うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

「メキシコの青い空」から26年、あの伝説の名勝負がNHK衛星第1で放送される

2011年11月10日 | サッカー(全般)
伝説の名勝負 世界が見えた戦い
 「’86年W杯・アジア最終予選 日本vs.韓国」


放送予定
NHK衛星第1 2011年11月18日(金)午後7:00~午後9:30(ニュース中断あり)


※再放送は2011年11月23日(水)午後9:00~午後11:30

NHKの関連ページ


いよいよ今月から世界各地でブラジルW杯予選が再開されます。アジアでも3次予選が行われ、日本は11月11日にタジキスタン戦、11月15日に北朝鮮戦をそれぞれアウェーで戦います。日本は、昨年6月の南アフリカW杯で国外開催初のベスト16に進出し、1月にカタールで開催されたアジア杯では大会最多となる4度目の優勝を飾りました。現在の日本は、アジアのトップクラスに君臨しているのはもちろんのこと、W杯本大会の決勝トーナメントで悲願の初勝利を目指してます。代表チームだけでなく、選手個人も海外のクラブに移籍するなど、世界で戦うことを見据えて日々強化に勤しんでます。

しかし、1993年にJリーグが創設される前の時代、つまりアマチュアだった頃の日本は、現在とは状況が全く異なりました。日本は1968年メキシコ五輪ではアジア勢初の銅メダルを獲得しますが、これは1964年東京五輪に向けて一部の選手のみを徹底的に鍛えた「集中強化」の成果の賜物でした。今と違って、協会に予算が無かったので若手育成に回す資金が無く、メキシコ組が第一戦から退くと、代表チームは必然的に弱体化。代表チームの実力と比例するように、日本リーグの人気も低迷。1970年代に暗黒時代を迎えた日本は、約四半世紀に渡って長期低迷を余儀なくされます。

この低迷期の頃の日本は、1979年に自国開催だったワールドユース選手権(現・U-20W杯)を除くと、W杯はもちろんのこと、五輪や年代別の世界大会でもアジア予選で全て負け続け、完全に世界の舞台から閉ざされてました。中でも、プロの参加も可能なオープン大会であるW杯に至っては、日本は初参加した1954年スイス大会から1982年スペイン大会まで6度予選にエントリーしてますが、なんと全ての大会でアジア予選の最初のラウンドで敗れてます(なお、1958年スウェーデン大会と1966年イングランド大会は不参加)。日本が長期低迷していた頃は、W杯は自らが出場してプレーするものではなく、世界のスーパースターのプレーを堪能するものであり、全くの別世界でした。

ただ、メキシコ五輪での銅メダル獲得や、漫画「キャプテン翼」の影響で少年の競技人口は増大。かつての日本はアジアにおいても個人の技術不足が叫ばれてましたが、1980年代は著しく向上。少しずつ復活の機運が芽生えた頃に代表チームを託されたのが、1981年3月に日本代表監督に就任したメキシコ五輪の銅メダリストの森孝慈でした。1982年のニューデリーアジア大会では1次リーグでイランと韓国に勝利して3大会ぶりに準々決勝に進出するなど、16年ぶりの五輪出場に期待を抱かせます。しかし、1984年4月にシンガポールで開催されたロサンゼルス五輪アジア最終予選では、初戦のタイ戦でピヤポン・プオンにハットトリックを許して2-5で惨敗。初戦で躓いた日本は、結局4戦全敗に終わり、4大会連続で予選敗退の憂き目に遭います。

ロス五輪アジア予選の次に迎えたタイトルマッチが、メキシコW杯アジア予選でした。当初は、代表チームの準備不足や、森監督の進退問題などもあって、ファンからは殆ど期待されてませんでした。1次予選で日本は、北朝鮮とシンガポールと同組となります。鬼門のシンガポールで行われた敵地での初戦勝利を皮切りに、難敵の北朝鮮を下し、初の1次予選突破に成功。北朝鮮はニューデリーアジア大会の準決勝のクウェート戦で審判に対する暴力事件を起こして国際試合を2年間出場禁止処分を受けていたことも、日本にとって幸いでした。なお、この予選のアウェーでの北朝鮮戦の会場は、今度の11月15日にブラジルW杯アジア3次予選の同じ会場である金日成競技場です。

