしたらいいか、マリオカートのゴーストのようなプレイをしてみようと、小学生の妄想よろしく、目の前に僕の後ろ姿を浮かべながら、とことこ帰宅を続けた。

「彼」は全く振り返ることもなく、ただ家に向かっていた。僕もすこしは急いでみたが、まあそれなりの速度で彼について行った。あまり近づく気はしなかった。

家に帰ってきても彼は僕よりも少し早く行動した。

しかし、である。夕飯を食べ終える頃になると、僕と彼の姿が一体化するようになってきた。なんというか、別に大した違いがないのである。

こうやって見てくると、一つ一つの決断など大した違いを生まないのではないかという気がしてくる。一瞬違いがあるような気がするけれど、まあすこしスパンを広げてみれば、おんなじ人間なんだからおんなじところに落ち着くのである、そんな気がしてきた。

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以上。もうちょっと詳細に描写したかったけど、まあ書きたいことは書けたし眠いからおやすみなさい。

とかげちゃぁんっ!

2011-06-28 15:31:39 | Weblog
僕の家にはトカゲが春になると続々と現れる。
つるつるとコンクリートの上を走り、
茂みの中に消えていく。
それが僕にとっての、春、である。
そうして、春を迎えるたびに僕は「とかげちゃぁんっ!」という彼女の声を思い出す。

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数年前こんなことがあった。

家の近くの住宅街の小道を車で走っていた時だ。
見通しの悪い交差点の横から、少女が自転車で突っ込んできた。
こちらとしては慣れている道で、
見通しが悪いことは織り込み済みなのでのろのろ走っていたので問題はなかった。

少女も一生懸命ブレーキをかけて全く問題ないように見えた。
しかし、彼女の一生懸命さはただブレーキをかけているだけの一生懸命さではなかった。
お互い衝突を避けるためだけなら、まったく問題のない速度で僕も彼女も走っていたからだ。

よくよく見てみると、必死で左手で自転車のブレーキを握りしめる彼女の、逆側の手、つまり右手にはとかげが握られていた。
大切にそぅっと握られていた。

とかげを大切にするために片方のブレーキしか彼女は使えなかったのだ。
片方のブレーキだから止まりにくいうえに、
もう片方の手では、トカゲを握りつぶさないようにしていた。
だから、緊張、(と漢字で書くとちょっと大仰かな。)
というかキンチョーしていたのである。

幸いぶつかることもなかったので、
僕は、窓が開いていたのを幸いに、
「おや、トカゲ君を持っているんだね」と声をかけてあげたみた。
そうしたら日焼けした健康そうな少女は
とてもうれしそうに、そうして、知り合ったばかりの親友を紹介するような幸せさをもって、

「うんっ!とかげちゃぁんっ!」

と言った。
彼女の握られたグーの真ん中から
そのとかげちゃんが「なんじゃ?」と言わんばかりに首だけを出してちろちろ動かしていた。
僕の顔も見たかもしれない。

この一連の出会いとやり取りに僕はたいそう癒された。


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あの少女はきっと今は中学一年生ぐらいになっているのかな。
高校生になっているかもしれない。
健康的にまっすぐ育っていてほしい。

きっと再会することはない、人と人とのつながり。
彼女はきっとトカゲちゃんのことは覚えていても、
僕のことは覚えていないだろう。

でも僕は彼女のことを春が来るたびに思い出す。

きっと死ぬまでずっと。

誤訳で訳語。第一回

2011-06-28 15:31:08 | Weblog
ノッティングヒル見ました。
次はゴーストを見ます。

さて、ノッティングヒルの最後のシーン。

記者ドミニックの質問

"Anna, How long are you intending to stay here in Britain?"

に対して、

Annaは"Indefinitely."と答えます。
その瞬間にElvis CostelloのSheが挿入されて、
大団円、という映画のクライマックスであります。

さて、このIndefinitelyどうやって訳そうかな、と考えるわけで。
まあこの辺のこだわりが内田クオリティなのですね。
くだらないクオリティですね。
人生もう一回あったら翻訳家も楽しそうですね。

今世は経済で生きていきますが。

さて、indefinitely。

これ、教科書通り、辞書通り、というか別に教科書も辞書も引いていないけれど、
普通に訳すなら、
"Indefinitely.":「ずっと(いるわ)。」だろうな、と。


ここで数学的に、経済学的に、
「無限期先まで。」とか
「無限遠まで。」と訳すと
数列かよ!
みたいな感じになって、
まるで雰囲気が出ない。

でも、数学者の恋ならそういう訳も面白いかもなあ、と考えてみたり。

このノッティングヒルのラストシーン(「いつまでロンドンにいますか?」という記者の質問)の受け答えなら、
単語の成り立ち通りに「決めてないわ。」と訳してもいいかも。

(Indefinitelyはもともとは、
define(境界がはっきりしている)に接頭語のin-をつけた反意語なわけだから)

