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早稲田に多浪しました--元浪人による受験体験記です。

二浪計画で早稲田に受かるはずが――予想外の「三浪へ」。
現実は甘くないっすね。

小論文こそ、講師を信じるべき

2006年05月12日 | 勉強法
 私は、小論文が得意だった。ちなみに、以下は私が高校三年のときの小論文模試で書いた、提出文である。
(※ただし、以下の三点を修正してある。①原文では一人称が「僕」となっていたが、それを「私」に修正 ②誤字を一部修正 ③読点を一部修正)

 *  *

 人間にとって、感情を表現することは、ごく自然のことである。そして、その表現の仕方には様々な方法があり、例えば日本の代表的な文化である短歌もそのひとつである。短歌といえば、形式が決まっているものの代表格であるが、一見反発し合うようにも思える「限りのない人間の感情」と「形式」の中で、いったい短歌はどのような役割を果たしているのであろうか。
 確かに、人間の感情には限りはなく、形式的な短歌とはうまく合わないかも知れない。しかし、現に、多くの人たちが短歌でうまく感情を表現してきているという事実は決して見逃してはならない。それは、課題文のいう「家々に残されている遠い祖先の私家集」「地方に残されている歌」などからも、はっきり事実として認めるべきものなのだ。
 では、なぜそのような事実が存在するのであろうか。私の考えるところは、短いからこそうまく表現できるということである。そもそも人間の感情というものは瞬間的であり、そう長々と表せるものではない。また、どんなに長く表したとしても、それがその人の感情の全てだということはない。それに、短く、形式的なものの代表格である短歌も、「詩」という面でとらえれば長い詩と「形式がある」ということでは全く変わりはない。だからこそ、短い文に密度濃くつめた短歌形式の詩こそ、最高にその人の感情を表していると言えるのだ。
 以上のことから言って、私は、短歌は人間の感情をよく表しており、「形式」とは、必ずしも全てを限定するものではないと考える。
 
 *  *

 どうお感じになっただろうか。たしかに、論旨が甘くなっているし、論理の破綻もある。だが、私は久し振りにこれを見て、「よくもまあ、こんなにまともな文章が書けたものだ」と思った。というのも現役時代の私はかなりガキっぽく、考えることと言えば趣味である音楽のこと、食うこと寝ること、いかに楽して生きるかということ、ぐらいであった。

 ともかくも、このようなド浅い思考回路の人間にもマトモな文章が書けたことは驚きである。これは、全て小論文講師・樋口裕一先生のおかげだ。私は、樋口先生の本を通して小論文を学んだ。東進ハイスクール時代は、衛星放送の講義も受けた。そして、小論文以外の著書も読んだ。たしか、「だから予備校は面白い」というタイトルだったと思うが、予備校界について樋口先生が独自の視点で語っている本を読んで、一時期は予備校講師になりたいとさえ思った。
 樋口先生は、別名で受験界とは全く関係のない本も出していたが、最近はついに本名で一般書に進出した。しかも、それはベストセラーとなり、サラリーマンの間で話題となった。そのタイトルは、

「頭がいい人、悪い人の話し方」(PHP新書)

である。

 話がそれてしまった。小論文に戻そう。
 樋口先生の提唱する方法は、やや邪道である。実際、解答例にも強引なところがあるし、厳密に言えば論理が破綻している部分もある。しかし、樋口先生がこういう方法を提唱したのは、先生ならではの優しさゆえだと私は思っている。
 すなわち、私たち非力な受験生がいきなりまともな小論文など書けるはずがない。しかし、「やや邪道かもしれないが、とっつきやすい方法」を与えられたなら、書ける可能性はでてくるからだ。
 とはいえ、そのような方法を伝授するということは、樋口先生の学者としての品格を犠牲にすることになりかねない。樋口先生は、もともと大学教授を目指していた人である。だから、受験生に向けて、いわば子供だましのような本を出すと、日本全国の大学教授からニラまれることになってしまう。それどころか、「あいつはいつも、あんな考えで論文を書いているのか」と疑われてしまうかもしれない。
 だが、自分が犠牲になってもいいから、一人でも多くの受験生が、小論文を書けるようになってほしいという願いを樋口先生は持っていたに違いない。少なくとも、自分の経験を生かして世の中に役立てようと考えていたはずである。本当に、大人だと思う。

