強犬堂

スタジオストロングドック・加藤慎隊長の頑固な小言

夏のサバゲ、男の城よ!

2006年08月17日 | サバゲー
サバゲに行って来た。
春のサバゲと違って夏のサバゲは一泊二日。
とある廃虚スレスレの建物で、いや、もはや廃虚なんだよな、そこ。
廃虚で一泊二日もサバゲをし続ける。

ゲームばっかやってる体力は流石にねえので、
サバゲメンバーで自炊と野宿をするのだ。

ゲームが終わっても軍服を脱ぐことは許さず、
下はアーミーパンツに上は軍用カラーのお揃いTシャツ。
当然ゲームもそのカッコでやっとるわけで、当たり前の汗だく。
考えてもみやがれ、ほっといても一年で一番暑いこの時期に
下は長ズボン、上は長袖の上着をきて、足にはブーツとニーパッド。
さらにベストを着込み(中には役に立つものは一切入ってない)、
先述の無駄に重い銃器を振り回して、
半狂乱で叫んで走って撃つのだ。

その汗の量は半端じゃない。
老廃物が出きって汗がサラサラになるぐらい汗をかく。
新種のマゾプレイか?

しかし、その服を着替える事は許されない。
なぜならその方が軍隊チックだからだ。

二日目の朝に、やっと次の軍服に着替えることが出来るぐらい。

当たり前だが、シャワーなんてものはない。
廃虚だからね。

そして、便所なんて気の効いたものはない
廃虚だからね。

さらに、東京で見るより一回り半はデカイ蚊は大量にいる。
食われると蚊とは思えない腫れっぷりを発揮する。
廃虚だからね。

ダメおしに、夜になると肝試しに興じる知能の足らない若者が来る。
廃虚だからね。
地元ローカルでは、結構出るって話しだが、
ここ八年は毎年寝泊りしている俺たちは誰も見てない。
廃虚なのにね。
だから、お化けネタってな信用なんねえんだ。
オレは一切信用しねえぞ!
と思って横になってたら、耳元でささやく英語のしゃべり声が!
「誰だ!ぶっ殺してやる!」
と飛び起きたら、ヒデタツの寝言だった!
改めてぶっ殺してやる。念入りに。

一応ここはサバゲの専用フィールドで、俺達ゃ金出して借りとる訳。借りきっとる訳。
大人だからね。こんなことで無法者になりたかない。

メシは晩飯の焼肉バーベキューを中心に、ラーメン、焼きソバ、などの超簡単メニュー。
だがしかし、あの大汗をかいた後のビールはまさに絶品。
メシのほうもこれ以上適当には作れないぐらいの適当さながら、
アウトドアならではの旨さ!

いらないね、女、子どもは一切要らない。
「いい大人の戦争ゴッコ」
その延長のバーベキューである以上、気の合う仲間がいればそれでいい!
それが軍隊っぽいからね。

ゲームの話はまた今度。

ビール飲もっと。

一宮

2006年08月10日 | 歴史
おっ、ども、久しぶりの更新で、どもっ。
DVD映画の原作→脚本→撮影→編集と、コイツが結構エネルギーをごっそり食ってて、なかなか更新できんです。
こんな駄ブログに期待している皆さんににゃあ失望させてすまんこってす。

で、ちと今日、毎夏恒例になってる史跡旅行に行って来た。
去年は会津、一昨年は近江、その前は関ヶ原と、いってきたんだが、
今年の目的地は信州は諏訪。

なんだか急に諏訪大社が見たくなったんだ。

諏訪大社は御柱際で知られる信濃の一宮。
一宮ってのは「いちのみや」と読んで、各国に一個ずつある。
下野一宮は日光にある二荒山神社
  (二荒山って「ふたらさん」って読むんだけど、
   音読みすると「にこうさん」って読めるよな。
   これがなまって「にっこう(日光)」になったそうだよ。豆知識)
伊予一宮は国宝がゴロゴロしてる大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)
武蔵一宮は氷川神社に相模一宮は寒川神社


めんどくせっ、他の国の一宮を読みたきゃここに行け
一宮ノート
っと、一宮ってのは各国の守り神だけあって結構立派な神社が多い。

諏訪大社も大社の名を冠するだけあってかなり立派な神社でした。

高速に乗ると甲府から78㌔の文字が。
武田信玄の信濃侵攻ルートは現在の中央道とほとんど変わらずに北上してきた。
諏訪法生を旗印に掲げる武田家にとっては必ず占拠しなくてはならない
必須の土地だった。
で、第二段階として、善光寺を占拠に向かって
その途中の川中島で上杉軍と大喧嘩になるのだ。

武田家の諏訪大社信仰はかなりのものだった模様で
実際武田信玄の遺体は諏訪湖に水葬されている。

ってのが諏訪大社だ。
「御柱際」と「諏訪湖花火大会」だけが諏訪じゃねえんだ。

一宮ってのは先述したとおり、これがなかなか立派な神社が揃ってて、
いつの日か、各国の一宮を全部行ってみたいな、と言うのが俺の隠れた夢なんだが、
なんでこんなに魅力を感じてるか、つうと俺が大学四年の秋にさかのぼる話だ。
聞いてくれるかい?