この大会の予選方式は、短期間に全ての試合を1ヶ所で実施する「セントラル方式」ではなく、長期間に渡って地元と敵地で1試合ずつ戦う「H&A方式」でした。準備不足だった日本は、試合を重ねるにつれて強化されました。また、選手間の結束も固く、「森ファミリー」と呼ばれました。2次予選で香港と対戦した日本は、ホームとアウェーでそれぞれ連勝を飾ります。ちなみに、当初は、2次予選は中国の進出が予想されたが、地元北京で行われた1次予選の最終戦で香港に1-2で逆転負けして予選敗退。日本にとっては幸運でした。それ以外にも、このメキシコW杯アジア予選は東西で分離して実施したことや、更には過去5大会で合同で予選を実施していたオセアニアとも分離したことも、日本に追い風となります。様々な偶然を味方に付けて、チームも勝ち上がって着実に強化された日本は最終予選に進出。ついに初のW杯出場へ王手をかけます。

しかし、最後の壁は分厚かったです。日本は韓国との最終予選で2連敗を喫し、悲願のW杯初出場の夢は潰えました。今回番組で取り上げるのが、1985年10月26日に国立競技場で行われた韓国との第1戦です。試合の詳細は、以前書いたので省略しますが、敗因は早い話が「プロとアマチュア」との差です。2試合とも1点差での敗戦だったが、結果以上に内容では韓国に完敗でした。たしかに、アジアの強豪の韓国は、いつも日本の前に立ちはだかっていたとはいえ、W杯は1954年スイス大会から32年間も遠ざかり、五輪も1964年東京五輪を最後に予選敗退を繰り返すなど、今とは違って1980年代前半までは実は勝負弱かったです。森監督が現役時代の頃も同様で、1967年10月7日、同じ国立で行われたメキシコ五輪アジア予選では、日本は韓国に雨中の死闘の末に3-3で引き分けて、メキシコ行きに大きく前進しました。しかし、韓国は1983年に国内リーグをプロ化。更には、1986年にアジア大会、1988年に五輪の自国開催を控えていたので、代表チームはかなり強化されてました。韓国はこの日本戦に勝利以降、アジアでは磐石の地位を築き、メキシコW杯以降のW杯と五輪は全ての大会で本大会に出場してます。

ちなみに、当時の森監督は日本協会と専属のプロ契約ではなく、勤務先の三菱重工から「出向」の形で代表監督に就いてました。しかし、最終予選敗退後、プロ化の必要性を痛感した森監督は、協会に代表監督のプロ契約を要求。しかし、当時の日本のスポーツ界はアマチュアリズム全盛だったこともあり、協会はこの要求を容れず、翌1986年3月に森は監督の座を辞任。薄っすらと見えたメキシコの青い空でしたが、やがて厚い雲に覆われます。この敗戦以降、日本はアジアの壁を破るどころか、韓国に対しても全く勝てなくなり、1993年10月25日にカタールのドーハで行われた米国W杯アジア最終予選で勝利するまで、2引き分けを挟んで6連敗を喫します。更には、伝説として語り継がれる木村和司のFKの得点からは、なんと7年間に渡って韓国に無得点でした。日本が初めてW杯に出場するのは、プロ化してから5年後の1998年フランスW杯まで待たなくてはなりませんでした。

ほろ苦い記憶ですが、26年経った今振り返ると、懐かしくも感じるこの一戦。たしか、この試合と同じ日のちょうど同じ時間帯に西武球場で行われたプロ野球日本シリーズの西武vs阪神があったので、小学6年生だった私はTVのチャンネルを回しながら観ていた記憶があります。しかも、この試合をビデオにも録画しておらず、まともにフルタイムで観るのは今回が初めてなので、今からとても楽しみです。ただ、とても残念なのは、森孝慈氏が今年の7月17日に腎盂がんのため、67歳の若さで逝去されたことです。森氏が、自身のプロ契約要求や代表選手の待遇改善など、アマチュア体質から抜けきれない協会に一石を投じた行動こそが、後のJリーグ創設という大河の一滴になったとも言えなくも無いです。それだけに、ご本人からあの当時の話をお聞き出来なかったのが、本当に残念でならないです。



▼メキシコW杯アジア予選の日本代表の詳細の成績
(アジア予選には24ヶ国が参加、本大会の出場枠は2)

・1次予選 (4組B)
1985/02/23 ○3-1 シンガポール<A>  @シンガポール(ナショナルスタジアム)
1985/03/21 ○1-0 北朝鮮<H>      @東京(国立競技場)
1985/04/30 △0-0 北朝鮮<A>      @平壌(金日成競技場)
1985/05/18 ○5-0 シンガポール<H>  @東京(国立競技場)
〔日本が3勝1分で2次予選に進出〕

・2次予選
1985/08/11 ○3-0 香港<H>       @神戸(神戸ユニバー記念競技場)
1985/09/22 ○2-1 香港<A>       @香港(香港政府大球場)
〔日本が2戦合計5-1で最終予選に進出〕