 私が樋口先生の著書に初めて出会ったのは、高校一年の頃だ。
 中学で優等生だった私も、高校ではさすがに成績上位は無理だろうと感じていた。だが、それでも普通ぐらいの成績で過ごせるだろうとは思っていた。しかし高校に入学して初の定期テストでショッキングな点数を取ってしまった。20点代(数学)である。私は、小学校から中学校を通して、90点くらいが普通だったし、最低でも60点を下回ることはなかった。それがいきなり20点である。そのショックは大きかった。
 その答案が返ってきたとき、私は平静をよそおっていたが、授業が終わるとすぐに公衆電話にかけより、中学時代お世話になった塾の先生(樋口先生ではない)に電話をかけた。不安で不安で仕方がなかったのだ。電話口で励ましてくれる塾の先生の声を聴くと、どんなに我慢しても涙が溢れてきた。恥ずかしいからそれを声には出さまいと思ったが、多分、先生にはバレていたと思う。
 その後、低い点数にも慣れ、私は20点くらいでは驚かない日々が続いてしまった。0点をとったことすらあった。まさに野比のび太の世界である。
 そんな傷心の日を過ごしていたある日、学年で小論文コンクールを開催することになった。全員参加が義務づけられ、しかも面白くもクソもないような、挿絵がひとつもない文字ばっかりの学術文庫を買わされた。それを読んだ上で数十枚の小論文を書け、というのである。
 私は授業について行くだけで苦労していたのに、そんな重みを背負わされてはたまらない。しかし、小論文は適当に○×をつけて出すわけにはいかない。少なくとも、原稿用紙に文字を書かなければならない。それも、「戦争はいけないことだと思います」のように適当に書いてもいけない。だいいち、これでは数十枚も持たない。ましてや、「僕は将来、エラくなってカネを儲けたいです」と本音を書くのはもっといけない。
 ――どうするか。
 頭を抱えた私は、書店に走った。小論文コーナーを探すと、樋口裕一という人の書いたものがいくつかあるだけだった。仕方なく私は、その中の一冊を買い、ともかくも熟読し、その通りに書いてみた。なんとか字数を埋めることができ、そして学校の先生に怒られない範囲の、ある程度まとまった文章を書くことができた。私はこれで安堵し、提出してしばらく放っておいた。

 すると、忘れた頃に、「小論文コンクール」と題された冊子が、学年全員に配られた。入賞者は、誰もが予想したとおりであった。優等生で知られていた3人だけである。私は、優秀者の文章を読んだ。
 さすがに、文章がしっかりとしている。私とは、レベルが違いすぎると思った。そして不快になった。またしても劣等生感情が刺激されたのである。しかし、「どうせ俺は適当に書いて提出したことだし、あまり気にしまい」と気を入れ直した。
 さて、そのときである。冊子の最終ページに「佳作者」という欄があるのに気付いた。見ると五、六人の名前が記載されている……。私はそれを見て仰天した。
 なんと、私の名前がそこに印刷されているのである。
 もちろん、佳作だから文章は載っていない。だが、名前だけ印刷してあるのが逆に不気味だった。樋口先生の本を買って、締め切り間際に一日で書いた小論文である。かなり適当に書いたし、推敲もしなかったから誤字脱字も多かったはずだ。少なくとも内容は空虚であるはずだ。
 それが佳作である。
 私は、ミスプリントに違いないと思って、担任の先生に確認してみた。すると、担任の先生はこんなことを言った。
 「お前の小論文は、誤字が多すぎたから佳作にしたが、本当なら入選するところだった」
 と。
 私は、悪い冗談だと思った。もしかして成績不振の私に自信をつけさせるための「お情け」かもしれない、とも思った。だが、何度も訊いてみると、どうやらそうではないらしい。本当に、私の小論文は評価されていた。
 今考えると、全生徒の中でおそらく私だけが樋口先生の本を読んだに違いなく、いわば私は「やり方」を知っていたから他の生徒よりいいものが書けただけだったのだが、それにしてもこれは自信になった。
 
 そしてこのことは、私が劣等生として過ごした高校生時代に、最低限のプライドを維持させるに十分であった。「小論文」という科目は、授業にはない。だから、それが成績に反映されることはなく、相変わらず全教科が赤点ラインだったが、一方で全国模試での小論文の成績は、まずまずだった。時には高得点も出したので、現役時の私にとっては唯一、全国の受験生たちと互角に戦える科目だったと言える。
 ひとつでも得意な科目があるというのは、精神的にとても支えになる。私の場合は小論文がそうだった。樋口先生のおかげである。高校生の頃の私は、まだ素直だった。だから樋口先生の方法論を盲信することができた。もし、あまのじゃくな浪人時代に樋口先生の本に出会っていたら、私は樋口先生の本のあらさがしをし、小論文は永久に得意科目にはならなかっただろう。

 私が小論文で信じたのは樋口先生ただ一人である。あなたも、誰かを信じて欲しい。私の時代は樋口先生が小論文のドンだったが、最近は、他にも色々な講師がいる。誰でもいい。いちいち疑うことなく、教えられたことを実践しよう。小論文は、とても難しい教科だ。そもそも、たかだが二十前後の若者が書くべきものでもないのかもしれない。これは本当に大学受験かと疑ってしまうような高度な小論文問題もある。
 他の教科でも、何かを信じることは大切だが、特に小論文ではそのことを声を大にして言いたい。


2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2006-05-16 13:05:40
必死だなww
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Unknown (管理者)
2006-05-16 16:33:06
コメントありがとうございます。

ただ、無意味な書き込みはご遠慮ください。
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