さて、参考までに前項で書いた「秘伝」に関する実際の例を挙げよう。ここに紹介する人達は前項でいう「カッコいい人」たちだ。
ちなみにカッコ悪い人は…
教師を「教え方が悪い」と批判し、親に対し「何で小さい頃から塾に通わせてくれなかったんだ」と暴言を吐く。
さらにひどい例もある。これはどこかのサイトで見たのだが、その人が小さな頃、親がいくら言っても「習字の塾」に行くのをイヤがったそうだ。ところが、その人は今、大人になり、「今、自分の字が汚いのは、あのとき親が無理にでも習字の塾に通わせなかったからだ」と毒づいていた。ここまでくるとわけが分からないが、実際、このような人は多いかもしれない。
あなたはどうだろう?胸に手を当てて見て欲しい。
さて、以下に挙げるのは、茶道や立花や能など、いわゆる「芸能」の世界の伝授の図だ。こうやって、芸を受け継ぐ権利を与えられた人は、「教える方が悪い」などということは絶対に言わない。教える方に責任を押しつけてしまっては、いつまでも伸びることはない。スポーツの世界でも、子供のころから同じスポーツ少年団に所属し、中学、高校と同じ部に入っても、やがてプロに行ける人とそうでない人がいる。この差は、いったい何だろう。歴史上のエラい人たちの実績を見れば、そのことが分かるかもしれない。そう思って、以下を紹介することにした。特に、日本史選択者にとっては暗記必須事項だから、しっかりと覚えるように。
* *
・茶道
村田珠光(じゅこう)→武野紹鴎(じょうおう)→千利休
茶会は、南北朝期は派手なパーティじみたものだったが、それを村田珠光(東山時代)が「詫び茶」と呼ばれる芸術的なものに押し上げた。さらに、戦国時代には武野紹鴎により簡素に洗煉され、そしておなじみの千利休の段階になると、その簡素さは極限にまで達して禅と融合し、茶は高い芸術性を獲得した。
余談だが、千利休の時代、すなわち豊臣秀吉の時代は、茶は大名にも広がっており、各地の大名が、いわば田舎者根性丸出しで「馬鹿にされまい」と茶を学んだ。ところが、茶の芸術性を理解できた武将は少なく、結局は単なる付き合いや見栄のために茶が利用され、秀吉にいたっては金の茶室などというおよそ詫び茶の精神からはほど遠い金満主義的な茶を楽しんだ。さらに秀吉は、1587年、京都の北野神社で茶席約800席を設けて北野大茶会を催した。当然ながら、これは千利休の《妙喜庵待庵》―狭く、簡素な茶室。京都―の真逆の発想で催された茶会である。
秀吉と千利休は当初は仲が良く、それどころか秀吉は利休の弟子のような形で茶を学んだのだが、所詮は秀吉にとって茶というものは自分に箔を付けるための道具でしかなかったのである。秀吉は足軽から成り上がった身だったので、まわりからは軽蔑されていた。それを解消するために、茶を利用したのである。
最終的に秀吉は、理不尽な理由を付けて、千利休に自刃を命じた。
・立花(りっか)
立花とは、今でいう生け花のことだ。池坊専慶(いけのぼうせんけい)→池坊専応→池坊専好の流れで伝えられた。それぞれ時代は、東山期、戦国期、江戸初期である。名前のおしりをとって「慶応好き」と覚えよう。
・能
観阿弥・世阿弥父子→金春禅竹(こんぱるぜんちく)の流れを覚えよう。
観阿弥・世阿弥は、ある日、将軍足利義満の前で能を披露した。義満は、当時美少年だった世阿弥をたいそう気に入り、観阿弥の一座「観世座」を将軍直属の座にした。そのため、世阿弥は時の人となった。いわばアイドルである。
しかし、次の将軍、足利義持の時代になると、世阿弥は排斥された。義持は、父義満と険悪の仲だったため、全て義満と逆の行動をとったのである(義満が中国の明と行っていた勘合貿易も、義持の時代に中止した。義持は、明の配下になるのがイヤだったのだ)。
その後、世阿弥の観世座が世に浮かぶことはなかった。世阿弥は、芸術家として華やかな時代と惨めな時代を過ごしたためか、彼の芸術論は哲学的である。そのため彼の著書「風姿花伝」は、今では多くの俳優や、音楽家の間で愛読されている。
