縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

一遇を照らす・・・糸魚川駅北火災復興支援ボランティア

2016年12月31日 23時44分21秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

糸魚川駅北火災の復興支援市民ボランティアは、大晦日から1月3日まで正月休みに入った。

ところが公的な支援サービスが休みの大晦日にも関わらず、被災地で個人的に支援ボランティアをしている人達がいた。

南魚沼から来ている山崎一さんと、「とちぎボランティアネットワーク」の藤久保誠さんだ。

大晦日に被災地で支援活動をする山崎一さん。類は友を呼ぶというやつで、共通の友人が何人もいる。

 

彼らは公的支援サービスが休みに入っても、困っている人から手助けを求められるならと、一個人として残っているのだ。

山崎さんとは12月29日の市民ボランティア初日に出会ったのだが、前日から糸魚川市に来て1月15日まで車中泊すると聞いてたまげた。

いくらボランティアだからといっても、3週間近い車中泊はあまりにも気の毒。

山崎さんの愛車は、格安で買った中古車の座席を取外し、車中泊仕様に改造してある。なんてたって自動車修理工場経営者!

 

敬愛する整体のM先輩に風貌と雰囲気が似た自然体が好ましくもあったので、出会って10分ほどで自宅に泊まったらどうですか?と聞いたら快諾して貰った。

私のできるささやかなボランティア。

しかし山崎さんは、寝る所さえ提供して貰えれば有難しと、食事や弁当も辞退されるばかりか、布団不要と部屋の中でも持参の寝袋で寝るという、まるで修行僧のようなストイックさ・・・只者ではない。

今回の被災地でボランティアに求められているのは、瓦礫撤去前に貴重品や想いでの品を掘り出す事。作業内容は遺跡の発掘と同じで、作業効率よりも丁寧な作業が求められる。

 

山崎さんと寝食を共にして濃密な時間を過ごすうちに、彼の履歴を聞いて再びたまげた。

彼は自動車修理工場を経営していた2年前に大事故に遭い、奇跡的に蘇生してから人生観が変わり、国内各地の被災地どころかネパールまで自費で支援ボランティアを始めたのだそう。

彼の活動資金は、財産の切り売りで捻出・・・凄い男がいたもんだ。

たった独りでも、公的支援が行き届かない部分を補いたいという山崎さんの支援方法は、天台宗の開祖、最澄の「一遇を照らす」という言葉を地で行く活動ではないか!

29日の支援活動によって掘り出された婚約指輪。例え黒焦げであっても、被災者の人生を物語るお宝なのだ。

他人にとってガラクタでしかなくても、被災者にとっては人生の1ページを彩るお宝(2点とも所有者の写真使用許可を得ています)

 

私は山崎さんをサポートしているつもりだったが、実は彼こそが糸魚川市民をサポートしに来ていた、そんな当たり前の事に気が付いて愕然とした。

私が捉えていたサポートのベクトルが逆だったのだ。

彼の活動は年明けの3日から再スタート。

山崎さんが灯した小さな火種が、糸魚川市民によって松明、かがり火に成長させられるかどうか・・・我々市民がしなけりゃならんのだ。

 

 

 

 


奇跡の指輪・・・糸魚川市駅北火災復興支援ボランティア

2016年12月29日 17時10分01秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

12月22日に発生した糸魚川駅北火災。

復興支援の市民ボランティアが、本日29から30日の二日間の予定で動き出した。

現次点では市外からのボランティア受入れ体制と今後の具体的な計画は建っておらず、今年は市民だけの支援活動。

 

年内中の二日間のボランティア活動をやってみて、その塩梅や被災者の要望を組み入れてた上で、来年からは市外からのボランティア受入れを計画していく方針のようである。

 

興味本位に現場を訪れる事はしたくなかったので、ボランティアとして初めて現場に立ったが、被災地を目の当たりにして・・・絶句。

「加賀の井酒蔵」跡地。子供の頃から馴染だった老舗のお蕎麦屋さん「泉家」さんや、県内最古の酒蔵会社「加賀の井」は、元の場所が分からないくらい焼失していた。

ボランティア初日は、仏具店の「京屋」さんの焼け跡からの貴重品掘り出しで、幸運にも瓦礫の中から婚約指輪が出てきた。

 

