うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
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カイザースラウテルンの悪夢から5年

2011年06月12日 | サッカー(全般)
◆サッカー・第18回FIFAワールドカップドイツ大会
(2006年6月12日 @ドイツ・カイザースラウテルン/フリッツ・ヴァルター・シュタディオン)

・1次リーグF組 (第1節)
豪州 3(0-1)1 日本
得点者:豪州)84分&89分 ティム・ケーヒル、90分+2 ジョン・アロイージ
     日本)26分 中村俊輔


この大会の詳細の成績
国際サッカー連盟(FIFA)の同大会の詳細の記録


                           *  *  *  *  *


もうあの日から5年の月日が経ちます

6月4日に、東日本大震災復興の慈善試合として「FOOTBALL STARS AID」が茨城県鹿島市で行われ、鹿島OBと日本代表OBがチャリティーマッチを実施しました。この催しは、カシマスタジアムが応急の復旧工事が終わってから、初のイベント開催となりました。もちろん、地球の裏側から、あの“神様”ジーコも駆け付けてプレーし、被災者の方々を励まされました。その他にも、被災地の福島県いわき市を慰問。福島県は、日本代表監督時代に何度も代表合宿を行ったJヴィレッジがあるゆかりの場所だけに、地震や津波、そして東京電力福島第一原発の事故に伴う放射能汚染と風評被害で苦しむ現状に心を痛めているのでしょう(なお、現在Jヴィレッジは自衛隊の前線基地として使用しているので、サッカー施設としての機能は全面停止し、一般人の立ち入りも禁止です)。

ジーコは、1991年に当時日本リーグ2部に所属していた住友金属(現在の鹿島の前身のチーム)に入団して以来、日本サッカー界の発展に貢献した偉大な人物です。放射能汚染の影響で来日する外国人旅行者が激減しているこの時期に、わざわざ来日して救いの手を差し伸べてくれたのは本当に感謝に尽きます。ちなみに、ジーコが来日するのは5年ぶりだそうです。つまり、日本代表監督として指揮したドイツW杯以来となります。今回の来日は本当に嬉しいのですが、時期が時期だけにどうしても5年前のあの日の出来事を嫌でも思い出すので、少し複雑ですね(苦笑)。というのも、今からちょうど5年前の2006年6月12日は、ドイツW杯の初戦で豪州に1-3と大逆転負けを喰らった日だからです。

カイザースラウテルンのフリッツ・ヴァルター・シュタディオンで行われた豪州との初戦。日本は豪州の激しさに苦戦を強いられますが、前半26分に中村俊輔が右サイドから上げたクロスボールに、高原直泰と柳沢敦とGKマーク・シュワルツァーが交錯。ボールがそのままゴールマウスに吸い込まれるラッキーな得点で前半を折り返します。しかし、後半にフース・ヒディンク監督の罠にまんまと嵌ります。前線へ飛び出すティム・ケーヒルを中盤に入れ、次いで長身FWジョシュア・ケネディ、ジョン・アロイージを時間差で投入。次々と繰り出すカードに忙殺された日本は、対応が整わない間に次の選手が入って後手を踏み、ずるずるとDFラインが後退。相手にこぼれ球を拾われ、更にジーコの不可解な選手交代で一気に苦境に陥ります。その後はご存知の通りに、後半39分にCKからのこぼれ球を押し込んだケーヒルの得点を皮切りに、試合終了までの残り6分間で立て続けに3点を奪われて逆転負け。日本は、白星を皮算用にしていた相手にまさかの大惨敗を喫したので、甚大な打撃を被ってチームが完全に崩壊し、事実上の終戦。悪い夢を見ているようでしたし、現実を受け入れるのにかなり時間が掛かったのを今でも覚えてます。

この惨敗劇は、自分が今までサッカーの試合を観てきた中では、「ドーハの悲劇」と呼ばれた1993年10月28日にカタールのドーハで行われた米国W杯アジア最終予選のイラク戦に匹敵するショッキングな出来事でした。ただ、自分の中では、この2つの敗北は意味合いが全く異なります。というのも、ドーハは「衝撃度の大きさ」ですが、カイザースラウテルンは「後遺症の深さ」だからです。たしか、野球のイチローが同年3月に行われた第1回WBCの時に、「アジアでは、日本には向こう30年は手を出せない、という勝ち方をしたい」と発言して物議を醸しましたが、この豪州戦の惨敗劇は逆の意味でそれに近いものでした。なにせ、豪州はドイツW杯以降、オセアニアからアジアに編入して様々な大会で対戦するので、苦手意識を抱えたままだと厄介なことになるからです。実際に、日本が真の意味で「豪州コンプレックス」を払拭するのは、今年1月のアジア杯決勝です。つまり、4年半もの間、惨敗のショックを引き摺りました。

