(星槎大学の校庭。北海道らしい風景の一こま。遠くに見える建屋は星槎国際高校でここに宿泊することもできる。)
8月3日(金)
5時15分起床。今日は同じホテルに宿泊している伊藤一美先生と仙台から来ている学生さんを大学まで送る約束をしていたので、少しのんびりムード。8時20分にホテルから出発。いよいよスクーリング最終日である。
昨日述べたように共生科学概論 I は今までにない楽しい講義である。教科の内容によるのか、金子先生の個性によるものかよく分からないが、ある意味絶対的に「これが正しい」という結論がない世界の話であるので、講義自体が双方向性でもあり、ひとつの事象に対して学生側からも投げかけができ、議論ができるあたりがなんとも新鮮である。発達にハンディキャップを持つ子ども達の療育をどう進めるか?という命題を持つ私にしてみれば、そのことを念頭に置き文化論で考えながら、講義を聴いていくというのも、なかなか良い。
子どもの療育ではないが、講義内で紹介された老人介護のヘルパーをしている大橋さんという25歳の女性の経験話が印象的であった。大橋さんがデンマークとスウェーデンの福祉介護制度の実際を視察する際に出会う異文化との接触について描いたドキュメントであった。
講義で使っている教科書によれば、個人主義的かつ女性的文化を持つこれらの国の福祉介護システムは老人に対するケアが厚く見える。起床時間も強制されなければ、食事の時間、何時食べるか、どれくらい時間をかけて良いかといった点なども全て老人のペースに合わされる。時間に追われ慌しく日々の対応をし、それでも何時までも追いつけないといった感じの日本の介護とは雲泥の差があるように見える。大橋さんは;
「スウェーデンでは全ての介護活動がクライアント中心で、クライアントに合わせた、クライアント別(個別)の介護方式が最優先されている。日本ではクライアントよりも、次のシフトの職員に仕事を残して迷惑をかけない、ということを最優先している。」
と指摘した。集団主義で男性的な文化を持つ日本との大いなる相違点の縮図のように思える。
「療育や教育プログラムがまず有りき。そこに子どもを合わせていく。」という姿勢が学校教育の場面で多く見かけられる点と合い通じもするように思える。子どもに合わせた療育プログラムを個別に立てる。「個別指導計画をお仕着せでなく、親も含めた場で立案し、きめ細かくレビューしながら療育や教育を実践すべき。」という私の主張はこの大橋さんが見たスカンジナビア諸国の介護福祉と大きくラップする。尤も、私の考え方が個人主義的といわれるのは構わないが、女性的と言われることには抵抗感があるが…!
スカンジナビアの介護福祉は「人間的」に映る。しかしこのスカンジナビアの手法をそのまま日本へ持ち込んだらどうなるか?ということも考えてみる必要もあることだろう。きっと大橋さんは、ご自身がスカンジナビアで体験したカルチャーショック以上のものを感じることになるであろう。勿論、25%の消費税、高い所得税(デンマーク50%、スウェーデン30%)で裏打ちされた潤沢な資金的バックグラウンドを持つ福祉制度とは、人的体制において大きな差があるであろうということは最初から想像できる。資金的な問題は横に置いておいても、老人介護に従事する他のヘルパーや経営者の共感を得るのは、多大なエネルギーを要することであろう。大橋さんは自分で事業を興すしか方法がないかも知れない。しかし最大の問題点はクライアントもまた、日本人固有の文化を持っているという点にあるということではないかと思える。
介護福祉に限らず、教育・療育プログラム、ビジネスにおける経営手法、マーケティング手法を外国から持ってきてそのまま使用することが困難であると主張することには、今更ながらの感がある。しかし誤解をしないで頂きたい。だから「プログラムに子どもを合わせれば良い。」と言っているのではない。この点はまったく別の話である。十分に年輪を重ねた老人個々の尊厳を大切にすると言う思想は、日本の介護福祉であっても、否定されることではない。ということと同様に、療育においても個を大事にすることは、何よりも尊いことなのである。
文化の違いは、私達個々人のレベルにもある。面白い事例がある。金子先生は忠臣蔵について;
「上司は自分自身の失敗に責任を取って、割腹自殺を遂げ、部下たちの生活を守る。やがて部下たちは機会を伺いあだ討ちをする。このように『家』を支え、『家』の犠牲になることへの美学と賞賛が日本人の共感を誘う。」
とレジメに書き、高校時代に忠臣蔵に大変感動したという逸話語られた。
実は私も忠臣蔵の話は嫌いではない。多くの役者が演じてきたものであるが、取分け、三船敏郎が大石蔵助を演じ、テレビ朝日が年間を通じて大河ドラマとして放映した大忠臣蔵には、高校生だったか大学生だったかは忘れたが、金子先生と同じぐらいの歳の時、大いに感動したものである。しかしそこで展開される世界に対しては全く違った社会観を持つ;
「一時の感情に身を任せた、発達障害にも見える世間知らずの上司は、彼の社会ではタブーとされることを犯してしまう。本人は『罰』として、死罪になり、部下は城を明け渡し(苫小牧のミートホープ事件ではないが、今風に言えば会社が倒産するような状態で、再就職も可能性が全くない状態と言えよう)、収入の道を閉ざされて、苦しむことになる。一部の部下は(一つの藩に仕える侍が47名と言うことはなく、ほんの一握りの人たちだった訳であるが)この事実を受け止めきれず(受容できず)、今日の価値観で言えば無用の『面子』にコダワリ、家庭をも省みず、あだ討ちにはしる。」
のである。美学どころではない、そこには人間の愚かさしか見えてこない。では何故感動したのか?それは『演出された悪役としての吉良上野介という存在』がキーとなる。勧善懲悪の世界が展開される。簡単に言えば水戸黄門などにも通じるものであり、日本的文化の一つのエッセンスとも言えよう。
金子先生の捉え方と私の捉え方、是非論ではない。個々人の持つ文化的受け止め方の違いに他ならない。
全てが終わり、スターライトホテルに戻る。今日学友でこのホテルにもう一泊するものは誰もいない。ステーキと赤ワインの夕食を摂り、露天風呂へ。米国インディアナ州から来て、木材関係の仕事をしていると言う白人のおっさんと出くわした。普段シャワーを好み、バスは使わないというこのおっさんには、ぬるめの湯でもかなり熱く感じるとのことであった。思いもかけず、久々に英会話を楽しむことができた。明日は土曜日。北海道での休暇。友人の家に寄せて頂く。台風が近づいてもいる。