普段ぱきぱきしゃべるアメリカ人女優の発言で、
あえて、
「決めていないわ。」
と訳すことで、永遠に、という雰囲気が伝わるかなあ、とか思ったり。

(本作品は、イギリス人のぐねぐねしたトークと、アメリカ人の合理的ですっきりしたしゃべり方が対比されて、それも面白いですね。)


普段映画なんて全然みない自分で、ものすっごい久しぶり(たぶん、タイタニック以来)に映画を見たんですが、
英語も楽しめたりするとなかなかおもしろいですね。

皆様がおすすめしてくれた恋愛映画、どんどん見ていきます。
ゴーストin New YorkとReality Bitesも借りてきたので見てみます。
楽しみ!

ventriloquist

2011-06-28 15:30:38 | Weblog
ventriloquist:腹話術師

Ventreはフランス語で「お腹」
-loq-ってのは割としゃべる系のイメージを持つ部分だよね。
eloquentとか。

だから、「腹話術」と訳したんかね。

英語から日本語にうまく訳したパターンか、
それとも逆のパターンか、
たまたま同じになったパターンか、

そもそも腹話術ってべつにおなかから声を出しているわけではないから、
言語によって別の表現になってもよさそう。
それなのに、英語と日本語で同じ単語の構造になっているというのは、
どっちからどっち、というような気がするんだよなあ。

でも、あれか、人間、意外とあの芸を見ると、
お腹から声でてるよ!やべーよ!ってユニバーサルにリアクションするのかしら。


こういう答えも出ないしょーもないことを考える夜。

BGMはヒャダイン&ヒャダル子ですけどなにか。

おやすみ!

ロマンティックで結構。

2011-06-28 15:29:49 | Weblog
「燃やしても燃やしきれないものは(略)思いがある。こればかりは思い出となって残された者の心に留まり、年月とともに増え続け、また美化されていく。あなたが出逢ったすべての人があなたを記憶にとどめ目に見えない何かでこの世に残ってゆく。ロマンティックで結構。あたしはこの世が大好きだ。」(明日の言付け、一青窈)

どうもこんばんわ。
児玉清さんが亡くなってしまいました。

残念です。
アタックチャンスは有名ですが、なんだか古臭い番組だったのでほとんど観たことがありませんでした。ってなんでこんな時に失礼なことを言っているんだろう。

個人的には、
タカandトシとやっていた、へんてこな旅行クイズ番組が好きでした。

人当たりがよくて、力が抜けていて、
無駄に体力を使わないことを徹底しているような大人の魅力がありました。

でもいつかは亡くなるんですね。
いろんな芸能人の死がいままでニュースになってきましたが、
たいていは「へー昔そういう人がいたの。知ってる人は悲しいだろうね。」
程度のリアクションしかできませんでした。あ、もちろん心の中の話ね。

でも、今回は、割とテレビで見ていた方が亡くなったので、
なんとなく、そうなんとなくショックです。

なんとなくね。

ということで、今日あったことをまとめます。
生きるということはきっとそういうことなんだと思います。(どういうこと?)


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古河の電機工場での日雇いのお仕事が終わった後のこと。
古河駅に戻ってきた。
帰路である。そりゃそうか。

改札を入ったところ。
電車が1602分に発射する。発車ね。
時計は1601分を指してる。
走れば間に合う。
走る。
余裕でホームにつく。
よかったまだ電車が来てない。
これ逃したら15分待ちなのよ。
今日は早く帰れるなあ。

なんと向こう側のホームで発車のベルが鳴っている。
上野行きって書いてある。

。。。

間 に 合 わ な い よ 。
。。。

発車のベルが鳴るのを、対岸のホームから眺めるしかないこの残念さといったら。

発車のベルが鳴るのを、対岸のホームから眺めるしかないこの残念さといったら。

発車のベルが鳴るのを、対岸のホームから眺めるしかないこの残念さといったら。

茫然とする内田におばちゃんが鳩豆(←「鳩が豆鉄砲を食らった」の略。)な顔をしながら「あらあ、あっちのホームからも出るのね。」と話しかけてきた。
二人でさんざん、残念だ残念だ間に合っていたのに15分も待つ羽目になったああ残念だ、と話した。
しばらく二人仲良くきょとんとしたあと、おばちゃんはキャリーバッグをころころしながら去って行った。


おばちゃんは去っていった。おばちゃん今いずこ。

と思っていたら、
当の戦友のおばちゃんは遠くのベンチでちんまり座ってた。
寒いだろうな。かわいそう。

以上。


「また明日が言えなくてもきれいに笑う君がいる。さよならありがと。」(一青窈、「さよならありがと」から勝手に抜粋)


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人生なんて、発車のベルが鳴る列車を遠くから見守るぐらいしかできないんだと思います。






え?意味が分からない。僕だって。いいえ誰でも。