・最終予選
1985/10/26 ●1-2 韓国<H>       @東京(国立競技場)  ←今回番組で取り上げる試合はこちら
1985/11/03 ●0-1 韓国<A>       @ソウル(ソウルオリンピック競技場)
〔韓国が2戦合計3-1でW杯出場権獲得〕


・メキシコW杯アジア最終予選日本代表メンバー (所属チームは当時) 【監督】森孝慈
【GK】松井清隆(日本鋼管)、森下申一(ヤマハ)【DF】岡田武史(古河電工)、加藤久(読売クラブ)、石神良訓(ヤマハ)、松木安太郎(読売クラブ)、西村昭宏(ヤンマー)、越田剛史(日産自動車)、都並敏史(読売クラブ)、池内豊(フジタ)、勝矢寿延(日産自動車)【MF】与那城ジョージ(読売クラブ)、木村和司(日産自動車)、宮内聡(古河電工)、水沼貴史(日産自動車)、戸塚哲也(読売クラブ)、平川弘(日産自動車)【FW】手塚聡(フジタ)、原博実(三菱自動車)、柱谷幸一(日産自動車)


・関連記事
日本サッカー界にとっての因縁の日
サッカーW杯予選プレーオフ物語Vol.5 「最後の切り札」

メキシコW杯アジア予選の詳細の記録
国際サッカー連盟(FIFA)の同予選の詳細の記録



☆本大会に最も近づいたメキシコW杯アジア最終予選の韓国戦(第1戦)の木村和司の伝説のFK
(1985年10月26日 @東京・国立競技場)



☆8日後の第2戦は、日本は絶対に2得点を奪う必要があったが、後半15分に許丁茂に得点を奪われて万事休す
(1985年11月3日 @韓国・ソウル/ソウルオリンピック競技場)




最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
第1戦のみというのが惜しいですね (こーじ)
2011-11-14 00:34:30
 どうせならアウェーの試合も見てみたかったのですけどね。

 当日は日本シリーズ第1戦で当時働いていた店の師匠がトラキチだったので、この試合をライブで見られなかったのが残念です。

 当時としてはメキシコW杯より日本シリーズの方が関心が高かったので、そういう状況ではW杯などは無理だと今では思えます。

 ニューデリーアジア大会でのイラン戦と韓国戦はアジア大会ハイライトで見ましたけど、海外でまさか韓国に逆転勝ちできるとは思ってなかったので意外でしたし だからこそこの試合は
大いに期待したものでした。

 ちなみに森監督が長沼氏のところに報告に行って完敗だった旨を報告したものの、協会幹部は‘善戦だったから’と全く現場の感覚とは懸け離れた総括をしていたみたいですね。

 そして次のノルマについて尋ねると‘我々は仲間だから責任とかノルマとか設定できるわけないじゃないか’と長沼氏から言われたためプロ化の必要性を痛感した森氏は辞任を決意したらしいですね。

 つまりアマチュアの惰眠を貪っていたという
事でしょう。

 サッカーは当時は不人気種目だったからいち早くプロ化に着手できましたけど、バレーボールを含めた他競技は未だに惰眠を貪ってますね。

 ちなみに‘まとも’なプロ球技はサッカーのみで、野球は‘自称プロ’であって実質は実業団野球ですからね。
 
 国賊社長が監督の辞任を‘ウチのグループの
人事異動’と言っているのですから。
 
コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-11-19 21:37:29
こんばんは、こーじさん

昨日26年ぶりにこの日韓戦を観ましたが、、バックパス、スイーパー、チアホーン、短すぎるパンツ、荒れた国立の芝生、古いデザインのファミマの看板、松本育夫の解説、NHKにスポーツテーマ曲etc、懐かしいものがありますね(笑)。

たしか、韓国とはニューデリーアジア大会とオリンピックスタジアムの杮落としとなった1984年の敵地での日韓定期戦に勝利しており、直近の対戦成績では日本の2勝1分だったので、少し期待してました(ただし、84年の定期戦での韓国は実質的な2軍)。

だが、あらためて試合を観て分かるとおりに、徹底的に日本を研究していた韓国は、あえて日本に“ボールを持たせる”展開にさせて、日本の守備意識を低下させてカウンターを狙っていたので、まんまと術中に嵌った格好です。
アウェーでの戦いをキッチリこなす所に、プロとアマの違いを嫌でも痛感させられますね。

