世界の彼方此方へ行きたい

気ままな旅の様子を綴っていきます

最後のロッジ(2017ネパール(no23)

2017-05-10 | アジア

 橋を越えてからが本命の登りだ。と聞いていた。まだまだ続くのか、確かに厳しい苦難の道。二重橋が遥か下方になった。 

 3055m  この時計の指針によれば、まだ400mも登らなきゃならない。うそでしょう。登山という労働には酸素が少なすぎる。今こうして書きながら思う。水を飲まなかった。水を取りにニマが背負う私のリュックに手を入れたことがなかった。トイレの要求もなかったっけ。青空トイレしなかったもの。まさにめちゃくちゃ歩きだったわけだ。これじゃ身体にいいわけないね。前の写真の大休止のところでは、ふたりを待っていてくれたポーターから、おいしいお茶とお菓子をいただき、ほっと一息だったんだけど。 

 手ごろな休憩場所がないと、ポーターたちは、こうして杖を荷物の支えにし、立ち休憩します。もちろん私もお座りしての撮影。 

 Sさんのコメントには「もうフラフラで、めまいがしています。写真を撮る気力もありません」と書きながら、この写真を写しています。寝袋を車に積んで、山のふもとで睡眠、そして山登り。そんな山男Sさんにしてこれなのだ。ひとつ年上の私が降参しないはずがない。私にとっては「この男にして」そうだったのかとうれしいコメントでした。 

 

 健脚高齢者グループの皆さんは、旅の行程表に記載されていたとおり5時間で目的地に到着していました。ホントにほんとに敬意敬意。 

 ポーターに負けるな。とは言いません。言ってみたところで所詮むなしいだけ。どんな構造になっているのか、とにかくその心体の強さには驚くほかありません。これらの食料などなど、雪に閉じ込められてしまう期間はどうするのだろう。 

 先に歩いた仲間から1時間30分遅れで、ようやくバザールが開かれている先端にたどり着いた。雪がパラパラ降ってきた。ここから私のルートは違ったらしい。Sさんの写真のごったくお店がいっぱいの街中は通りません。登坂するその急坂に最後のダメージを受けるのでした。 

 それでも、苦労して、ここまで来た証としてナムチェバザールの町を留めておきたい。と写した一枚。ルクラから歩いて来て初めて目にする大きな町だ。この山奥にこんな町があるとは。交通事情から産業は興せないだろうし、そうかといって農業では生きて行けない。ほとんどの建屋がヒマラヤ観光がらみなんだろうか。 

 ルクラから19km、有森裕子のように自分をほめることはできない。情けない歩きだった。急坂の登りに苦しんだ先にロッジが見える。先輩シェルパの「パサン」が迎えに来た。おんぶなんかいいと言っても聞いてくれない。よってこんな姿を「ニマ」に写されてしまった。いや、このおんぶされるのが大変。とにかく背中にしがみついていなければならないのです。よって、その厚意を無にして、すぐ降ろしてもらいました。おんぶされるというのが歩くより大変だ。ということを知った体験でした。 

 私のお弁当ではありません。味噌汁もビールもおいしそうだ。 

 ようやく私も席に着きます。12時30分に到着していた皆さんが、1時間30分もランチの時間を遅らせて、私を待っていてくれたのだ。「高山咳」に侵されたとはいえ、エベレスト街道歩きを甘く見ていたことは間違いない。生活道路だと聞いてきたとはいえ、喜寿を過ぎたやわな身には、しょせん無理だったのかもしれない。あと7歳いや5歳若かったらと思えども年月は帰ってきてくれない。皆さんに随分迷惑をかけてしまった。 

 モンジョからナムチェまで、苦戦の道のりがこれです。たびたび目を楽しませてくれたタムセルクとクンビラは地図の位置ではこんなところに鎮座していたのだ。その上にはまだまだ集落があるのです。エベレストへの前進基地とされるナムチェバザール。この地図ではよくわかりませんがナムチェのまだまだ上の方に、Hマークでロッジが示されています。4200m付近にもHマークが見えているのです。 


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