小学生ママの「しんぱい百科」学校編 小学館
のなかで、NPO法人フリースペースたまりば理事長・子ども夢パーク所長の
西野博之氏が
学校的「良い子」観にしばられているうちは、いじめはなくなりません
という内容で文章を書いておられ、うなずきながら読ませていただきました。
今の日本は、あらゆる場面で「正常」を求める社会です。
その正常は何によって定義されるかといったら、「異常」でないことです。
異常を見つけて、ここがおかしい、あそこがおかしい、という社会は、
いじめを生む社会だと思います。
ぼくは、「ダメでいい、弱くていい、変なヤツでいい」といえる学校をつくらなくてはいけないと思います。
みんなが健全に、正常に、力強く元気に、という標語のもとでは、
いじめはなくなりません。私達が手に入れていきたいのは、ちょっと弱い、
ちょっと変、ちょっと人と違う部分を誰しもひとつはもっているだ、という
多様な価値観ではないでしょうか。
大人が「これもありだよね」という価値観を手に入れることができれば、
そのゆとりのなかで子どもも大人もともに育ちあう
ことができるのだと思います。
私も子どもたちと接していて日々感じるのは、
大人がこうした心のゆとりを持ってはじめて
子どもが本来の輝きを発揮しはじめるんだな…ということです。
どの子にも能力や才能やすばらしさがあって、
そうした潜在的なものは、多様性を認める環境のもとで
引き出されるんですね。
それと、「受容」の次に大切なもの…
いつもお邪魔させていただいているtoshi先生のブログから
引用させていただきますが、
指導する側に、『あるがまま』を受け入れる姿勢があれば、子どもは『あるがまま』を存分に発揮するようになるだろう。そのなかには、さまざまな問題性も含まれているに違いない。
そうしたら、そこに指導者としての願いをもつ。…子どもの内発的動機付けによる変容をねらう。
内気な子は、活発になるように、自己主張ができるように、
活発な子は、落ち着きを見せるように、自制の心をもつように、
短気な子は、辛抱強くなるように、
見栄っぱりな子は、人知れず努力する姿勢が身につくように、
自己中心的な子は、他人の心をおもんばかれるように、
それらは一足とびにというわけにはいかないが、じわじわじわっと、にじみ出るように、豊かな人間性を発揮するようになる。
子どもが内側から成長してゆくように、
「育む」心が大切なんですね。
最近、↑のtoshi先生のブログにお邪魔させていただくことが増えてから、
「学校の中の発達障害児」ということを
考える機会が多くなりました。
中でも考えることが多いのは、「問題解決授業」について。
くわしい内容はまた別の機会に書きますが、
この学習法は、同じ軽度発達障害のなかでもADHD・ADDの子には
能力を発揮する場を提供し、学校で学ぶ意味が高まるように思っています。
LDの子とっても、楽しい授業かもしれません。
しかし、広汎性発達障害の子には、混乱させたり、不安を抱かせたり
する原因にもなるように感じています。
難しい問題だな…と思案中です
↑
いつもどうもありがとうございます。
のなかで、NPO法人フリースペースたまりば理事長・子ども夢パーク所長の
西野博之氏が
学校的「良い子」観にしばられているうちは、いじめはなくなりません
という内容で文章を書いておられ、うなずきながら読ませていただきました。
今の日本は、あらゆる場面で「正常」を求める社会です。
その正常は何によって定義されるかといったら、「異常」でないことです。
異常を見つけて、ここがおかしい、あそこがおかしい、という社会は、
いじめを生む社会だと思います。
ぼくは、「ダメでいい、弱くていい、変なヤツでいい」といえる学校をつくらなくてはいけないと思います。
みんなが健全に、正常に、力強く元気に、という標語のもとでは、
いじめはなくなりません。私達が手に入れていきたいのは、ちょっと弱い、
ちょっと変、ちょっと人と違う部分を誰しもひとつはもっているだ、という
多様な価値観ではないでしょうか。
大人が「これもありだよね」という価値観を手に入れることができれば、
そのゆとりのなかで子どもも大人もともに育ちあう
ことができるのだと思います。
私も子どもたちと接していて日々感じるのは、
大人がこうした心のゆとりを持ってはじめて
子どもが本来の輝きを発揮しはじめるんだな…ということです。
どの子にも能力や才能やすばらしさがあって、
そうした潜在的なものは、多様性を認める環境のもとで
引き出されるんですね。
それと、「受容」の次に大切なもの…
いつもお邪魔させていただいているtoshi先生のブログから
引用させていただきますが、
指導する側に、『あるがまま』を受け入れる姿勢があれば、子どもは『あるがまま』を存分に発揮するようになるだろう。そのなかには、さまざまな問題性も含まれているに違いない。
そうしたら、そこに指導者としての願いをもつ。…子どもの内発的動機付けによる変容をねらう。
内気な子は、活発になるように、自己主張ができるように、
活発な子は、落ち着きを見せるように、自制の心をもつように、
短気な子は、辛抱強くなるように、
見栄っぱりな子は、人知れず努力する姿勢が身につくように、
自己中心的な子は、他人の心をおもんばかれるように、
それらは一足とびにというわけにはいかないが、じわじわじわっと、にじみ出るように、豊かな人間性を発揮するようになる。
子どもが内側から成長してゆくように、
「育む」心が大切なんですね。
最近、↑のtoshi先生のブログにお邪魔させていただくことが増えてから、
「学校の中の発達障害児」ということを
考える機会が多くなりました。
中でも考えることが多いのは、「問題解決授業」について。
くわしい内容はまた別の機会に書きますが、
この学習法は、同じ軽度発達障害のなかでもADHD・ADDの子には
能力を発揮する場を提供し、学校で学ぶ意味が高まるように思っています。
LDの子とっても、楽しい授業かもしれません。
しかし、広汎性発達障害の子には、混乱させたり、不安を抱かせたり
する原因にもなるように感じています。
難しい問題だな…と思案中です
↑
いつもどうもありがとうございます。
アスペルガーの子と問題解決学習については、今、わたしにとっても課題となっています。でも、おぼろげながら、みえてきたものもがあります。
けっきょくは配慮を要する子を中心にした学級づくりをおし進めるしかないのではないかと。
今、ここでは、問題解決学習に密着した記事ではないのですが、理念としてご理解いただければと思い、そうした趣旨の記事にリンクさせていただきました。よろしくお願いします。
アスペルガーの子については問題解決授業のことだけでなく、学校や教室で担任の先生がその子の持っているハンディーに気づいていない場合がほとんどであることが、問題なのかな…と感じています。ほとんどの子が未診断で普通級にいると思います。問題が見えないから良いかというと、後から深刻な問題を生んでいるケースが多いです。小学校の時期の担任の気づきはとても大切だと感じています。toshi先生に気にかけていただいてうれしいです。