大学四年の夏、部活も引退し、喜屋バイトも始まらない、ちょいと暇だった時期。
チャリンコで九州までというバカバカしくも下らない計画をたてた。

その前にリハとして野宿経験をつもうと、
野宿経験者の後輩・松本孝信と、
暇そうで自転車も持ってただけの大塚政仁を引っ張り出して、
三人で一泊の野宿自転車旅行に乗り出した。

行き先は「鹿島神宮と香取神宮」
その翌年の卒論のテーマが「鹿島神宮と香取神宮はナゼ武術の神様なのか」つうタイトルだったためにその前に見とこうか、ってな計画とも兼ねていた。

で、初日に下総一宮・香取神宮にはたどり着き、
近所の河原で寝た。
何で河原かって言うと、たどり着いたその日、たまたま花火大会をやってたんだな。
「見てこう」というのは当然の流れ。
ところが、河原の南側が出店と人でごった返してとても腰もつけない状態。
ふと同行の大塚が気が付いた
「加藤さん、向こう岸は人がいないっスよ」
「おし、川を渡ろう」
反対側は全く人がいなかった。
「こりゃあいい」と
地べたに座ってビールを開けて花火の初弾とともに乾杯。

全くの頭上で打ち上げられる花火は、ねっ転がってみた。
まさに特等席だった。あることに気が付くまでは。


真上に向けた顔に、パラパラと何かが落ちてくるのだ。

気が付いた
「これ、燃えさしじゃねえの?」

そう、光を失った花火の残骸が後から後から振ってくるのだ。
そのうち消えきらない花火の燃えさしまで落ちてくる有様。

でも、程よい酔いと疲労が俺たちの意識を眠らせた。

その後がまた大変だった、花火をやってるうちはドカンドカンとなり続けていたので気にも留めなかったんだが、
花火が終わったら、耳元には蚊の鳴き声が
「ぷ~ん」
つぶしてもつぶしてもやってくる蚊の襲来。
当たり前だ、河原で寝てりゃ!
寝れるかっ!ボケっ!



結局ロクすっぽ寝ることも出来ずに、朝を迎え、
蚊に食われたあとだらけの俺たち三人は、夜露に濡れた自転車にまたがり、
早朝から常陸一宮・鹿島神宮に向かった。

その鹿島神宮、朝の霧の中にあり、

まったく凄かった。



古来から続く檜の巨木は参道を左右から圧し、
霧の向こうに見える各社殿が神秘的なたたずまい。

歴史は好きなものの、あんまり霊的なものを信用しないオレ
「歩く不信心」「オレの辞書に遠慮と言う言葉はない」オレ
このオレが圧倒された。

「ここは霊山なんだ!」

と肌で実感したよ。
あれは凄かった。
「神秘的ってのはこういうことか!」と実感したよ。

それが味わいてえんだ。

そのためには街中の神社やコンクリまみれの寺じゃだめなんだ。
格式高く、立派で、昔から信仰されてる神社じゃねえとその空気は出ねえんだ。
深い森が開けたような、
霧の中から現れるような、

立派な神社って静かなんだよね。
音が澄んでるんだよね。
雑踏がねえんだよね。

諏訪大社も間違いなく超一流の神社だった。

境内は静かだった。
でも、あのときほどの神秘感はなかったんだよな~
どっピーカンでさ。


あーオレにあのときの神秘を味あわせてくれ!

皆さん、御意見アリガトウ

2006年07月03日 | 歴史
皆様、この駄ブログへの御意見アリガトウ。
結構次の一文へのパワーになるよな。多謝多謝。

で、「コメントでみんなの意見にレスを」と思ったんだけど、
長くなりそうなので新しく一文を起こしましょうか。
お付き合いあれ。

ハンセン>
歴史はおもしれえよ。授業がナゼつまらないのかは簡単。
あの分量を、一年ないし二年程度で叩き込むのは不可能に近いと思うんだよね。
だから、一概に先生を攻めることは出来ないと思うよ。
ま、でも俺の親友で中高で歴史の先生をやっとる奴がおるんだが、
話を聞いてるとこいつの授業はかなり面白そう。
歴史の教科書に載ってない数多くのエピソードが歴史を彩り面白くしてくんだな。
それを各所で紹介しオモシロそうな授業をやってて、魅力的。
俺もやってみてえな、歴史の先生。脱線しまくるだろうが・・・



男色はなんだか習慣としてあったみたい。
好みの問題だとは思うんだが、
豊臣秀吉なんかは男色の噂はまるでなく、女への執着はまさに英雄的。
部下の嫁さんに手をつけるのはいかがかと思うが・・・
信長と森蘭丸(乱丸でもいいらしいゼ)は有名だが、
「信長と前田利家」とか「徳川家康と井伊直政」なんかも結構知られた間柄。
鹿児島の雄、島津家なんかはひどいもんで、男色はアタリマエの世界だったみたいだね。
笑えるのが「武田信玄と高坂弾正」って奴で、結構この二人なかなかの仲だった模様。
ところが、武田大膳大夫信玄、ちょっと浮気をしちゃうんだな、他の男に。
これで、高坂弾正怒ったんだろうな、すねたんだろうな。
武田信玄が高坂弾正へおくったラブレターが残ってる。
これがまた超丁寧で部下への手紙なのに敬語だったりする。
「(信玄が)弥七郎に言い寄ったかのような噂っですけど、そんなことありません
 特に貴方と特別な仲になりたいと色々手だてを巡らすと
 返ってお疑いになり困ってしまいます。
 このことに嘘があれば、当国の一二三大明神、富士、白山、
  殊に八幡大菩薩、諏訪大明神の罰を蒙るでしょう。」
とまあザックリこんなもんだが、おまえ神様に誓いすぎだろう。
ホントにおまえ信玄か?俺らのイメージどうしてくれるんじゃ!
しかもそれが残ってるってどうよ?
キッチリ処分しとけよ!
恥ずかしい!
というオモシロエピソードで歴史は綴られます。


戦国自衛隊はすまん、俺も古いほうしか観てない。
「ホワイトアウト」が「ダメなダイ・ハード」
「亡国のイージス」が「ダメなザ・ロック」
だとするなら
「戦国自衛隊」は「ダメなブラックホークダウン」
という意見を聞いたことがあります。
ちなみに、「この映画のエキストラとして参加しませんか?」という話がきて、
日程が合わずに、泣く泣く断ったと言う過去があります。