婚約指輪を手にした京屋さんご夫妻。ご夫妻は既に達観されているのか意外なほどに明るい表情をされて、「お宝発見!」と現場の雰囲気を明るくしてくれていたので助かった。人間って強い。

赤黒く観えるが、本来はダイヤモンドだそう・・・奇跡の指輪の発見に歓声が挙がった。(撮影は友人の山崎一さん)

 

初日の29日時点で集まった市民ボランティアは8名だったが、残骸や瓦礫の移動などで結構な重労働。

ボランティアが予想外に少なかったのは、御用納めをしていない人が多いからか?

この点、「ぬなかわヒスイ工房」のような個人経営はフットワークが軽くて気楽だ。

さて、明日は天気が悪いようだが、何人集まるだろう・・・。


「縄文の響き」と「糸魚川大規模火災」

2016年12月25日 17時35分40秒 | ぬなかわヒスイ工房

冬至イベント「縄文の響き」は盛況だった。

昼夜ともに満席で、私の縄文ヒスイ漫談も2回目の夜の部はリラックスしてアドリブが連発。

結構受けていたようだし、次回は私の持ち時間をもっと長くして縄文イベントを継続していこう、と主催者である牧野さんから褒められた。

会場となった大倉山記念館

 

いい気分で散会した翌日に糸魚川市大規模火災発生。

火災時の私は、折しも都内某所でシルバーアクセサリー作りを習っており、マナーモードにしてあったスマホのメール着信や電話着信を知らせるバイブレーターがブルブルしっぱなし・・・休憩時にスマホを観たら、地元糸魚川市の火災を知った友人達からの安否確認や火事見舞いで、対応に追われた。

テレビもラジオもない所にいたので、安否確認問合せの内容とその多さに事態の深刻さを知った。

糸魚川ヒスイをテーマにしたイベントの翌日に大火災とは・・・絶句。

糸魚川は風が強い土地で、今回の被災地区は軒を連ねる人口密集地帯ゆえに、昔から火事となると大火事になる地域ではあった。

だから昔は、晩ごはんを多めに炊いて残りご飯をお握りにして非常時に備え、無事であれば翌朝はお粥にして食べる風習のあったのだと、小学校の授業で習った記憶がある。

ホールの吹抜けでリハーサルする出演者?

 

我が家は火元から2キロ離れた風上にあるので無事だったが、友人知人の家が焼失したそうだ。

えらいこった・・・年の瀬を迎えて家や仕事を突然失った被災者(昔ながらの商店が多い地区なのだ)には慰めの言葉も見つからない。

それに火元となってしまったラーメン屋さんの心境を想えば・・・針のムシロで食事も喉を通らず夜も眠れないだろう。

昔から糸魚川の人を楽しませてきた古いラーメン屋さん。

店主夫妻を知っているだけに他人事とは思えず、これが自分の両親だったらと想像すると胸が痛む。

公演を終えて安堵の表情の出演者。後列中央の青い服の男性が主催者の牧野じゅんさん。(写真は全て出演者のFBから借用)

 糸魚川出身の童話作家、小川英子さんも花束を持って駆け付けてくれた。小川さんの実家は火災現場近くにある老舗の町屋で、電話で実家の状況を聞いたら、キリギリの所で風向きが変わって被災は免れたそう。

 

せめてもの救いは120棟が焼失した大火災にも関わらず、死者がいないという事で、消防団や消防署の活躍は無論だが、相互扶助の気風が強い地域力ゆえか・・・。

支援の輪が着々と広まっているようだ。

ふるさと納税で被災者を支援する、義援金寄付、色んな支援方法が告知されている。

ぬなかわヒスイ工房としても、当面は売上の5%をプールして義援金に寄付するし、工房には募金箱を置く事にした。

なんと去年、取材を受けたホームレス支援雑誌「ビッグイシュー」編集部からも何か出来る事があれば・・・とメールまで頂いた。

誰もが「自分にできる支援」を考えはじめている。

 