・古今伝授
東常縁(とうのつねより)→宗祇(そうぎ)→三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
「古今伝授」とは、古今和歌集の読解法を限られた人だけに教えることを言う。今は、多くの参考書のおかげで、受験生は簡単に古今和歌集の注釈を読むことができるが、室町時代はそんなのはもっての他だったのだ。
当時は、和歌を知る者は尊敬された。誰も詳しくないからこそ、詳しい者が尊敬される。みんなが知っていたら、尊敬はされないだろう。だから簡単には教えないのだ。
試験では、「秘事・口伝」というキーワードが出てきたら、ほぼ間違いなく古今伝授のことを指す。
――ちなみに、宗祇は「連歌」でも重要な人物だ。連歌とは、和歌のお遊びバージョンだと思えばいい。「連」という字から分かる通り、人々が連なるようにして、しりとりのように歌をその場で作ってつなげる遊びだ。
その中でもマジメな「正風連歌」とホントのお遊びである「俳諧連歌」があるので分けて考えよう。俳諧連歌での重要人物は「山崎宗鑑」で、有名な俳諧連歌集は「犬筑波集」だ。犬の字から分かる通り、俗的なものだ。お遊びだ。
一方、正風連歌の方はマジメだから連歌集もマジメな名前がついている。ズバリ「新撰菟玖波集」だ。これは勅撰である。つまり天皇の認可のある、マジメな連歌集なのだ。
ついでだ。もうひとつ言おう。連歌に夢中になった上皇といえば誰だろうか?(試験必須)
答えは、後鳥羽上皇だ。その、連歌を愛した後鳥羽上皇が亡くなった後、追悼の意味で編まれたのが「水無瀬三吟百韻」である。覚え方として参考までに詳しく書くと・・・「水無瀬(みなせ)」は後鳥羽上皇をまつる神社、「三吟」とは三人が吟じた、という意味(その中に宗祇がいる)、「百韻」とは、百句の連歌を連ねた、という意味である。まるでギネスに挑戦するかの如くの怒濤の連歌レースだ。強烈な連歌集である。頻出用語だ――
・絵画
《狩野派》
狩野正信・狩野元信→狩野永徳・狩野山楽→狩野探幽
狩野派は、漢画系である。狩野正信・元信父子によって成立した。室町後期から江戸期にかけて、御用絵師として栄えた。つまり体制側である。 テレビ局でいえばNHKだ。とりあえず御用絵師といえば狩野という理解でよい。
狩野元信「大仙院花鳥図」。東山期
狩野永徳「唐獅子図屏風」「檜図屏風」。桃山期
狩野山楽「松鷹図」「牡丹図(ぼたんず)」。桃山期
狩野探幽「大徳寺方丈襖絵」。江戸期。
狩野なんたらという似たもの同士が続いていて覚えにくい。だから、作品名が記述で出たら諦めよう。しかし、選択肢問題なら確実に取らなければならない。まず元信は、「元信・花鳥・東山」とすればリズムがいい。
永徳と山楽が桃山期なのは一般常識だ。テレビのお宝鑑定番組でニセ物がよく出てくる人気の画家。覚え方としては、《永徳の方が有名で、エラい。だから、文字数が多い作品が永徳、少ない作品が山楽》とするといい。
探幽は、《探幽・大徳・江戸期》と強引にリズムで覚えればいい。ちなみに、探幽は早熟型の画家で、少年の頃からすでに御用絵師になっていた。だから私は受験期、探幽のことを《探幽くん》、と特別に親しみを込めて呼んでいた。
歴史用語を覚えるときは、ゴロやリズム、文字数や頭文字、などを駆使して、さらには《探幽くん》のように用語を生きたものにして親しみを込めるといい。
自作のゴロやリズムが良い理由は、「サムい」からである。それを自宅でひとりで唱えているとき、あまりのサムさに心がえぐられるような痛みを感じる。その痛みが刺激となって、記憶に残るのだ。特にゴロは、勝手に知り合いの名前を使ったりして覚えると、あまりのサムさに一発で覚える。自作したという苦労も脳のシワに刻まれる。