ヨシタケ>
おお。見てた奴がいたよ。
結構下らなくって面白かったよな。
こういうところから歴史好きが1人でも増えてくれりゃア、嬉しいもんよ。


しのしの>
新撰組の山崎蒸の祖先が奥野将監(赤穂藩の重臣、赤穂開城時には真っ先ににげだしたやつ)。
池田屋で切られた志士の1人が大高源吾(吉良邸に討ち入った赤穂四十七士の1人)の子孫、大高忠兵衛だった、てのがあるよ
新撰組で行けば、永倉新八が明治になって
鈴木三木三郎に東京で出会ったってのがあったなあ。
鈴木三木三郎といえば
油小路の隊内粛清のとき新撰組にやられた伊東甲子太郎の弟で、
不倶戴天の敵同士。
永倉新八はこのとき暗殺部隊を指揮した二人のウチの1人。
「ゾッとした」と永倉新八は語ってるよ。

YAMA>
いや、気にしてません。
「あずみ」は読みました。「おーい龍馬」がスキだったんで、マンガ喫茶で一気読み。
前半の目的達成までは極めて高密度で面白い、と思ってたんだけど、
目的達成後、あずみが放浪するようになってからは「水戸黄門ばりに同じパターンだなあ」とおもって飽きちまった。
このマンガも南光坊はフィクサーとしてガンガン出てくるよな。
この時代の物語を書くとき、「黒幕っぽいのはなんでも南光坊」的に
よく出てくる。
今のペンタゴン、チョット前ならソビエトとかフリーメイソンとかの様に
まさに「黒幕の卸問屋」
それだけ怪しいキャラなのよ、南光坊天海。


ナカジマン>
鉄砲足軽ってのはランクが低いです。
そもそも「飛び道具って卑怯よね」「度胸がなくても人殺せるよね」と思われたので、
足軽よりは上だけど、侍クラスが持つような武器じゃない。というランク。
長篠に現れた3000丁の鉄砲部隊は、
「織田家が一気に装備して編成した精鋭部隊」ではなく、
各部隊にいた鉄砲部隊をその場で集めたのが実情のようよ。
佐久間隊から20人、石川数正隊から何人、蜂屋頼隆隊から何人、てな寸法で
そのばでかき集めて編成した数字が1000人チョット。
武田家でも当たり前の様に鉄砲は配備されていたが、織田家のような集中運用はしてないみたいで、
「ホントはたかが1000人だけど集中運用したら大戦果だった」
てのが長篠の真相の様子。

武田騎馬軍団は存在してはいる。
でもそれは移動用に馬を使った、という連中で、
今の機械化部隊と同じ考え。
部隊の移動速度をはやめ、各所の戦場に予想外のスピードで登場するのがその役目。
戦術兵器ではなく戦略兵器として、騎馬部隊はとられていた。
で、馬上戦闘がなかった理由としては、「馬上戦闘用の武器が全く残っていない」
ってのがその理由の一つ。
馬上戦闘ってのは、アタリマエながらも不安定。
よって特殊な武器が必要となる。
中世ヨーロッパには当然馬上戦闘の部隊があって、
ランス(たたんだ傘みたいな槍)とかメイス(簡単に言うとトンカチのデカイ奴)みたいな、馬上戦闘用の武器も馬用の防具も残ってる。
ところが翻ってわが国の騎馬部隊。
まず、馬用の防具は見たことない。
さらに槍。あんな緻密な突きが必要とされる武器は馬上に向いてない。
5人切ったら切れなくなると言う太刀は言うに及ばず使えない。
これが多くある「武田騎馬軍団は馬上突撃しなかった」理由のなかの一つ。

ならば、どこのバカが武田騎馬軍団の馬上突撃なるものを思いついたのか?

明治になって、文明開化のおり、西洋からの文化はドンドンと取り入れらるんだな。
なかでも軍制については
「うっひょー西洋文化サイコー」
と諸手で取り入れ出す。
その結果、西洋にあった「騎馬突撃」なる概念が輸入されて、
武田の騎馬軍団ってものを軍上層部が勘違いしちまったわけ。

司馬遼太郎にいわせると
日本に現れた正しい意味での騎馬部隊は源義経があるのみで、
その後は日露戦争の秋山好古まで待たなくてはならない
となる。

ナカジマンオススメの皇国の守護者、読んでみましょう。

以上つらつらと余談のことながら。

南光坊

2006年06月30日 | 歴史
南光坊という坊さんがいた。
正式名称は慈眼大師南光坊天海といって、天台宗比叡山系の坊さんだ。

この坊さん、前半生は謎に包まれとるんだが、
比叡山延暦寺の高僧として名を揚げるとともに、
徳川家康に見出されて、家康の有力なブレーンとなった。
異名は「黒衣の宰相」

なんだか怖ええあだ名もあったもんだ。
その異名をつけられるのも無理もない。
大阪の陣の発端となった方広寺の文句の件や、
家康の神号たる東照大権現の「権現」のアイディアを捻り出した男だ。

まー細かく話すと難しいんだが、
とにかく徳川幕府創立時の影の部分を仕切ってた男だ。

今日テレビをひねったらたまたまこの南光坊天海についてやっていて、
なんの期待もせずに見てたんだな。

そしたらさ
「南光坊天海の正体は明智光秀だった!!」
来たよ、ってか来ると思ったよ。

この「天海=光秀」ってのは歴史上有名なゴシップで、
「義経生存説」とか「天草四郎は豊臣の血筋」とか言うのと並ぶような話なのよね。

俺はどう思うかっていうと、この手のゴシップは大好きで、
こういう東スポ的歴史観は大好きなんだな。

家康と天海が始めて話したとき、「御坊とは初めて話した感じがしない」って言ったとか、
天海の筆跡が光秀の筆跡にやけに似てるとか、
春日局(明智の重臣斉藤利三の娘)と初見のとき
「お久しぶりでございます」と春日局が言ったとか言わないとか…
こういう話を基に「天海=光秀」説は作られてく。