 


ヒスイ作品にアイヌ模様を刻む・・・アイヌ模様線刻ラベンダーヒスイ石笛

2016年12月17日 13時51分51秒 | ぬなかわヒスイ工房

10月の「青空キャンプ」というライブイベントに「ぬなかわヒスイ工房」としてブース出店していた時、遠くのステージで演奏しているギターが身に沁みて響いてきた。

他の演奏者とは明らかに何かが違うサウンドが気になり、ステージに行ったら演奏していたのはライブ前にアイヌのお祈り儀式「カムイノミ」を執り行っていた、岩手から来た橋本政彦さん夫侍子さん夫婦ユニットだった。

カムイノミを執り行うご夫妻。意気投合して話す内に、二人が身に着けていた衣服のアイヌ模様に魅了された。(撮影は2点とも友人の佐藤さん)

 

そこで石笛にアイヌ模様を線刻したくて仕方なかったのだけど、アイヌ模様は同じ模様が連続したシンメトリックが基本なので難しい。

晩期(三千~二千五百年前)の東北の縄文土器や土偶にもアイヌ模様そっくりなデザインがあるのだけど、こちらはシンメトリックでなかったりするので意外に簡単で、これまで石笛に線刻してきた。

小さな石笛にどうやったらアイヌ模様を表現できるのか?

試行錯誤して作った第2作目が、「アイヌ模様線刻ラベンダーヒスイ石笛」

唐草紋!古代ギリシャの葡萄蔓がルーツとされているが、もっと古い縄文時代にはすでに描かれている。

線刻模様を浮かび上がらせる撮影が面白い。

横から観た図。

 

12月21日、横浜での「縄文の響き」に間に合ってよかった。

因みに夜の部は若干の余裕があるそうです!

 


これが正真正銘の縄文時代の石笛!・・・驚異的な2オクターブの響き

2016年12月13日 21時44分10秒 | ぬなかわヒスイ工房

12月21日冬至に横浜で開催される、糸魚川ヒスイ製クリスタルボウルのお披露目イベント「縄文の響き」で演奏するために、久し振りに縄文時代の石笛レプリカを作った。

右が熊本県宇土市の轟貝塚出土の石笛レプリカ(http://nunakawa.ocnk.net/product/529)

左が青森県六ヶ所村の上尾駮遺跡出土の石笛レプリカ(http://nunakawa.ocnk.net/product/531)

 

普段作っている石笛は現場合わせの即興的なデザインだが、出土品の実測図通りに忠実に作るレプリカなので、結構作るのは大変な作業。

ところが久方ぶりに作ってみると、すいすいと仕事が進み、精度も増して、驚くべき事に以前より音域が広い石笛が出来上がった。

なんと二つとも2オクターブを優に超す音域!これにはビックリ。

工作機械、工具の改良や、工程の見直しを地道にしていた結果なのか、それとも私の石笛演奏が上達したのか?

真相は謎であるが、2オクターブ超えの石笛とは縄文人やるぢゃないの!

二つとも貫通孔と音階変化用の指孔を持つことが特徴だが、熊本と青森という離れた地域で、しかも出土時期が最大で二千年ほど隔たっている事が不可解・・・この構造の石笛は他の遺跡から出土しないのは何故なんだろうか。

縄文時代後期(四千~三千年前)の上尾駮遺跡出土の石笛はヒスイ製。他に数点の類似石笛が出土している。こちらは2オクターブ超えの音域!

やや大きい轟貝塚出土の石笛レプリカは蛇紋岩で作ったが、実物は黒色石灰岩製。なんと驚異的な2オクターブ半近い音域を持っていた!

轟貝塚出土石笛は「前期(六千~五千年前)の貝塚から出土した西日本で初の石笛」と紹介されているが、詳細を宇土市教育委員会に問合せたら、実際には中期(五千~四千年前)との攪乱層からの出土だそうだ。つまり河川の氾濫などで乱れた層からの出土なので、最大で六千年前、最低で四千年前の出土品である。んんん?・・・四千年前だとすると上尾駮遺跡と同時期だ!