だから、サムいゴロをたくさん作ろう。
《土佐派》
土佐光信→土佐光起
土佐派は大和絵である。漢画の狩野、大和絵の土佐と覚えよう。実は土佐派も狩野派と同じく、御用絵師だ。が、「御用絵師といえば狩野派、そうじゃないのは土佐派」という理解で良い。というのも、土佐派は幕府よりも宮廷に近かったし、途中、没落の時期が長かったため、あまり声を大にして「御用絵師だ!」と言えるような感じではないのである。
試験では、作品名は必要ない。名前と時代だけ把握しよう。
土佐光信→東山期
土佐光起→江戸初期
《一匹オオカミ系》
水墨画の長谷川等伯。「伝授」とは関係ないが、重要だからついでに紹介する。
「智積院襖絵(ちしゃくいんふすまえ)」「松林図屏風」は選択肢で答えられるようにしておこう。
本当は、「長谷川派」というものがあるのだが、どちらかというと彼は一匹オオカミ的なイメージが強い。だからそういう理解でよい。
長谷川等伯の人生は、打倒狩野派に燃えた人生といっても過言ではない。画家の家に生まれていない一介の田舎絵師がいかに狩野派に対抗したか。当然、はじめは世間から無視された。だが、狩野派の作品が形骸化していたなか、上昇志向に燃える等伯の絵はしだいに人々の心を捉えた。そしてあの豊臣秀吉までもが彼に絵を依頼した。
ちなみに、等伯は、本当は水墨画だけではないのだが、ここではそういう理解でよい。
――水墨画は、他にも明兆・如拙・周文・雪舟がいる。
これらは、禅と深く関わっている。内容も禅に関するものだったり、禅的な山水を描いたものだったりする。
ここでは詳細はあえて伏せるが、各自調べて暗記してもらいたい――
* *
さて、以上、伝授や秘事口伝に関する日本史用語をいくつか挙げた。日本史選択者は是非覚えてもらいたい。
日本史で受験しない人も、教養として知ってもらいたい。そして、「教えられる=伝授される」ということが、どんなに有り難いことか、認識してもらいたい。そうすれば、いちいち自分の予備校の文句を言うこともなくなるはずだ。
ちなみにカッコ悪い人は…
教師を「教え方が悪い」と批判し、親に対し「何で小さい頃から塾に通わせてくれなかったんだ」と暴言を吐く。
さらにひどい例もある。これはどこかのサイトで見たのだが、その人が小さな頃、親がいくら言っても「習字の塾」に行くのをイヤがったそうだ。ところが、その人は今、大人になり、「今、自分の字が汚いのは、あのとき親が無理にでも習字の塾に通わせなかったからだ」と毒づいていた。ここまでくるとわけが分からないが、実際、このような人は多いかもしれない。
あなたはどうだろう?胸に手を当てて見て欲しい。
さて、以下に挙げるのは、茶道や立花や能など、いわゆる「芸能」の世界の伝授の図だ。こうやって、芸を受け継ぐ権利を与えられた人は、「教える方が悪い」などということは絶対に言わない。教える方に責任を押しつけてしまっては、いつまでも伸びることはない。スポーツの世界でも、子供のころから同じスポーツ少年団に所属し、中学、高校と同じ部に入っても、やがてプロに行ける人とそうでない人がいる。この差は、いったい何だろう。歴史上のエラい人たちの実績を見れば、そのことが分かるかもしれない。そう思って、以下を紹介することにした。特に、日本史選択者にとっては暗記必須事項だから、しっかりと覚えるように。
* *
・茶道
村田珠光(じゅこう)→武野紹鴎(じょうおう)→千利休
茶会は、南北朝期は派手なパーティじみたものだったが、それを村田珠光(東山時代)が「詫び茶」と呼ばれる芸術的なものに押し上げた。さらに、戦国時代には武野紹鴎により簡素に洗煉され、そしておなじみの千利休の段階になると、その簡素さは極限にまで達して禅と融合し、茶は高い芸術性を獲得した。