もしその話がホントなら1643年に他界した天海僧正、
享年は116歳になっちまうが、この辺はどうすんだ?ということを抜きにして。

それでも歴史上のファンタジーを俺は愛して止まない。

最近のガチガチの学説じゃあ、
「武田騎馬軍団は合戦のときは馬を降りた」
とか
「長篠の合戦のとき鉄砲三段撃ちは成立しない」
とか
「川中島の合戦のとき、信玄と謙信の一騎打ちはなかった」
とか
「上杉謙信は才女山に登ってない」
とか

まーこれがイロイロあるわけよ、夢をつぶすような話が次から次へと。
その手の話を読むとさ、これがまあ大学の教授やらなんやらが、
信憑性の高い資料と実地検分や実験を基にして書いとるわけで、
アリの這い出る隙間もネエようなご立派な理屈なんだな。

全く納得させられる。
「へ~、ほ~、ふ~ん」と
全く面白い。納得。

俺たちの知ってる歴史なんてのは、
その後の講談やなんかで、面白おかしく書かれた物を
まんま信じ込んでるわけなんだな。

さらにはそのまんま歴史の教科書になっちまってるモノもあるっちゅうもんだ。

そのメッキがはがされつつあるのが、ここ10年ぐらいだと思う。

全く面白い、

チョット考えて、
自転車の上ですら槍を振り回せねえだろうに、
いわんや馬の上で出来るのか?
確かに出来ネエだろうなあ。

チョット考えて、
初めて鉄砲を渡されたであろう寄せ集めの足軽たち、
仮に引き付けて火縄銃をぶっ放したとして、その一列目が三列目に行く段で
「右に回るのか左に回るのか?」そんな訓練はどうしたんだ?

全くそうよ、その通り!

でもよ、でもなのよ。
それを知りつつ、わかりつつ、
俺はゴシップを歴史として読んでいく。
だってさ、そっちの方がおもしれえじゃん。
下馬する武田騎馬軍団なんか見たくねえじゃん。
義経には生きてて欲しいじゃん。

よって、南光坊天海は明智光秀と同一人物と言うことで決定!

ちなみにそのテレビの話、
「南光坊と春日局が共謀の末、明智系で徳川政権を作り上げようとした」
って結論付けるんだが、
幕末に至って政権を放棄する「大政奉還」の企画者、坂本龍馬が
明智の血筋と言うことはどう説明付けるのだろう?



ドイツ+ポルシェ+88㍉砲

2006年06月18日 | プラモ
えー何度も言いますが、世の中はワールドカップ。
さっさとクロアチアに負けてフィーバが終わっちまえばいいんだよ。
毎晩帰ってからの「プロ野球ニュースでロッテの戦績だけが毎日の楽しみ」ってな奴の気にもなれよ。
まわしてもまわしてもサッカーばっかやりやがって。

オメエ等クロアチア人とセルビア人の血で血を洗う歴史を知ってんのか?
と、ここで怒ってもしょうがないので、静かにフィーバーが去るのを待ちます。

で、ワールドカップといえばドイツ。
で、前回のブログのテーマはグループCとニッサン。
  その目標であり難敵がポルシェだったとはチト書いた。
で、さらにその前のテーマが88㍉砲。

「ドイツ」と「ポルシェ」と「88㍉砲」この三つが合わさると何になるか?
「ポルシェタイガー」という馬鹿兵器が出てきます。

88㍉砲の所で
「ナイス大砲。いいじゃん、戦車に積んじゃえよ」
として出来たのがあの「タイガーⅠ」と簡単に書きました。
まあ言いたいことはマニアックに山ほどあるが、
ザックリ言うとタイガーの誕生の由来は以上の話なのよ。

今日なんかコンビニ行ったらタイガーのかなりデカイ食玩が分割で売られてて、
かえってマニアの俺が引いたが、
タイガーってのはある種最も有名な戦車といってイイだろう。
タイガーじゃなきゃゴジラのやられ役として
よくスクリーンに登場した自衛隊の74式じゃねえか?と俺は思う。

話がずれたが、タイガーⅠってのは世界一有名で、かつマニアの多い車両。
一説に寄れば生産された1346輌、全ての経歴が分かると言われてる。
馬鹿じゃねえのか?
ケンメリGTRの200台の来歴行き先だってハッキリしちゃいねえってのに。
アキレちまうね。

でだ、よく知られるタイガーはヘンシェルって名の会社で作られたもん。
ところがだ、試作段階でよく知られてないタイガーが存在する。
その名が通称「ポルシェタイガー」

ついてこいよハンセン・ウエチン。
あのポルシェが作ったタイガーがあったのよ。

あのカレラやら911やらカイエンやらの、あのポルシェ。
フェルディナント・ポルシェって名の博士が起こした会社。
で、そのポルシェ博士、
博士といえば聞こえがいいものの、
分かりやすく表現するなら「マッドサイエンティスト」なのよ。
「バカと天才は紙一重」を人生と発明で証明し続けた奇人なのよ。

ワーゲンビートルって分かるわなあ。最近のじゃなくて初代のほうよ。
こいつのマシンレイアウトはRR(リアエンジン+リアドライブ)。
エンジンは水冷の四気筒。
おや?RRに水冷エンジン?
そうよ、そのポルシェ博士が線引いて、
ドイツの大衆車たらんとしたのが「ワーゲンビートル」なんだな。

とまあ、ポルシェ博士ってのは、
まあヒトラーに愛されたマッドサイエンティストなんだな。

で、このイカレた天才、タイガーの設計にも一枚噛んでる。

戦車ってのは見ての通り重い。その重量は56㌧。
そらそうだ、命綱ともいえる正面の鉄板は装甲のため100㍉。
10㌢の厚みの鉄板って、考えただけでも重そうだよ。

それを進ませる心臓のエンジンはマイバッハ製V12エンジンで700馬力。

チョット考えて見よう。
昨今のフェアレディZやスカイラインGTRが280馬力。
その国内最高峰のスポーツカーのエンジンの五倍もある超高出力のエンジンと
幹道をでかい図体ではしくりまわるジャリトラ五台分より重いボディ。
何が壊れるか?