 

今回のイベント主催者は、世界を股にかけて活躍するクリスタルボウルマスター牧野さんで、縄文に興味があるそう。

今後も縄文イベントを仕掛けていきたいから、是非にともと声をかけられている。

有難いことに五千円という決して安くは無い入場料なのに、12月10日時点で昼の部は完売御礼で、夜の部のみ若干チケットが残るという大盛況の予感で、全国から縄文好きが集まるようだ。

ネット検索すると、縄文時代の石笛と称してヒスイ大珠を石笛と誤認、あるいは独善的に紹介されている事が多いのだが、私が作っているのは考古学的に石笛と推定と報告されている正真正銘の縄文石笛。

そりゃ大珠にも貫通孔が開いているので、石笛上級者ならとりあえず吹けば音は出るだろうが、問題は大珠の孔の直径が3~4㎜と小さ過ぎるし、孔の深さも30㎜前後・・・これじゃ吹いている本人にしか聞こえない小さな音しか出ないだろうし、勾玉だって石笛という可能性もあるよ(笑)

私が創った石笛デザインをパクッって売っている人には興味もないことだろうが・・・。

とにもかくにも、長年、地道に取り組んできた縄文石笛が、ついに公の場で披露される。

こんな嬉しいことはない。

 

 

 


白土をサラサラにする方法をご存じの方、教えて!・・・メイドイン糸魚川の可能性

2016年12月10日 15時02分56秒 | ぬなかわヒスイ工房

画家の五味政明さんからの依頼で顔料粉砕用の石皿を作った。

改良点は粉砕した顔料を外に出しやすく、さらに開いた片口部分を広げた事。

メールでやり取りしていて、五味さんが白土を欲しがっていることが分かったので、ストックを送った。

白土で白い顔料を作りたいらしい。

白土は正式には「酸性白土」であり、熱酸処理をして活性白土を作る原料である。

活性白土は多孔質ゆえに吸着・脱色性に優れ、石油の精製などに用いるためにかっては海外へも輸出されていたが、近年は合成ゼオドライトに取って代わられ、国内の生産は激減しているらしい。

糸魚川市にも活性白土の工場があり、元工場長のKさんから鉱山に案内して頂き、掘ったばかりの白土で顔料を作った事がある。

ところが白土を石皿で粉砕すると、カラカラに乾燥させていても粘り気があって粉末になり難く、大変な作業。

粉末にして絵具を作ろうとすると、メデューム(定着用の液体)に均一に溶けてくれず、斑状になってしまうのである。

だから絵を描くにしても、パテを盛る感じでゴテゴテの厚塗りになってしまうのが難点。因みに二重反転螺旋の絵は新潟県立博物館のトレードマークで、白い部分はヒスイ。

 

分子結合の関係で、なにか触媒を利用しないといけないのかも・・・。

ご存じの方、教えて下さい!

 

追記

後日、大学で粘土工学の教授をしている同級生から以下のアドバイスがありました。

「白土は酸性が強く、粒子同士が凝集してしまう性質がある。かなり入っているカルシウムも凝集の要因の一つ。普通の粘土の場合にダマになってしまう時は、ピロリン酸ナトリウムなどの分散剤を使い、少しアルカリ性にして、ナトリウムに変えるとよい。」

なるほど!持つべきものは友ですなあ。

 


「炭鉱に生きる」・・・2016年度のベスト本!

2016年12月07日 07時40分36秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

炭鉱といえば、高倉健主演映画や山田洋二監督作品がすぐに思い浮かぶ。

そういえば「幸せの黄色いハンカチ」も建さん主演で山田監督作品だったし、建さん自身も筑豊の炭鉱町出身だと自伝に書いてあった。

忘れてならないのが、西部劇の神様、ジョン・フォード監督が自身で最高傑作と呼んでいる「我が谷は緑なりき」も、アイルランドの炭鉱町で逞しくいきる炭鉱夫一家が主人公の半自伝的映画だった。

山本作兵衛さんの「炭鉱に生きる」を主題にしたドキュメンタリー映画。

 