今振り返ると、敗因は色々あると思います。上手い選手だけを並べたチーム編成、大会前のコンディション作りの失敗、ドイツとの直前の親善試合で引き分けてチーム全体が慢心、敵地での強豪とのマッチメークの不足、想定外の高温、選手間の不和・・・などが挙げられます。ただ、最大の失敗は代表監督にジーコを据えたことに尽きますね。ジーコは選手としては本当に偉大ですけど、日本代表監督に就任するまで、過去に一度たりとも監督経験が皆無でした。特に、選手起用で悪い面が多々目立ちました。ジーコジャパンは、1979年生まれの「黄金世代」の選手らが中心だったので、選手の素質や国際経験に関しては、過去の代表チームの中では最も恵まれてました。ジーコの監督就任当初は、選手の才能を存分に活かしたチーム作りをするものだと、世間からの期待は高かったです。

ただ、規律を重視した前体制のフィリップ・トルシエ時代の反動で、ジーコは「自由」を強調するも、その実は「放任・無策・無計画」と表裏一体でした。また、主力選手同士の連係を重視しますが、新戦力の起用はかなり消極的でした。つまり、年功序列だったので競争原理が殆ど機能しませんでした。更には、静岡より西に視察に訪れることが少なかったので、西日本のクラブの選手は代表にあまり選ばれませんでした。一方、ジーコは、メンバーをいじることは極度に嫌うが、逆に一度メンバーを変えると、今度はそのメンバーがレギュラーとして固定して起用されるのも特徴でした。

これらがモロに裏目と出たのが、例の豪州戦でした。中でも、後半11分にDF坪井慶介が脱水症状を起こして、本来なら出場する事がないと思われていた茂庭照幸に交代したシーンが象徴的でしょう。元々、田中誠が代表メンバーでしたが、大会前の合宿中に負傷離脱し、ハワイでオフを取っていた茂庭を急遽招集。案の定、体調面だけでなく、守備の連係面でも不安が出てしまい、チーム全体のリズムが悪化。ちなみに、茂庭は私と地元が同じ選手なので、さすがに頭を抱えたくなりました。ただ、本当に問題だったのは、茂庭をはじめとしたアテネ世代(1981~1984年生まれ)の選手が、フル代表での経験が乏しかったことです。つまり、ジーコは選手だけでなく、代表チームのスタッフまで気心の知れたファミリーで固めていた為、山本昌邦が率いていた五輪代表チームと一体化した強化を殆どやらなかったので、バックアップの養成を怠りました。4年後の南アW杯ではこの世代が驚異的な活躍をしますが、一歩間違えれば取り返しのつかない事態となってました。また、どうでもいい国内開催の親善試合に若い選手に経験を積ませず、わざわざ海外から主力選手を招集するなど、チームマネージメントが皆無のチグハグな選手起用も、惨敗の遠因だったと思います。

やはり、力量が未知数のジーコを、“鶴の一声”で代表監督に独断で選んだ当時の日本協会会長だった川渕三郎の罪は相当重いですね。まあ、この方は日本サッカー界を繁栄させた中興の祖なのは誰もが認めますが、過去に何度も繰り返した監督人事での不始末を含めると、功罪相半ばの評価でしょう。ジーコにしてもそうですが、就任期間に危険な兆候が数多く散見されながら、目先の結果や過去の成功体験をあまりにも過信するあまり、サポーターからの批判や指摘に耳を貸さず、有事への備えを明らかに怠ってました。如何せん、取り巻きがファミリーですし、メディアも拝金主義や視聴率ありきだったので、必要以上にジーコを神格化して礼賛するあまり、意見具申を躊躇ったのかもしれません。まるで、「日本の原発は世界一安心」だと盲信して利益追求をするあまり、国際機関からの再三の指摘を見逃して地震&津波対策を怠って悲惨な事故を招いた、東電の企業体質と構造が似てますね。余談ですが、ジーコ監督時代に何度も代表合宿を行ったJヴィレッジは、東電も一部出資してます。

私はジーコの現役時代を知っているし、自分の中では英雄の存在だったので、やはり“神様”のままでいてほしかったです。なにせ、サッカーの代表監督なんて、総理大臣の次に国民から多くの批判を受ける大変なポストなので、“神様”がやるべきではないですね。なので、ジーコは日本代表監督を引き受けるべきではなかったと、今でも思います。それにしても、日韓W杯終了後に、ジーコではなく、別の人物が監督だったら、ドイツW杯では一体どんなチームとなっていたのでしょうか? 今でも想像に駆られますね。



☆永久に思い出したくない「カイザースラウテルンの悪夢」
(2006年6月12日 @ドイツ・カイザースラウテルン/フリッツ・ヴァルター・シュタディオン)




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4 コメント

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W杯は ごまかしが利かない (こーじ)
2011-06-15 00:29:27
 オーストラリア戦を見て感じたのがW杯はウソや ごまかしが利かないと痛感しました。