簡単ですね、エンジンからタイヤまでの間が壊れるんです。
ミッションやらクラッチやらがあっという間にお釈迦です。
こいつが戦車設計の一つのキモだった。

そこで例のキ○ガイ、ポルシェ博士は考えた。
「ギアやらミッションがいかれるなら、モーターでタイヤ(キャラピラ)回せば?
 エンジンは発電専用にしてさ」
おいおい、凄いこと言い出したぞ。このオッサン。


結果は?


試作のみで終わってます。


なぜか?

全てが失敗だったからですな。
そんな大出力のモーターを用意するのも、
その大電力を送り続ける送電線も、
欲張った新型のサスペンションも、

そりゃもう、何から何まで失敗。
「何もかも失敗か?!」
とシズマ博士とフォーグラー博士がケンカするぐらい失敗。
失敗、失敗、大失敗!

動きゃあねえ、よかったんだけどねえ。
地面掘っただけで止まっちゃうのはねえ?ダメでしょ。



結果、ポルシェ博士が線ひいたタイガーは失敗作だったんですが、

ちょっとお待ちよ。
この発想どっかで見たことありますねえ。
「タイヤを回すのはモーター。エンジンは発電のみ!」ってのは。
トヨタが大の得意でさ、プリウスとかに代表されるアレよ。
これハイブリッドカーなのよ。

そう、ポルシェ博士、
今をさかのぼること60年も前にハイブリッド車の構想に着手してたのよ。
しかもあのタイガー戦車で。スゲエ!

しっかし地球には厳しそうだなハイブリッドタイガー。

ま、60年も前に「ハイブリッドカー」に着手したのも面白ければ、
考えて作ったのが「ポルシェ」ってのもウケルし、
その対象が、「あのタイガーⅠ」だったのもおもしれえし、
さらにはそれが全くの「失敗作」ってのもおもしれえじゃん。
って話。
ダメ?

さらにそれを知ったのが「あの宮崎駿」のマンガだった、
ってのも、さらにおもしれえじゃん。
ダメ?

※宮崎駿のマンガ「雑草ノート」の中の「豚の虎」に詳しく載ってますよ。
 戦車の事知らなくても面白いし、大した量じゃねえので
 機会があったらゼヒ!

昼が一番長い日に

2006年06月13日 | その他
六月といえば梅雨の時期。
ジメジメとした外気にうんざり気味にもなりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
ここんトコDVDの焼きだし、パッケージのプリントアウトが佳境を迎えてましてね、
思うままに更新もできませんでしたよ。
加藤ブログ強犬堂をお楽しみにしてもらってた皆様には大変お待たせしました。
ゴタクはいいから始めろって?俺のブログからゴタク抜いたら何にも残らないのに・・・

ほかの人のブログを見るとどうやら世間はサッカーサッカー。ワールドカップが盛況の様子。
昨日のオーストラリア戦は俺が見始めたらとたんに3点放り込まれましたな。
アンチ日本代表、アンチサッカーの俺は見ないほうがいいようですなあ。
言いたい事は山ほどありますが、愚痴っぽくなるのでこの辺で…

六月は梅雨の時期でもありますが、レースの時期だったりもするんですな。
「レースなんか一年中やってんじゃん」というのは浅はかっちゅうもんで、
この六月にはビッグレースが集中してるんですな。

F-1の「モナコグランプリ」、インディで「インディ500」
そしてフランスの世界一の草レース「ルマン24時間」。
この三つが立て続けに行われるので六月のレースファンは大変忙しい思いをしたもんです。

過去形なのは若干訳ありで、もう俺はレースファンじゃなかったりするからなんですよ。
もとより日産を応援しつづけて、仕事まで日産にしちまいましたが、
そのミスター日産たる星野一義が引退したころから、もうレースを見なくなっちまいました。

ザ・ロックがいなくなったからプロレスを見なくなったってのといっしょで、
ファン心理ってのはこんなもんでしょうかね。

もともと高校時代にタカクム、ハンセン、ウエチャンと共にはまったのがスロットカー。
レールのついたサーキットでマッチ箱サイズのミニカーをビュンビュン走らすのがそれ。
場所はキヤの二階。しかし俺の人生いたるところにキヤありだな。

でその四人の中で俺だけが飽きずにスロットカーを続け、場所を荻窪タケヤに移し、
ものも1/24のプラモをかぶせるでかくて高い奴に進化して高校時分はよ~くやってたよ。
大学入って部活始めるまではとにかくこいつにはまってた。

で、そのころといえば1990年から1993年ぐらいの間。
F-1ではホンダ政権の崩壊とウィリアムズルノー帝国がルネサンスを起こしてたころ。
国内に目を投じると国内ではあの傑作車が革命を起こしていた。
そうです、R32のスカイラインGTRが連戦を連勝し、もはや敵なし!という状態だった。

で、その頃にF-1とハコ(普通の車の形をしている奴)の他にもう一種人気のあるカテゴリーがあった。
それがプロトタイプカーって奴で、
「グループC」てなカテゴライズのため、「Cカー」とも呼ばれていた。

それが写真のCカーだ。
これがまた美しかった、カッコよかった。来たよ加藤慎のキーワード「カッコいい」が

 F-1ってな、いくらマクラーレンホンダやウィリアムズルノーが優勝したって、
そこに注視されるのはセナやマンセル。
ドライバーの速さを競うのであって、
メーカーやコンストラクターの総合力はどうしても二の次。

そこに行くと、Cカーってのは「どのメーカーが世界一タフで速いのか」を競うものであった。
そらそうだ、二人から三人のドライバーを交代で走らせて、
24時間ぶっ通しでレースしようってんだから、問われる名前は「どこの車が…?」になるわけだ。

