傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

同級生が語る亀井静香なる人物像・・・・正義感・熱血・人情派

2009-10-23 12:34:06 | 郵政民営化

亀井静香大臣については、弱小政党代表でありながら、民主党に影響力を与える発言で、メディアを賑わしていますね。
当方は、Wikipedia程度の情報しかなく、亀井大臣については、言っていることは一理あるという程度の認識でしたが、「金児昭のペコペコ哲学」様のブログ「高校同窓生からみた亀井静香氏 」を読み、熱血・人情派の人物と思いましたね。

亀井静香大臣については、声の大きい寝技的な政治家という印象がありました。
Wikipedia情報によると、
”「生い立ち
広島県庄原市川北町(旧・比婆郡山内北村)で農業を営んでいた亀井素一・静恵夫妻の次男として生まれる。父は終戦まで山内北村の助役を務め、終戦後は県の嘱託として開墾事業に携わった。

広島市の修道中学校に入学。

修道高等学校2年生時に、通学定期券の購入に必要な通学証明の発行を学校が有料化したことに対して批判ビラを配る。これが学校側の不興を買い学校を放逐される(自主退学)。

上京
自主退学後、実兄を頼りに上京し、都立日比谷高校や都立九段高校の編入試験を受けるが入学を許可されず
都立大泉高校に編入し、同校を卒業する。

1956年、東京大学教養学部文科II類に入学。駒場寮に入りキャバレーのボーイ、家庭教師などのアルバイトをして学費、生活費を稼ぐ。学生時代は「マルクスの亀井」と呼ばれるほど、マルクス経済学に精通していた。また他校の合気道部の学生を糾合して「日本学生合気道連盟」を結成、その初代委員長を務めた。段位は学生時代に三段を取得した。

またアメリカの水爆実験反対を訴えるストライキが原因で退学となった友人を救うため、ハンストを決行する。その後、1週間あまりでドクターストップとなったが、大学当局はその友人の退学を取り消した
。」”

とあり、正義感の強い人物像を想像していましたが、編入入学した都立大泉高校の同級生であった金児昭様がブログ「高校同窓生からみた亀井静香氏 」(上には上がある)、「高校同窓生からみた亀井静香氏 (2)」(人の縁(えん・ゆかり))で、亀井大臣の高校時代及びその後の逸話を紹介しており、亀井大臣の人物について、再認識しました。

亀井氏は、地元の修道高等学校を自主退学後、東京都立大泉高校の両角校長先生の特別の温情(校長面接で認めるという英断)があって、大泉高校に編入でき、金児昭氏と同級生になりました。
亀井氏は、運輸大臣になったとき東京都練馬区の両角先生の霊前にお線香を上げに行って、御礼を申し上げたそうです。

金児昭様は、ブログで、同級生に、成績優秀な下 壮而(しも・そうじ)君がおり、2番手に亀井氏がおり、目立つ学生であったとし、亀井氏は1浪人して東大に入り、バンカラタイプで、学生運動には参加しなかったが、一度だけ、学生運動を推進している学生自治会のハンストに参加したそうで、「学生みんなで決めたストライキのために、自治会委員長が停学処分を受けた。思想哲学は合わないが、トップだけに責任を負わせるのはけしからん、そういう処分を下した大学当局に反対するストならな参加する」したそうです。
その後、亀井氏は、東京大学を卒業して、民間企業に勤めてから、一念発起して公務員試験を受け、警察庁に入り、政治家になりました。

同級生で学業優秀だった下 壮而氏は、貧しい家庭に生まれ、一所懸命努力をして、人並み外れた人格・識見・学力で、国家のために奉仕しようと農林省に入った下君は、活躍を嘱望されながら若くして(46歳)亡くなり、下 壮而氏の遺稿を集めて死後2年経って発刊された『現代経済の透視 ―現代資本主義論ノート』が発刊され、序文を恩師の東京大学の隅谷三喜男先生が書いております。

そして、隅谷三喜男先生の自伝本『激動の時代に生きて』(岩波書店)に、成田空港問題の記述があり、成田問題決着という最終盤の記述に、

”「・・・こうして円卓会議は一二回、次の総括をもって成功裡に終った。
(中略)
その時、円卓会議の結論を当局側の見解を代表して、「国としての深い反省に基づくもの」と語った亀井運輸大臣は立ち上がり、つかつかと反対同盟側に歩み寄り、石毛君らと握手した。石毛君らは後で「あの時は亀井さんに先を越された。我々も立ち上がって舞台の真ん中で握手するつもりだったのに」と語った。亀井運輸大臣は二四年前、機動隊員が三人殺された時、全国から集まっていた機動隊の隊長であった。反対同盟に怨みをもっていた。その亀井氏が成田問題の決着点でこうした役割を演じたことは記録しておくべきだと思う。
ともあれ、これを以って成田空港問題に対する私の責任は解除された。関係者は敵も見方もなく祝杯をあげた。

――『激動の時代を生きて』(隅谷三喜男著、岩波書店)p227~228
」”

と、『亀井運輸大臣は二四年前、機動隊員が三人殺された時、全国から集まっていた機動隊の隊長であった。反対同盟に怨みをもっていた。その亀井氏が、「国としての深い反省に基づくもの」と語り、先制して、反対同盟側に歩み寄り、石毛君らと握手した。』”という逸話を紹介しています。

亀井氏の「過去は過去とし、非は非」とする人間性を垣間見した思いですね。
亀井氏が警察官僚から政治家を志たのは、TV番組で、悪い人間を一生懸命に捕えてきたが、浅間山荘事件で、悪い人間を生み出す社会に疑問を感じるようになり、政治家を志たと語っていましたが、メディアの亀井氏の論評(寝業師ら)からは想像できない人間像ですね。

当時の都立大泉高校は、制服が自由で、「学生らしい服装」規定で、下駄は音がし、回りに迷惑をかけるから禁止という「自由な学風」が伝統といわれており、亀井氏も大泉高校の自由な雰囲気に合っていたのでしょうね。

雑感ですが、
当方は、優しい目線の金児昭様のブログには、好印象をもっています。
信越化学工業の常務取締役まで勤めた人間が、ブログで、
”「一介の会社員として、誰よりも自分をかわいがるために、「ペコペコ哲学」を実践してきた気の小さい私はいま、下君にも亀井君にも隅谷先生にも両角先生にも、心からペコペコし、これらの方々の不思議な「縁」に思いを馳せ、人生というものの素晴らしさをしみじみ味わっています。きっと天国の下君が、私に、このコラムを書く力を与えてくれているのです。」”
と、嫌味なく、「一介の会社員として、誰よりも自分をかわいがるために、「ペコペコ哲学」を実践してきた気の小さい私」という小市民的な素直な心情(揉み手の処世術)には、共感できますね。



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