フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

スピリチュアルやオカルトに対する私の立場

2013年09月07日 11時10分48秒 | 社会・政治・思想哲学

 私が宗教的な不思議なものに興味を持ちながら、カルト宗教に向かわない、あるいはダマされないのは、私なりにきちんとした基準があるからである。
 それは、あの世や霊をどのように扱っているかによる。
 例えば、「あなたの後ろに守護霊が見える」これはギリギリOK。「あなたの後ろに守護霊がいます」これはダメ。
 この違いが分かるだろうか。
 前者は、主観的判断であるのに対し、後者は客観的事象を述べている。 
 霊が見えるということはその人の脳内の反応であるから、幻覚がある以上 、否定出来ない。これに対して、霊がいるかいないかは、科学的な証明がきちんとなされない限り、判断がつかないはずである。だから、いると言った時点でそれはインチキなのである。
 「霊が見えます」と言われたら、「そうですか」と言っていればいいし、それ以上返す言葉もない。私の見え方とあなたの見え方は違う。だからそう割り切るしかない。
 しかし、「あの世があって、霊はちゃんといます」と言われたら、じゃあ重さはあるのとか、どういう物質で構成されているのとか、きちんとそれを説明してもらわなければならない。ただ、いると言われてもそれは虚言であるとしか言えない。
 
 このことを別の言い方に変えれば、主観的な心霊体験は存在するが、客観的な心霊現象の有無は証明できないということだろうか。 
 あの世や霊の存在を科学的に証明できていない段階で、それを根拠に教義を構成している宗教団体は、それがどれだけ歴史のある宗教だとしてもインチキだと言わざるをえない。 

 にもかかわらず、宗教があの世のことを言及するのには、それなりの理由がある。それは、共同体の秩序を守るためである。
 もし、死んだらそれっきりだとすれば、共同体の内部はどうなるだろうか。
 生きている間しか楽しめないのだから好き勝手に自分の利益を追求することになるし、また極悪非道なことをしても(殺人など)バレなければなんの罪も問われないことになる。このことはドストエフスキーの小説上の重要なテーマでもあった。
「神がいなければ人は何をやってもいい。何をやっても許される」このような考え方でいいのかということである。だから、あの世を設定し正しい行いをすれば救われると構成するのである。
 西洋の人たち(キリスト教)が、無神論者は信用出来ないと言うのは、この文脈である。 

 そして共同体のトップである政治権力が宗教と結びつくのは必然だともいえる。つまり、政治は共同体の内部をうまくコントロールしなければならないからである。そして、上手くコントロールするには、あの世や霊的なものを使い、民衆を畏怖させ、自分たちのやりやすいように誘導するのが手っ取り早いからである。

 また、政治権力が使うツールがある。それはあの世とこの世を行き来する人、シャーマンである。
 どの政治形態にもこのシャーマニズムが関係している。天皇制自体、シャーマニズムの一形態である。天皇の祖先とされるイザナミは黄泉の国の住民である。
 バリバリの民主主義国家のアメリカですら、大統領就任式には大統領は聖書に手を置いて「GOD BLESS AMERICA」と誓いの言葉を述べる。 つまり、キリスト教のいう天国とつながっているのである。
 
 しかし、あらゆる政治形態が宗教と密接に関係しているからといって、あの世の存在が証明されるわけではない。
 正確にいうと、私のあの世・霊魂に対する立場は、「あるとは言えない」という立場である。
 論理学をやっている人はピンとくるだろう。「ない」とは言っていない。あるとないの中間に「分からない」がある。
 だから、「分からない」もしくは「ない」という立場である。ややこしいが。

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