80年代中期にポルシェが962Cという傑作マシンを送り出し、
それに挑み打倒せんと各種メーカーが立ち上がった。
メルセデスベンツ、ジャガー、アストンマーチン、イーグル…
そして日本から日産、トヨタ、マツダ。
これらのメーカーが一切手抜きなしのガチンコ勝負をしていた舞台が
フランス、ルマンのサルテサーキット。

公道を使って用意されるサーキット。
テルトルルージュからミュルサンヌまでをつなぐバカ長いストレートは
「ユノディエール」と呼ばれシケインがなかった頃は
下手すりゃ400㌔が出るといわれた名物ストレート。「
魔物が棲む」とまでいわれた。

結局はその総力戦は1988年に肝をなめさせられた
TWRジャガーが1989年にポルシェの怒涛の八連覇を止める形で一息つくのだ。

で、ポルシェ帝国瓦解後にジャガー王朝が立つのかと思いきやさにあらず、
そこに噛み付いたのが日産だった。
1990に必勝の5台体制を敷き、
ポールポジションまで奪っときながら最高位は5位となり、
さらには復権したポルシャが優勝。

翌91年はドイツの銀色の巨人、メルセデスベンツが立ちはだかる。

92年には主催者とターボの規制でもめにもめて出場を辞退。
そしたら伏兵マツダがまさかの総合優勝。

この年用意されてたニッサンのR92はきわめて出来がよく、
ルマンに出場できなかった悔しさをデイトナ24時間にぶつけ、
圧倒的スピードで優勝するものの、
日本国内では「デイトナ?何それ」的に忘れ去られていった。

その後、ニッサンのCカーはルマンに帰ってくることなく、

R33のGTRをへて98年のR390の歴史的大敗につながり、
98年に「何とか引退する星野一義をポディウムまで」の我慢の走りする羽目になる。

その年はトヨタがTS010でバカみたいな速さで
ポルシェやメルセデスをたたきのめしながらも「あと一時間」でストップした年で、
この年のトヨタはアンチトヨタ党の俺でさえ「奴らカッコいい」と思った。

その後1999年にいるんだいねえんだかわからないレースして以来、
ルマンにニッサンの姿はない。

この1989年から91年のニッサンはホントに輝いており、
俺が人生をかけるにふさわしいと、思っちまったんだよなあ。

ところがプジョーの二年連続1-2-3フィニッシュはルマンとメーカーの蜜月を終焉させた。
とうとうテレ朝も去年からテレビ中継を中止。

でも6月はやってくる。
6月がやってきて、モナコをやってんのを見ると、あのルマンを思い出す。

だからさニッサン。こっちゃ間違って人生かけちまったわけよ。ニッサンに。
だからさニッサン。せめてルマン挑戦はやめねえでくれよ。ニッサンよぅ。

アハトアハト!

2006年06月04日 | プラモ
「またわけわかんねえタイトル」と思ったあなた。ドイツ語とってませんね?
写真みりゃおおよそ分かるだろうが、今日のテーマは「大砲」。
今日も長いよ。あらかじめ言っとくが。

「アハトアハト」とはドイツ語で「88」。
上記大砲はドイツ軍の作った高射砲で「88ミリ砲」という。

ホントは「カッコイイぞ格闘家」というタイトルでブログを書こうと思って、
おおよそ書くことも考えて帰ってきたんだが、
帰ってきてタミヤから来たメールを開いたら全てが一気に吹き飛んだ。
その衝撃を運んだのが上記の「88㍉砲」なのだ。

先に「スゲエ、ハチハチだ!」と思ったあなた、かなりキレてますね。
お教えましょう。
七月半ばに新金型でタミヤから出るようですよ。1/35、アフリカ戦線。
何年ぶりの新金型だよ!すげえよスゲエ!
ツエンダップも指さし指揮官ぶくみの8体人形も帰ってくる。
うっひょータマラン!


はいお待たせしました「なんだよ大砲一つ」とおもったあなた。
お教えしましょう。
スゴイ大砲なのよ。このハチハチ。

もともと高射砲としてドイツ軍が対戦中に開発したのがこの「88㍉砲」。
高射砲ってのは読んで字のごとく、「高いトコロのものを打ち落とす砲」なんだな。
一言で言えば対航空機用の大砲だ。

ところがだ、場所は北アフリカ。
ドイツ軍はエルアラメインというところでイギリス軍相手に一進一退の攻防戦のさなか。
伝統的に装甲の厚いイギリス戦車にドイツの三号戦車は全く歯が立たず、陣地を踏み荒らされるわけだ。
そこで、本来上を向いてブッ放してる88㍉砲が突然真横を向いた。
高射砲の水平発射!
誰しもがやらなかったそのビックリパンチ!
侵入してくるイギリス戦車の装甲は苦もなく貫通されて撃破の山!
そこに広がる黒焦げのイギリス戦車の山また山!
当のドイツ軍も知らなかったこのパンチ力!

何が笑えるって、
打たれたイギリス軍もビックリなら、撃ったドイツ軍がもっとビックリしたこと。余りの戦果に。

撃たれてあえなく捕虜となったイギリス兵が一言
「高射砲で戦車を撃つなんて卑怯ですな」
撃ったドイツ兵、答えて一言
「高射砲じゃなきゃ撃ちぬけない戦車で来るほうがもっと卑怯ですな」
有名なエピソードなのよ。

売ったドイツ軍もビックリしたと先に書いたが、この大砲の威力を再確認した後は、
そりゃ、そこかしこでこの88㍉砲は引っ張りだこ。
東部戦線でソ連軍相手に、ノルマンディーで米軍を相手に。
数多くの戦車を墓場に送った。

そして素性のよろしいその大砲。
「いいじゃん、いいじゃん、戦車につんじゃえよ」
としたのが、かの有名な「タイガーⅠ型」
あのタイガー戦車なのよ!