ちなみに、この試合が国立で行われた日本代表戦で初めて満員になったそうです。
過去にサッカーで国立が満員になったのは、トヨタ杯か高校サッカーだけということです。
むしろ、ラグビーの方が間違いなく人気が高かったですね。
万が一、この最終予選で日本が韓国に勝ってW杯初出場を果たしたとしても、国民的な盛り上がりに繋がるとは到底思えず、所詮は内輪だけで終わっていたような気がします。
日本サッカーがプロ化を果たして、代表戦が国民的な関心事となるには、まだまだ時間が必要だったということですね。
初めまして! (McCorphy)
2011-12-05 14:48:36
猫なべさん

初めまして。
きっと、同じ時期に国立競技場や、
三ッ沢スタジアムにいた方だと思います。

いつも、読み応えタップリの記事を書いていただき、
誠にありがとうございます。
サッカー観戦を趣味とする者にとって、
大変魅力的です。

あれから26年が経過するのに、
まだ、
1985年型日本代表が大好きです。

泥田と化した国立競技場、
アシスト西村ではなく、
「水沼(父)」
と言われた歓喜の北朝鮮戦後、
選手・スタッフと抱き合う際の
森孝慈監督のコメント
「腕が何本あっても足りない」、
とても懐かしく思えます。

今や4大会連続でW杯本大会に出場し、
アジア有数の戦闘能力を誇る国家代表の
サポーターであることを、
誇りに思っています。

こちらのブログ、また遊びに来ますので、
ぜひ続けて下さい。

今後とも、よろしくお願いします。
第2戦 (McCorphy)
2011-12-05 15:26:52
こーじさん
猫なべさん

伝説の10.26、現場にいた者です。

> どうせならアウェーの試合も見てみたかったのですけどね。
僅かな望みを賭けた11.3、
TV観戦しましたが、
圧倒的優位に立つ韓国が、
GKへのバックパス(当時はOKでした)
も多用して、
かなりスローペースで進めていた記憶があります。

韓国の、時間の経過を待つ姿が歯がゆかったのですが、
その試合でも0-1、
プロ化の進んだ韓国との差を見せられた思いでした。

その韓国代表、翌年の本大会で
アルゼンチン相手に3-1でした。
今でも、
もし、木村和司が出ていたら、
ディエゴ・マラドーナとのFK競演が見れたのでは、
と思わずにいられません。
(きっと、
 GK松井か森下が防いだでしょう!)
コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-12-08 23:17:44
こんばんは、McCorphyさん

拙ブログにご訪問並びにコメントを頂きまして、本当にありがとうございます。

McCorphyさんはあの伝説の一戦を生で観戦されたのですか。
本当に羨ましいです。
不人気だった当時の日本のサッカーは、前年4月にロス五輪最終予選で4戦全敗を喫し、8月には釜本が引退したので、一つの時代が終わったような気がしました。
なので、当初は、メキシコW杯予選では最終予選に進めるとは、正直思えなかったですね。

このメキシコW杯予選は1次予選の北朝鮮戦から見てました。
たしか、試合日が「春分の日」でデーゲームだったので、テレビで観てました。
ただ、会場の国立には半分ぐらいしか埋まらず、しかも観客の殆どが在日の連中だったので、とてもホームとは思えなかったです。
それだけに、韓国戦が満員の観客で埋まったのをテレビで見て、驚いたのを今でも覚えてます。

・ちなみに、これはホームの北朝鮮戦の原の決勝点のシーンです。
http://www.youtube.com/watch?v=K_XWgZzL74o&feature=related

・これはアウェーでの北朝鮮戦のNHKのニュース映像です。
(ちなみに、この映像は最近になって初めて観ました)
http://www.youtube.com/watch?v=FKCrq6XNGvM

・これは読売クラブに敗れたキリン杯の映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=8EkHk3sASZk&feature=related

韓国との初戦は柱谷兄が出場停止だったので、代わりに復帰した戸塚が入りました。
ただ、戸塚の相棒だった与那城が交代出場した時は、既に戸塚が交代で退いていたので、あまり機能しませんでした。

第2戦はアウェーゴールの関係で絶対に2点取る必要があったので、水沼と西村を外して、原・柱谷・与那城・戸塚・木村を送り込んで総攻撃態勢を採るも、韓国の厳しいチェックで潰されてしまい、シュートがたった1本しか打てませんでした。
万が一に備えて与那城と戸塚はもっと早く代表に招集するべきでしたし、奥寺と尾崎にも声をかけてほしかったですね。
やはり、ロス五輪最終予選でベテランを呼び戻して失敗した影響もあったと思われます。
この辺のことを、森さんにお聞きたかったのですが、残念ながらもう叶わないですけど・・・。

これからも、ご訪問並びにコメントをお待ちしております。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。