余談だが、千利休の時代、すなわち豊臣秀吉の時代は、茶は大名にも広がっており、各地の大名が、いわば田舎者根性丸出しで「馬鹿にされまい」と茶を学んだ。ところが、茶の芸術性を理解できた武将は少なく、結局は単なる付き合いや見栄のために茶が利用され、秀吉にいたっては金の茶室などというおよそ詫び茶の精神からはほど遠い金満主義的な茶を楽しんだ。さらに秀吉は、1587年、京都の北野神社で茶席約800席を設けて北野大茶会を催した。当然ながら、これは千利休の《妙喜庵待庵》―狭く、簡素な茶室。京都―の真逆の発想で催された茶会である。
秀吉と千利休は当初は仲が良く、それどころか秀吉は利休の弟子のような形で茶を学んだのだが、所詮は秀吉にとって茶というものは自分に箔を付けるための道具でしかなかったのである。秀吉は足軽から成り上がった身だったので、まわりからは軽蔑されていた。それを解消するために、茶を利用したのである。
最終的に秀吉は、理不尽な理由を付けて、千利休に自刃を命じた。
・立花(りっか)
立花とは、今でいう生け花のことだ。池坊専慶(いけのぼうせんけい)→池坊専応→池坊専好の流れで伝えられた。それぞれ時代は、東山期、戦国期、江戸初期である。名前のおしりをとって「慶応好き」と覚えよう。
・能
観阿弥・世阿弥父子→金春禅竹(こんぱるぜんちく)の流れを覚えよう。
観阿弥・世阿弥は、ある日、将軍足利義満の前で能を披露した。義満は、当時美少年だった世阿弥をたいそう気に入り、観阿弥の一座「観世座」を将軍直属の座にした。そのため、世阿弥は時の人となった。いわばアイドルである。
しかし、次の将軍、足利義持の時代になると、世阿弥は排斥された。義持は、父義満と険悪の仲だったため、全て義満と逆の行動をとったのである(義満が中国の明と行っていた勘合貿易も、義持の時代に中止した。義持は、明の配下になるのがイヤだったのだ)。
その後、世阿弥の観世座が世に浮かぶことはなかった。世阿弥は、芸術家として華やかな時代と惨めな時代を過ごしたためか、彼の芸術論は哲学的である。そのため彼の著書「風姿花伝」は、今では多くの俳優や、音楽家の間で愛読されている。
・古今伝授
東常縁(とうのつねより)→宗祇(そうぎ)→三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
「古今伝授」とは、古今和歌集の読解法を限られた人だけに教えることを言う。今は、多くの参考書のおかげで、受験生は簡単に古今和歌集の注釈を読むことができるが、室町時代はそんなのはもっての他だったのだ。
当時は、和歌を知る者は尊敬された。誰も詳しくないからこそ、詳しい者が尊敬される。みんなが知っていたら、尊敬はされないだろう。だから簡単には教えないのだ。
試験では、「秘事・口伝」というキーワードが出てきたら、ほぼ間違いなく古今伝授のことを指す。
――ちなみに、宗祇は「連歌」でも重要な人物だ。連歌とは、和歌のお遊びバージョンだと思えばいい。「連」という字から分かる通り、人々が連なるようにして、しりとりのように歌をその場で作ってつなげる遊びだ。
その中でもマジメな「正風連歌」とホントのお遊びである「俳諧連歌」があるので分けて考えよう。俳諧連歌での重要人物は「山崎宗鑑」で、有名な俳諧連歌集は「犬筑波集」だ。犬の字から分かる通り、俗的なものだ。お遊びだ。
一方、正風連歌の方はマジメだから連歌集もマジメな名前がついている。ズバリ「新撰菟玖波集」だ。これは勅撰である。つまり天皇の認可のある、マジメな連歌集なのだ。
ついでだ。もうひとつ言おう。連歌に夢中になった上皇といえば誰だろうか?(試験必須)
答えは、後鳥羽上皇だ。その、連歌を愛した後鳥羽上皇が亡くなった後、追悼の意味で編まれたのが「水無瀬三吟百韻」である。覚え方として参考までに詳しく書くと・・・「水無瀬(みなせ)」は後鳥羽上皇をまつる神社、「三吟」とは三人が吟じた、という意味(その中に宗祇がいる)、「百韻」とは、百句の連歌を連ねた、という意味である。まるでギネスに挑戦するかの如くの怒濤の連歌レースだ。強烈な連歌集である。頻出用語だ――