大戦末期まで、最後の最後まで戦っていたのはこの88㍉砲を配備していたベルリンの高射砲塔。
全くの負けゲームでベルリンに侵入してくるソ連戦車と真っ向勝負し続けたのがこの88㍉砲なのだ。

どうよ?

どうよって言われてもなあ?
でもいい話なのよ。この88㍉砲にまつわる話ってのは。
「すばらしい。まるで大ドイツの精神が形となって現れたようだ」的に
ドイツ軍の象徴のような大砲なのよ。


でだ、話はさらに続く。

この大戦の話を語るなら避けて通れないのがこの大砲なんだが、
これが昔タミヤの手によってプラモ化された。それがまた相当昔。

俺が小学校のとき擦り切れるまで呼んでたタミヤのカタログにはもう載ってたから、
ほっといても30年近く前のキット。

にも関わらず、にも関わらずだ、
多くのモデラーが「サイコーのキット」と絶賛。

その理由は大砲だけでなく、
それにまつわる八体のフィギュアが大砲に緊張感を与えていたからだ。

指揮官の指差しポーズはえらいカッコよかったし、
伝令が使っていたバイク(これをツエンダップというバイクなのだ)、巨大な砲弾ケースに輸送用の貨車、作り上げた瞬間に机の上がヨーロッパ戦線になるのだよ。

スゴイ空気感!

そこに全てが詰まってた。
タミヤイズムのすべてがあった。

俺も多分に漏れず、この第一期の88ミリ砲に手を出した。
頃は中学2年生。
買った所は当たり前のように喜屋ホビー。
当時、青梅街道の道挟んで反対側に小さい仮店舗をだしてたころ。
喜屋ビル建ててる最中だね。

買ったその日。余りの嬉しさにハンセンの家まですっ飛んでった記憶も覚えてる。
自宅でやりゃあいいのに、ハンセンの家で箱を開けた記憶もある。

模型を作るものにとって避けて通れないランドマーク。
これが「88ミリ砲」なのだ。


その「88ミリ砲」が新しくなる!
しかも人形八体もツエンダップ(バイク)もついて!
さらには伝説の北アフリカ戦線で!

興奮するなというのが無理というもの。

88ミリ砲を作ったことのない奴を俺はモデラーとして認めない。
あの感動を知らずして、なにがモデラーか!

あー早く七月になんねえかな。
あー今日までモデラーでよかった!

古田織部と仙石秀久

2006年05月31日 | 歴史
この二人何者なのか?
まずほっといても名前がよめねえ。
「フルタ・ショクブ」でもなきゃ「フルタ・オリブ」でもない
前者は「フルタ・オリベ」。
後者は「センゴク・ヒデヒサ」。

読み方がわかったところで改めてこの二人何者なのか?
戦国大名なんですな。早い話が。
「なーんだまたか、この戦国オタク」と思った人はケッコーです。
しょうがねえだろ、ここはそういうブログだ。
文句をたれる前に、テメエの薄弱なブログを充実させな!

でだ、戦国ネタに付き合ってくれる君のために話そう。
武田信玄や織田信長クラスの超メジャーネームから、
桂元澄や鳥居強右衛門クラスのドマイナーまで果たして何人の戦国武将がいるのか?
信長の野望に登場する武将の数でもおよそ1300人。
その1300人の中でこの古田と仙石は「さほど」と言っていいほど有名人じゃねえ。
餞ヶ岳の七本槍でもなけりゃ、関が原で裏切るとかの「何か」をしたキャラじゃねえ。


古田織部は本名を古田重然(しげてる)。
織部正(おりべのしょう)という役職についていたため通称を「オリベ」と言うのだ。
武人としてよりも、茶人として有名な男。
茶人ったらあれだ、千利休とか今井宗久とかの奴で、茶道な茶道。

その茶道の元締めだったのが上記の千利休で、こいつに高弟とも言える著名な弟子が七人いる。
それを「利休七哲」というんだ。

その七哲の一人。他には細川忠興(ガラシャの旦那な)とか蒲生氏郷(俺が会津まで言ってわざわざ墓見て来た奴な。蒲生氏郷の項参照)なんてのが比較的有名人で、
高山右近と古田織部が知るひとぞ知る的になってくる。

関が原もグッドチョイスで生き残り、あとは中川清秀の娘が嫁さんだなぁと。

じつは最後だけ人知れず派手なんだ。
大阪の陣で豊臣方が大阪城とともに炎上するわな、そん時にいっしょに改易されたはず。改易ってのは領土没収の上に切腹か永久追放のこと。
別に徳川家にたて突いて大阪城に入ったわけでもねえんだが、豊臣方に内通していた門で、切腹。

おかしくねえか?

大阪の陣てな、
世間の評判ならあたりまえのように徳川家の勝利間違い無しの鉄板レース。
真田や後藤のように「負けて当然」で入城したわけでもない。
木村長門のように「豊臣大好き」なわけでもない。
福島正則のようにあからさまに危険分子でもない。

味方したことが真実なら、なぜ鉄板レースでわざわざ大穴の大阪サイドに味方したのか?
味方そのものがデマゴギーだとするなら、なんで徳川家が古田織部をつぶしたのか?
徳川家からしてみりゃ、そんな目立つようなキャラじゃないし、
危険なキャラでもねえんだよな。
それなら他にも「つぶしたほうがいいんじゃねえ」的なキャラはいるんだよな。
なんで織部よ?