土門拳の写真集「筑豊の子供たち」も忘れちゃなんね。

どんな作品でも炭鉱が舞台だと、貧困、重労働、そして落盤事故やガス爆発事故などが描かれていて、悲愁を感じる。

地の底の肉体労働は大変なのですな・・・・。

山本さんは小学校も満足に通えず少年時代から炭鉱で働いてきた人。もともと絵が好きだったのだけど、当然、画を学ぶという事はなく、記憶を頼りに老年期に入ってから独自の絵と文章で「炭鉱に生きる」を綴っていった。絵の迫力が凄いが文章も上手いのだ。

明治の頃はキツネ憑きなんかも多かった・・・らしい。キツネに化かされた話しは、昭和の落語名人の桂文楽や三遊亭圓生の自伝にも出てくるエピソードだが、昭和に入ってからキツネはどこに行ったのだろう・・・ちょっと淋しいですな。

 

さて、7年前のUターン帰郷直後に公開されて、観たくても観れなかったのが、「炭鉱に生きる」というドキュメンタリー映画。

実際に筑豊の炭鉱夫だった山本作兵衛さんが、激烈な炭鉱生活を子孫に伝えたいとの想いから、老年になってから絵筆をとり、コツコツと記録してきた画文集が世に出て出版された。

そして時を経て国内初のユネスコ「世界記録遺産」に認定され、ドキュメンタリー映画になったのである。

運がいいことに今年の夏に「炭鉱に生きる」画文集が文庫本化された。

山本さんの独特な画の迫力も凄いが、文章も上手くて、文句なしの今年度読んだベスト本に決定!

少し前のNHK朝ドラ「あさがきた」の女主人公が、リベラルで炭鉱夫思いの炭鉱主という設定だったけども、実際には明治の頃の炭鉱夫は雇い主から「下罪人」と呼ばれ人間扱いされていなかったそうだ。

あまりにもの過酷な労働条件で夜逃げする人や反抗する人も多かったが、大抵は掴まったり、時には軍隊が出動して鎮圧されたり。そして有無を言わさず私刑が待ち受けていた。往年の東映やくざ映画に出てくるような「兇状持ち」が、身を隠すために炭鉱に潜伏するという事も多かったのだとか。

「画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録」は講談社から出版されている(850円)。記録されているのは明治から昭和初期までの筑豊の炭鉱での山本さんの体験談。

 

朝は暗い内から炭鉱内に入り、夜は星が出てから出られるという太陽を拝めない半生。

給料も現金支給ではなく、切手と呼ばれる炭鉱内の売店でしか使えない紙幣で支給され、その売店も法外な価格で食料や生活必需品などを売りつけていたそうで、絵に描いたような搾取の構造。

当時は月に一度は落盤事故やガス爆発で死傷者が出る事が当たり前で、代わりの炭鉱夫はいくらでもいるとばかりに労働条件は改善されなかったそう。

福島原発で廃炉作業に従事する原発作業員を思い出した・・・まだ終わっちゃいねえ。

 

 

 


ツタンカーメンのえんどう豆と苔、そしてストーンサークル

2016年12月02日 19時24分41秒 | ぬなかわヒスイ工房

とりあえずの完成をみたストーンサークルだが、鉱物のみだとちょっと殺風景で、植物の緑も欲しいところ。

石には苔がつきもんだ!という事で、あちこちで自生している苔を少しづつ採ってきてストーンサークルに植え付けてみた。

活着してくれりゃ嬉しいが、とりあえずは半日蔭で湿気がある場所なので、苔が好む環境ではある。

 

そのタイミングで頂いたのが、ツタンカーメン王の墓から出土したえんどう豆の種の子孫!

ツタンカーメン王といえば、縄文時代後期(四千~三千年前)くらいの人だから、なんというタイミング。

他品種と雑交配しなければ、三千年前と同じ赤いえんどう豆が生えてくるそうだ。

種を蒔いたので、運がよけりゃ来年の春は賑やかになりそう。

ある鋭い人にストーンサークルの写真を見せたら、「滝がザーと流れている」と言われた。

実際にはチビチビと水を垂らしているだけなのだけど、信頼の置ける審美眼の人なのでちょっと嬉しい(笑)