 例えば93年のドーハの悲劇では事前の試合で
殆どのメンバーをテストせず まともに走れない骨折明けの都並を連れて行きました。

 このオーストラリア戦では‘こんなので大丈夫?’と思える事をやっていたのがモロに出ましたね。

 攻撃したがりの中田英寿をボランチに置き、
小野の投入と同時に高原を頂点に小野と中田が
三角形のポジションになってクリアボールが来れば追加点という感じで虎視眈々とは狙ってました。

 ところがDFラインは逃げ切るのが精一杯で、
とても逆襲へのビルドアップなど厳しいという
状況でしたけどジーコは全く指示を出さずに
傍観しての醜態でした。

 ちなみに控えDF要員の田中誠がケガで帰国、
代替えに選んだのが茂庭でハワイでのバカンス中だったという状況では多くは期待できませんけど、ジーコのやり方だとメンバーは固定するので茂庭の出番はないと思いきや坪井が足を
痙攣させるアクシデントで交代となったわけです。

 つまり本来ならやるべき準備を全くやらずに
臨んだW杯だったという事でしょうか。

 いくらマスゴミがジーコを持ち上げようと、
サッカーの神様が 本当の実力を看破した形でしょうね。

 反対に昨年のカメルーン戦では意思統一はできていたので、カメルーンの猛攻に耐える事ができましたけど コレを4年前にやっていたら’と思ってしまってましたよ。
こんにちは。 (elinor-marianne)
2011-06-15 11:03:05
 この記事は、とても読み応えがあり、大変、おもしろかったです。(と、私が言うのも、ナンですが・・・。笑)

 監督や作戦、事前準備がいかに大切か、ということが、実例を元に解説されているので、私のようなにわかファンにも、大変、わかりやすかったです。

 特に、私はあの時、中田が何に苦悩していたのか、その焦りやイラだちだけを感じていたので、プレーヤーにとってのやりずらさ、というのを、この記事を読むことで、かなり実感できました。

 ちなみに、あの頃は、いろんな雑誌の記事を読み漁っていたはずですけど、ここまで明確に指摘していた記事はなかったように思います。
メディアの限界でしょうかね?

 また、楽しみにしています。
コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-06-16 01:02:22
こんばんは、elinor-marianneさん

ジーコが初采配となった9年前の国立でのジャマイカとの親善試合が、彼のチーム作りを象徴してましたね。
この試合は中盤に、中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一を並べて、「黄金のカルテット」と呼ばれ、
世間は大いに期待されてました。

ただ、ジーコが自身の選手時代を模倣して、上手い選手を並べたに過ぎず、まるで曲芸のように思えました。
それに、時代は動いているのに、80年代のサッカーなんか追及して一体どうするの?って思いました。
やはり、汚れ役や戦える選手といった、チームの「潤滑油」になるような選手を入れてバランスを整えないと、
このチームは将来まずいことになるだろうと予感させられました。

また、W杯当時の世間の空気も、今考えるとおかしかったですね。
悪乗りしたメディアが「ブラジルには負けるけど、あとの2チームには勝てる」など、トンでもない予想をしてました(苦笑)。
しかも、ジーコは悪運が強過ぎるので、世間もそれを信じ込んでした。
ロクな準備をしていないのにも関わらず、根拠の無い自信が溢れていたので、ある種の「神風思想」と同じですね。

今振り返ると、日本が戦争で負けた時って、もしかしたらこれと同じ状況じゃないのかなとすら思いましたね。
コメントありがとうございます (猫なべ)
2011-06-16 19:26:45
こんばんは、こーじさん

ドイツW杯のF組の私の事前予想は、ブラジルが3戦全勝で、後の残りの3チームが1敗2分で得失点差の争いになるだろうと思いました。
せめて、豪州戦を1-1で引き分けていれば、望みが繋がっていたので、あの終盤での大量失点は本当に痛恨でした。

今振り返っても、選手交代がチグハグでしたね。
小野の交代はかえって混乱を引き起こしましたし、大黒の投入に至っては明らかに遅すぎでした。
点を取れるときに取りにいかず、守らなくてはいけない場面で堪え切れなかったのは、
意思統一が全く出来てなかった証拠ですね。
ジーコは丸々4年間やってましたが、豪州のヒディンクはたった1年間だけでした。しかも、PSVとの兼任監督でした。
なので、監督の指導力の差が、大事な場面で露呈したと思います。

また、ジーコは監督就任当初は山本昌邦をコーチに入れてましたが、後に五輪代表に専念させるということで外れたのも、
理解不能でした。
おかげで、フル代表と五輪代表が全く別のチームになってしまい、アテネ世代を融合させることが出来なくなりました。
これが、主力と控え選手との戦力格差を生み出し、のちに内紛が起きる要素に繋がったのでしょう。
まあ、アテネ世代の強化を全く考えていなかったのは、ジーコを選んだ協会が悪すぎでしたけどね。

「黄金世代」と呼ばれた1979年生まれの選手はU-16あたりから期待していただけに、
このような形で消化不良に終わったのは今振り返っても本当に残念に尽きますね。

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