という不思議な結末を持ってはいるものの、
上記のようにさほども目立たない茶人大名がこの「古田織部」


で、「仙石秀久」
こいつもまた地味。
ただいま大河ドラマの山内一豊や盗賊上がりの堀尾義晴、中村一氏なんんかと並んで、
豊臣秀吉が長浜城城主となる前後、木下籐吉郎ぐらいの頃からの与力(部下みてえなもん)の一人。
長いこと秀吉直系で働いてきたので、
最終的には九州征伐軍の編成の段階編成された二個方面軍のうちの一手の大将が
確かこの「仙石秀久」。
ちなみにもう一手が豊臣小一郎秀長だから、この段階では仙石秀久のピークで相当のビッグネーム。

ところがだ、わかる人はお分かりでしょうが、
この後、九州の雄島津の連中にコテンパンに叩きのめされて秀吉大激怒、という合戦が起こるんだな。これを戸次川の戦いという。
そう、鬼十河や長曾可部の長男が死んだとこよ。
しかも四国まで逃げ帰ったっつうんだから、早えよ逃げ足。

でも関が原では徳川秀忠の下にいて上田城で足止めを食らうんだから、
どうやらそこまでには復帰を果たしてる。
ほかにも調べたところ、四国渡海の段階でも失敗をしてるし、
なんだよこう読むと「たいしたことない」キャラなのよ。
戦績悪いキャラなのよ。

正直言って古田織部と仙石秀久、この程度のキャラ。

で、なんがこのタイトルにこの二人か?っつう話題にもどる。

このふたり、ただいま連載中の漫画の主人公なのよ。
仙石秀久が「センゴク」ってタイトルでヤンマガに
古田織部が「へうげもの」ってタイトルでモーニングに。

ちょっと待てよ、この俺でさえさほども知らないこの二人。
漫画にしておもしれえのかい?ほかの武将じゃだめだったんかい?

とにかく驚いた。この二人を主人公に漫画が連載していることに。

内容?評価?ちょいと長くなったんで、また次の機会に。

旧友

2006年05月28日 | その他
えー昨日、ちょいと旧友と卓を囲む機会に恵まれた。
ベルギーに在住する友人が帰国をしており、それでメシでも食いにいったわけだ。

あれだ、高校の時なんてみんな仲良しグループがあるだろう。
オレがいた軍団はおよそ六名で構成されていた。
そのうち五人が杉並は高井戸に集合できた。

集った場所は、ウッドベースにグランドピアノの生演奏。
ダーツもあるし、頼んだオムレツは片手の掌に乗っちまう小ささ。
う~んオシャレやね。たまにはこういうところで気取って飲まなきゃいけねえな。
「何だこのオムレツはっ!気取りやがって!」
と頭の中のハートマンが怒鳴り出すが、ぐっと抑える今日の俺はウィラード。
なぜならその前にコンビニおにぎりで腹はくちてるからだ。

かっこいいな。
なんだか大人の隠れ家的に。

分かってますよ、オレが浮いてるのは承知のうえだ。
なんだか、井出と二人して迷い込んだ新宿の夜景が猛烈にきれいなラウンジを思い出す。
ホウホウの体で退却したなあ。

その雰囲気に負けない旧友がそこにいた。
話したる話題は、「ドラケン」「スーパーマリオ」…
そこには15年前と変わらない空気がある。

しっかし、こんなブログの駄文に期待すんなよな。
プレッシャーかかってかきづれったらありゃしねえ。

「友とワインは古いほどイイ」
これイギリスのことわざ。
See you again!

ハセの旅路に幸あれ!

続くよ撮影

2006年05月18日 | サバゲー
先だっての月曜日、我が師匠たるMMKさんのトコに無理を言って押しかけ、キャメラを回してきた。
MMKさんは喜屋でバイトをしてる頃にレインを介してお知り合いになることが出来た、荻窪のフィクサーの1人である。

その時の様子を話せば、
ある仕事が終わった夏の晩にいきなりレインに呼びつけられた俺。
荻窪まで当時の愛馬プリメーラを駆って戻ったのが10:00ごろ。
説明もろくすっぽ聞かないままに軍服に着替えさせられ、
何をするのかと問えば「若手の自衛官の役だから」
なんのコッチャ。
よくよく聞いてみれば、自主映画を撮影しているとのこと。
その1シーンに自衛官役で登場せよ、という話なのだ。
で、たいして長くないセリフ
「ここは危険です。すぐに避難してください」
を画面フチから進入してしゃべることに。
この荻窪で何が危険なのかサッパリ分からないまま、撮影は進行。
このやたらと端役なシーンを撮るのに必要になった時間はおよそ一時間。
で、使われた時間はおよそ5秒あるかないか?

その時は自分が何をやっとるのかサッパリ分からなかったが、
それからおよそ半年たって秋か冬かって頃に、
「あのときの映画できたから」
と渡されたのが一枚のDVD。
これが凄かった。パッケージ有り、パッケージには注意書きやバーコードがあり、ライナーノートが有り、サントラCDがあり、盤面は東宝のDVDシリーズに準じておるこだわり。
さらに見てみれば、オープニングの東宝のロゴから始まる、こだわりの数々。
今もって隠された全てのネタを理解しきれてない気がする。
「これはスゴイ」
と本気で思ってたら、
「俺にも作れねえかな」
という気に変化し、
なんとか自主DVDの道を模索し始めることとなった。

元来寄せ集めのウチのサバゲチームを強く結びつけるものはこのDVDであり、
これがあるからこそ、懲りずに集まるし、
俺がうるさく言う「軍装の充実」にも反論せんのだ。

それから五年の歳月が流れ、
ここ二年でぐらいでやっとこ師匠の目に見せうる自信のある作品を用意することが出来るようになり、
今回はその師匠にも登場願った。
役どころは「辣腕だがひねた諜報部員」
なんじゃそりゃ。

でも、見事にこなしていただきました。サイッコーです。
チームの目が有り、嫁の目が有り、師匠の目があるからこそ、
半端ながらも全力で撮影と編集をするのです。
アリガトウございます。

さて今日も編集に戻ります。

そしてしばらくは撮影の旅が続きます。
6月第一月曜晩は荻窪でオープニングの撮影。
7月第一月曜日は横須賀までロケハン。
お暇な人はご助勢ねがいます。