環境問題だ、地球温暖化だ、と私たちは騒いでいる。自分と自分たちの子孫の未来を思うと、できるだけ長生きできる環境を残しておきたい、そんな親心にも似た感情---を盾にしたプロパガンダが渦巻く。それは政治に、経済に、波及しそして応用、あるいは利用される。所詮は人間が作り上げたアジェンダ。私はこの視点においてとある友人の意見を支持している。自然は、ただ、あるがままに、在る。子孫を残し、進化を続ける。しかし、自分たちの都合で汚したり、きれいにしたりはしないのだ。過激なようだが、私にとって自然とは、人間とは、そういうものなのだ。
私たちは声高に環境問題を取り上げる。私たち自身が生きていること自体が環境問題を引き起こしているとしたら、これほどのパラドックス(矛盾)はないだろう。私たちは考える葦(アシ)であると同時に、生きる矛盾なのだ。しかし、面白いことに、矛盾は、矛盾であることを解消するために進化し、発明をする。そして、生まれてきた意味を探し、未来に生きようとする。やはり、人間は、考える動物なのである。
地球規模の大きな視点では、個々の人生は議論されない。種として存続するか、しないか、だけである。私たち人間の種は、存続の危機か?むしろ、私たちが汚してしまう地球という星の永続性に危機が訪れているにすぎないのではないか。ホーキング博士は「宇宙に出よ」という。人間にはまだ住む場所や行き先があるという意味に聞こえる。地球という母の永続性。人がい続ける限り消えることはない危機感。私たちが取り組む環境問題は、地球の延命行為なのではないか。自然が、あるがままに、在る、としたら私たちは何をやっているのか。
環境問題、とは、私たち人間にとっての環境問題であり、鳥や、象や、ライオンはこんなことを議論しない。ただ、あるがままに、在るのだ。声高に環境問題を語る前に私たち一人一人の生き方を、少しずつ、変えていく事が必要なのだ。
私は、最近目に留めた次の文章がすごく気に入っている。送信する電子メールのフッターに必ずつけている。自然に住まわせてもらっている、そんな謙虚な、そして、現実的なメッセージなのである。
"Please consider your environmental responsibility before printing this e-mail"
「このメール文を印刷する前に、貴方の環境に対する責任を考えてみてください。」
私たちは環境を、なにかの規制や運動で強制されて取り組むのではなく、このことについて60億人が一生懸命考えてみることが重要なのだと思う。
また散漫になってしまった。
私たちは声高に環境問題を取り上げる。私たち自身が生きていること自体が環境問題を引き起こしているとしたら、これほどのパラドックス(矛盾)はないだろう。私たちは考える葦(アシ)であると同時に、生きる矛盾なのだ。しかし、面白いことに、矛盾は、矛盾であることを解消するために進化し、発明をする。そして、生まれてきた意味を探し、未来に生きようとする。やはり、人間は、考える動物なのである。
地球規模の大きな視点では、個々の人生は議論されない。種として存続するか、しないか、だけである。私たち人間の種は、存続の危機か?むしろ、私たちが汚してしまう地球という星の永続性に危機が訪れているにすぎないのではないか。ホーキング博士は「宇宙に出よ」という。人間にはまだ住む場所や行き先があるという意味に聞こえる。地球という母の永続性。人がい続ける限り消えることはない危機感。私たちが取り組む環境問題は、地球の延命行為なのではないか。自然が、あるがままに、在る、としたら私たちは何をやっているのか。
環境問題、とは、私たち人間にとっての環境問題であり、鳥や、象や、ライオンはこんなことを議論しない。ただ、あるがままに、在るのだ。声高に環境問題を語る前に私たち一人一人の生き方を、少しずつ、変えていく事が必要なのだ。
私は、最近目に留めた次の文章がすごく気に入っている。送信する電子メールのフッターに必ずつけている。自然に住まわせてもらっている、そんな謙虚な、そして、現実的なメッセージなのである。
"Please consider your environmental responsibility before printing this e-mail"
「このメール文を印刷する前に、貴方の環境に対する責任を考えてみてください。」
私たちは環境を、なにかの規制や運動で強制されて取り組むのではなく、このことについて60億人が一生懸命考えてみることが重要なのだと思う。
また散漫になってしまった。
それは、この地球が完全に崩壊してしまった場合に、
地球発の考える何かを、地球以外にいるはずの考える何かに会わせるためなのかなーーーとか。
地球のため、なんていうこと自体がおこがましいのだと思うのですけど、じゃ、何で?って思って。
ひゃーーー珍しく真面目モード。
「人間の」および「現在生きている様々な種」が
今後も生存するために適当な環境の問題ということで
地球は、すごく暑かったり、寒かったり
凄い気圧だったり、の時期があって、今に至るわけで
多少暑くなっても、地球自身は、別に困らない。ので
「地球に優しい」というのは、嘘ですよね。
「人間の」は、まぁ自業自得でしょうから、
できれば他の種には、迷惑を掛けたくないなぁ。と
時々は、思うことはありますの。
ありんこの環境だったりクジラの環境だったり。さて人間の環境と考えたときにもっとも理想的な姿はどんなものなのか。それがよくわからないから矛先が決まらないのかもしれない。
まるさん、宇宙的な考え方で「We are not alone.」ってありますよね。地球で育った「知的」生命体が地球を飛び立って冒険に出る、あるいは、生命の起源と合流する。果てしなき帰巣。。。あるいは未来人との遭遇。。。SFではこのようなことがたくさん想像されています。おっしゃるように、考える葦はなぜ生まれたのか、どこへ向かうのか。神秘です。
地球規模を超越した視点には感服します。思考の相違を一点。私の立場は、そんな人間が私はとても気がかりだということなのです。どんなに傲慢で、あるいはぼんやりしていたとしても。だから、人間にとって都合のいい環境を、保全することに喜びを見出す人。認めたいのです。キャンドルに火をともそう、という運動には私もにわかに賛同しかねますが、小さなエネルギーの消費が大きな森林伐採を食い止める思考の連続があるのなら、それも認めたい。課題は、誰も説明できない、夢物語に終始していることだと思います。人間の主観的な想像力に頼る運動は、一過性のブームであって、継続した生き方の改良には結びつかないとさえ思うのです。ここが、難しいところですよね。
体系的な研究をされてきているので、所謂アカウンタビリティについては、貴殿のような方と、視点が常人を超越した人たちとで対話をしていくことが大事と考えます。科学者と哲学者が相互に歩み寄ったら、生命の(人間の、かもしれませんが)未来を、(人間の)理想に導けるかもしれません。導くなんておこがましいですけれども、方角を指差すくらいはできるのではないかと思考しています。
成長しきった樹木は
二酸化炭素を吸収・固着する力が、非常に弱くなるため、
伐採して、新たに植樹する事が極めて重要なことや、
発電所の出力調整が非常に困難なこと。
「人間にとって」都合の良い環境でさえも
全体として実現するには、真面目に考える必要があること。
あまりにも安易なポーズとしてのプロパガンダが
まかり通っているのを眺めていると、
私には、人間というのは自己満足好きな
単なる「厄介もの」に見えるのです。
でも、人という種を大切に思う視点が有るなら、けっこう素敵♪
視点に違いはあれど、取り組んでいることがある結果に結びつき、その結果自体がなにかを幸福にしているのだとしたら、その力を認めてあげたい、と思うのです。とてもシンプルに、在るものを受容していくのも、なにかを幸福にするのだと思うのです。