・絵画
《狩野派》
狩野正信・狩野元信→狩野永徳・狩野山楽→狩野探幽
狩野派は、漢画系である。狩野正信・元信父子によって成立した。室町後期から江戸期にかけて、御用絵師として栄えた。つまり体制側である。 テレビ局でいえばNHKだ。とりあえず御用絵師といえば狩野という理解でよい。
狩野元信「大仙院花鳥図」。東山期
狩野永徳「唐獅子図屏風」「檜図屏風」。桃山期
狩野山楽「松鷹図」「牡丹図(ぼたんず)」。桃山期
狩野探幽「大徳寺方丈襖絵」。江戸期。
狩野なんたらという似たもの同士が続いていて覚えにくい。だから、作品名が記述で出たら諦めよう。しかし、選択肢問題なら確実に取らなければならない。まず元信は、「元信・花鳥・東山」とすればリズムがいい。
永徳と山楽が桃山期なのは一般常識だ。テレビのお宝鑑定番組でニセ物がよく出てくる人気の画家。覚え方としては、《永徳の方が有名で、エラい。だから、文字数が多い作品が永徳、少ない作品が山楽》とするといい。
探幽は、《探幽・大徳・江戸期》と強引にリズムで覚えればいい。ちなみに、探幽は早熟型の画家で、少年の頃からすでに御用絵師になっていた。だから私は受験期、探幽のことを《探幽くん》、と特別に親しみを込めて呼んでいた。
歴史用語を覚えるときは、ゴロやリズム、文字数や頭文字、などを駆使して、さらには《探幽くん》のように用語を生きたものにして親しみを込めるといい。
自作のゴロやリズムが良い理由は、「サムい」からである。それを自宅でひとりで唱えているとき、あまりのサムさに心がえぐられるような痛みを感じる。その痛みが刺激となって、記憶に残るのだ。特にゴロは、勝手に知り合いの名前を使ったりして覚えると、あまりのサムさに一発で覚える。自作したという苦労も脳のシワに刻まれる。
だから、サムいゴロをたくさん作ろう。
《土佐派》
土佐光信→土佐光起
土佐派は大和絵である。漢画の狩野、大和絵の土佐と覚えよう。実は土佐派も狩野派と同じく、御用絵師だ。が、「御用絵師といえば狩野派、そうじゃないのは土佐派」という理解で良い。というのも、土佐派は幕府よりも宮廷に近かったし、途中、没落の時期が長かったため、あまり声を大にして「御用絵師だ!」と言えるような感じではないのである。
試験では、作品名は必要ない。名前と時代だけ把握しよう。
土佐光信→東山期
土佐光起→江戸初期
《一匹オオカミ系》
水墨画の長谷川等伯。「伝授」とは関係ないが、重要だからついでに紹介する。
「智積院襖絵(ちしゃくいんふすまえ)」「松林図屏風」は選択肢で答えられるようにしておこう。
本当は、「長谷川派」というものがあるのだが、どちらかというと彼は一匹オオカミ的なイメージが強い。だからそういう理解でよい。
長谷川等伯の人生は、打倒狩野派に燃えた人生といっても過言ではない。画家の家に生まれていない一介の田舎絵師がいかに狩野派に対抗したか。当然、はじめは世間から無視された。だが、狩野派の作品が形骸化していたなか、上昇志向に燃える等伯の絵はしだいに人々の心を捉えた。そしてあの豊臣秀吉までもが彼に絵を依頼した。
ちなみに、等伯は、本当は水墨画だけではないのだが、ここではそういう理解でよい。
――水墨画は、他にも明兆・如拙・周文・雪舟がいる。
これらは、禅と深く関わっている。内容も禅に関するものだったり、禅的な山水を描いたものだったりする。
ここでは詳細はあえて伏せるが、各自調べて暗記してもらいたい――
* *
さて、以上、伝授や秘事口伝に関する日本史用語をいくつか挙げた。日本史選択者は是非覚えてもらいたい。
日本史で受験しない人も、教養として知ってもらいたい。そして、「教えられる=伝授される」ということが、どんなに有り難いことか、認識してもらいたい。そうすれば、いちいち自分の予備校の文句を言うこともなくなるはずだ。