強犬堂

スタジオストロングドック・加藤慎隊長の頑固な小言

一戸伝八

2005年09月09日 | 歴史
さて、長々続いた会津紀行モノも最後の段。やっと佐野が書けるぜ。
会津のトリは、両側に置かれた「はじめ」茶のペットボトルが見れるだろうか?
そう新撰組三番隊長斉藤一の墓だ。
意外や意外。こいつの墓も会津にあったんだな。
よく知られているように、会津戊辰戦争、母成峠の戦いの後、会津城下で土方と意見割れして斉藤は会津に残る。
司馬遼の名作「燃えよ剣」の中じゃあ函館までついてきたかの様だが、んなこたねえんだな。
で、あの戊辰戦争を生き残って後は会津人として生きる。
同じくこの墓に眠る妻の名は時尾。
この結婚式の時の仲人が鬼佐川こと佐川官兵衛と仏山川こと山川浩の二人。この二人は知る人ぞ知る会津藩の大身なんだな。
会津城下が戦争中には松平容保にもお目通りしてるようだし、随分厚遇を受けてるようだ。

徳川のために戦った会津、そして会津のために戦った新撰組。なんか絆が分かるじゃねえの。

斉藤一、って何がいいってサウスポーなんだよね。壬生義士伝にそう書いてあって「マジかよ」って思ったら子母澤寛の新撰組始末記にもそんなことがあり、俺の中では奴はサウスポーってことで結論。
いいんだよ、新撰組は史実の多いファンタジーで。
天才型の沖田、剛直な永倉にたいして、チョット無口でとっつきづらい斉藤ってイイヨな。美味しいところだ。

斉藤一、変名の多いことで知られる。山口次郎、山口一(もとの名か)市瀬傳八、藤田五郎なんてのが奴の変名で、最終的には藤田五郎。
容保に貰った名前だそうだよ。墓石も藤田だな。
だがしかし、不毛の地斗南に移ったときの名、一戸伝八はねえだろう。勝手ながらイメージ崩れるっちゅうの。

壬生義士伝の藤田五郎、いいねえ。佐藤浩一じゃねえよ、小説版のオヤジのほうだ。
いいね、偏屈で。
いいね、「人間は糞袋」。

マジメゆえに…

2005年09月03日 | 歴史
会津松平家の開祖、保科正之はマジメだった。三百諸侯が250年続いて果たして通算何人のお殿様が出たか、考えただけでも悶絶ものだが、そのウン百人のお殿様の中でも「名君ベストテン」には必ずエントリーされる。それが保科正之。
で、保科肥後守正之(保科正之から会津の殿様は肥後守が多い)は際立ってマジメだった。私生児に過ぎなかった自分を引き立て、重用してくれた徳川幕府と徳川宗家にすごい恩を感じていた。それが以下の遺言になる。
「会津松平家は他家とは違う。
 他の全ての諸侯が徳川宗家にはむかっても、
 会津松平家は宗家を守る」
…言っちゃったよ。
そして、会津の人間は東北人的マジメさにあふれていた。この遺言のために、彼らは自分達を律し続け、武士としての精悍さを失わなかった。
それが「会津士魂」として伝統的になる。
「会津は強兵の地」となっていく。
その強兵ゆえに、幕末になって京都守護職をまかされてしまう。
この大貧乏クジに会津武士団は思わなかったのだろうか
「世に松平家が18もあるってのに、何で王城から遠く離れた俺たちが」と。
だいたい、松平容保(こいつも肥後守)に京都守護職就任を持ちかけたのは松平春嶽。
こいつだって松平だろうが!
京の隣の越前福井ちゃうんかい!
十八松平のなかでもっとも裕福なんちゃうんかい!

そりゃ松平容保だって、嫌がったさ。
しかしながら、奴はマジメだった。そして貴族的に世間知らずでもあった。お人よしだった。
引き受けちまった。

そのマジメさゆえに、素朴さゆえに、孝明天皇の信頼を一心にあつめた。
孝明天皇はホントに松平容保を信頼していたと思う。頼りにしてたと思う。

そして、マジメなために徳川宗家の矢面に立ち続け、大久保利通と岩倉具視の陰謀に引っかかって、戊辰戦争。
徳川宗家が白い腹みせて、江戸城無血開城と慶喜の寛永寺謹慎に至り、会津だって同じく恭順姿勢。
にもかかわらず、奥羽越列藩同盟の嘆願にも関わらず、官軍はやってきた。
官軍は血を流さずにはいられなかった。会津はマジメさゆえに京でやりすぎたからだ。
官軍は経済根拠地である江戸は焼けないが。会津なら焼けた。
なんか広島ならいけて、東京には落とせない原爆と似てるな。

賊軍の名を一身に浴び続けた会津の人々。その責任者たる松平容保。
その容保が死ぬまで身に着けていた小さな竹の筒。
容保他界の後、中身を知らなかった家族が開けて見た。
孝明天皇の親筆で「予は容保を信頼している」とあったそうだ。
泣かせるじゃん。
合掌。