色々な参考書があり、色々な勉強法がある。覚えるべきことはたくさんあって、大学の種類も数多くある。
だが、浪人しても、出来ることは限られている。少なくとも、暗記すべきことを全て暗記した状態で入試にのぞむ、ということは有り得ない。
そこで大切なことがある。それは、「各教科にひとつ、バイブルを持つ」ということである。バイブルは、総合的なテキストが望ましい。その一冊を完璧に頭に入れることを目標に一年を過ごすのである。実際のところ、それをするだけでも大変な労力が強いられるものだ。だから、他のものに手を出している暇はないであろう。
しかし、浪人中は、色々な勉強法が気になる。自分が使っているテキストより良さそうなものが目にチラつく。そして、手を出してしまう。
私は、二浪目にこれで失敗した。効率のいい勉強法ばかり追い求めた結果、一貫性を失ってしまった。だから、入試本番のときは、不安で仕方がなかった。信じたテキストがないからである。
「信じるものがある」ということは、とても大切なことだ。
柔道で例えてみよう。
柔道には色々な技がある。しかし、色々な技を習得したからといって、強くなるとは限らない。それぞれの技のクオリティが低いからだ。
それよりも、自信のある技を何かひとつ持っていた方がいい。例えば、背負い投げでもいいだろう。
そうすると、その背負い投げが自分の中の精神的な支柱となる。だから、試合中に弱気になってしまったときなどでも、自分が何を信じて練習してきたかを思い出すことができる。この場合は、「背負い投げ」だ。
だから、弱気になった心をすぐに戻すことができる。背負い投げを狙って試合を進めていくのだ。
柔道経験者なら分かることだが、背負い投げをする場合は、ただ闇雲に仕掛けても決まらない。背負い投げに持って行くために、あらゆる技を伏線として張っておく。
すると、伏線だったはずの他の技で、意外にも相手が倒れる場合がある。これは、背負い投げを信じた結果である。
単に色々な技を練習するにしても、「背負い投げを決めるための技」として練習するのと、「とりあえず色々出来ればいいだろう」と無目的にやるのとでは全然違ってくる。信じるものをひとつ持っているおかげで、他の技のクオリティさえも上がるのだ。
もし、自分の信じたものがあった上で負けたなら、後悔はしないはずだ。次につなげることができる。
よく、青春モノのマンガで、「俺が信じるのは、背負い投げだ!」とか「俺の決め球は、フォークボールだ!」などと言っている主人公がいるのを見たことがあるだろう。たいてい、こういう展開の場合、主人公は負ける。そして友人や恋人と涙しながら「この経験を、次に生かすぜ!」などといって感動モノとして終わる。
これは、ある意味では笑えるような、お決まりの展開だ。しかし、あなたはこれを本当に笑うことができるだろうか。もちろん、「色々な方法論の良いところを取り入れる」という考えも良いが、それは、何かひとつのことを貫徹した上での話だ。
まずは、「ひとつの事を貫徹する」、これが重要だ。重要であると同時にとても難しいことだ。
その、「難しいこと」ができた人は、他の人とあらゆる意味で違いが出てくる。
当然、その「違い」とは、合否も含まれる。
ひとつの事を追い求めることを、恥ずかしいことだと思ってはいけない。むしろ、チョロチョロとイイトコ取りするやり方を、恥じるべきだ。
だが、浪人しても、出来ることは限られている。少なくとも、暗記すべきことを全て暗記した状態で入試にのぞむ、ということは有り得ない。
そこで大切なことがある。それは、「各教科にひとつ、バイブルを持つ」ということである。バイブルは、総合的なテキストが望ましい。その一冊を完璧に頭に入れることを目標に一年を過ごすのである。実際のところ、それをするだけでも大変な労力が強いられるものだ。だから、他のものに手を出している暇はないであろう。
しかし、浪人中は、色々な勉強法が気になる。自分が使っているテキストより良さそうなものが目にチラつく。そして、手を出してしまう。
私は、二浪目にこれで失敗した。効率のいい勉強法ばかり追い求めた結果、一貫性を失ってしまった。だから、入試本番のときは、不安で仕方がなかった。信じたテキストがないからである。
「信じるものがある」ということは、とても大切なことだ。
柔道で例えてみよう。
柔道には色々な技がある。しかし、色々な技を習得したからといって、強くなるとは限らない。それぞれの技のクオリティが低いからだ。
それよりも、自信のある技を何かひとつ持っていた方がいい。例えば、背負い投げでもいいだろう。
そうすると、その背負い投げが自分の中の精神的な支柱となる。だから、試合中に弱気になってしまったときなどでも、自分が何を信じて練習してきたかを思い出すことができる。この場合は、「背負い投げ」だ。
だから、弱気になった心をすぐに戻すことができる。背負い投げを狙って試合を進めていくのだ。
柔道経験者なら分かることだが、背負い投げをする場合は、ただ闇雲に仕掛けても決まらない。背負い投げに持って行くために、あらゆる技を伏線として張っておく。
すると、伏線だったはずの他の技で、意外にも相手が倒れる場合がある。これは、背負い投げを信じた結果である。
単に色々な技を練習するにしても、「背負い投げを決めるための技」として練習するのと、「とりあえず色々出来ればいいだろう」と無目的にやるのとでは全然違ってくる。信じるものをひとつ持っているおかげで、他の技のクオリティさえも上がるのだ。
もし、自分の信じたものがあった上で負けたなら、後悔はしないはずだ。次につなげることができる。
よく、青春モノのマンガで、「俺が信じるのは、背負い投げだ!」とか「俺の決め球は、フォークボールだ!」などと言っている主人公がいるのを見たことがあるだろう。たいてい、こういう展開の場合、主人公は負ける。そして友人や恋人と涙しながら「この経験を、次に生かすぜ!」などといって感動モノとして終わる。
これは、ある意味では笑えるような、お決まりの展開だ。しかし、あなたはこれを本当に笑うことができるだろうか。もちろん、「色々な方法論の良いところを取り入れる」という考えも良いが、それは、何かひとつのことを貫徹した上での話だ。
まずは、「ひとつの事を貫徹する」、これが重要だ。重要であると同時にとても難しいことだ。
その、「難しいこと」ができた人は、他の人とあらゆる意味で違いが出てくる。
当然、その「違い」とは、合否も含まれる。
ひとつの事を追い求めることを、恥ずかしいことだと思ってはいけない。むしろ、チョロチョロとイイトコ取りするやり方を、恥じるべきだ。