2008年北京五輪男子マラソン金メダリストのサムエル・ワンジル選手(24)が15日、ケニア・ニャフルルの自宅でバルコニーから転落し、死亡した。
ロイター通信が16日、伝えた。地元警察が自殺の可能性もあると見て調べている。
ワンジル選手は宮城・仙台育英高に留学し、全国高校駅伝などでも活躍。昨年12月に妻を銃で脅迫した疑いで告訴され、脅迫については妻が告訴を取り下げたものの、銃の不法所持の罪で起訴され、近く判決が言い渡される予定だった。
今年1月には交通事故で軽傷を負うなど、トラブルが続いていた。4月のロンドンマラソンに出場する予定だったが、右ひざの故障で欠場している。
〔時事通信 2011年5月16日の記事より、写真はロイター〕
* * * * *
男女を通じてケニア初のマラソンの五輪金メダリストである2008年北京五輪男子マラソン優勝者のサムエル・ワンジルが5月15日に、母国のケニアにて転落死した。ワンジルはまだ24歳の若さですし、もちろん現役バリバリの世界のトップクラスのランナーです。北京五輪後のワンジルは、私生活で多くのトラブルを抱えていたとはいえ、今回の悲報には世界中の誰もが驚いたでしょう。
ワンジルは、3年前の北京五輪では真夏のレースだったのにも関わらず、2時間6分32秒と常識外れのタイムを叩き出し、五輪新記録を樹立して金メダルを獲得。しかも、僅かマラソン3戦目で世界の頂点に君臨。まさに高速レースの申し子のような存在でした。北京五輪後のワンジルは、春のロンドンマラソンと秋のシカゴマラソンと年2回のペースで高額賞金が懸かったレースに参戦。昨年のロンドンこそ途中棄権でしたが、それ以外は全て優勝。全7戦中5勝と勝負強かっただけでなく、完走した6戦のタイムも全て2時間6分台以内とスピードも兼ね備えてました。ワンジルは、世界のマラソンの歴史を変える選手だっただけに、私生活の乱れが原因で破滅の道を突き進み、このような形で突然の別れを迎えたことには、世界のマラソン界にとっても非常に残念でならないです。
今回のワンジルの死が日本で大きくニュースで取り上げられているのは、ただ単に五輪金メダリストの夭折だけではないですし、ましてや女性に纏わる醜聞だけでもありません。それはワンジルの経歴を見れば納得できると思います。ワンジルは仙台育英高校に留学して高校時代を過ごし、卒業後はトヨタ自動車九州に在籍してました。もちろん、日本語も流暢に喋れます。また、ワンジルは年末に京都の都大路で行われる全国高校駅伝を走ったことでも有名です。戦後、日本男子のマラソンの五輪メダリストは、1964年東京五輪銅メダリストの故・円谷幸吉、1968年メキシコ五輪銀メダリストの君原健二、1992年バルセロナ五輪銀メダリストの森下広一の3人ですが、実は3人とも全国高校駅伝には参加してません。なので、ワンジルが都大路を走った男子の唯一の五輪メダリストということになります(なお、女子は野口みずきだけです)。つまり、ワンジルは10代の頃から日本で育てられた選手だったことが、世間一般の関心が高い理由だと思われますね。
ちなみに、全国高校駅伝の男子は、総走行距離がマラソンと同じ42.195kmで行われます(なお、女子の総走行距離は、男子のちょうど半分の21.0975kmで5区間)。男子の区間は7つあり、最も距離が長い区間が「花の1区」と呼ばれている1区です。1区の区間距離は総走行距離全体の約4分の1を占める10kmです。ちなみに、この1区の歴代ランキングは、なんと上位15位までが全員ケニア人留学生です。なお、ワンジルは、高1と高2の時に1区で2年連続区間賞を獲得してます。早い話が、最も区間距離が長い1区に外国人留学生選手を配置すれば、桁違いのスピードで日本人選手を置き去りにして圧倒的にリードを広げられるので、勝負は1区の序盤の段階で殆ど決まる展開でした。しかし、私学が“助っ人”として外国人留学生を起用することに対し、他校からの不満が爆発。更には、一般の駅伝ファンなる連中からも、陸連に喧しくクレームを付けはじめます。
そして2008年、陸連は「外国人留学生選手を1区での起用を禁止」を打ち出します。たしかに、戸籍制度が胡散臭いアフリカ諸国だと、年齢詐称の疑いは否定出来ないです。とはいえ、留学生の人数を規制するのならまだしも、起用する区間を制限するのはあからさまな差別行為です。しかも、同じ“助っ人”の立場である県外からの特待生を容認しながら、外国人留学生を規制をするのは明らかに矛盾してます。それに、同年代の世界のトップクラスの選手と戦える機会を自ら放棄させている為、箱庭でしか通用しない“駅伝要員”を量産させているに過ぎません。本来なら、区間距離を変更すれば済む話ですが、過去の記録が「参考記録」として扱われることを嫌っているのが本音でしょう。まさに過保護であり、究極の愚策です。ちなみに、ワンジルが3年の時に優勝した仙台育英の2時間01分32秒(2004年)は、今も破られてない高校記録です。ただ、世間からの批判を和らげる為なのか、仙台育英は当のワンジルを2番目に長い3区(8.1075km)で起用してます(なお、3区の区間新記録を樹立)。なので、他の日本人選手が留学生と一緒に練習して実力を付けたからこそ、成し遂げた記録でもあります。
ワンジルは高校卒業後、森下広一が監督を務めるトヨタ自動車九州に入社。つまり、ワンジルは関東の大学に進学して、箱根駅伝を目指すことは端から眼中にはありませんでした。ワンジルと同じく、ケニア人留学生が箱根駅伝を走った選手は数多くおりますが、卒業後にマラソン選手として成功した選手は皆無です。ワンジルに匹敵する才能があると言われていた山梨学院大学出身のメクボ・ジョブ・モグスでさえも、箱根駅伝ではエース区間の2区で3度区間賞を獲得するなど大活躍しますが、大学卒業後はマラソン転向するも大した成績を残してません。対照的に、距離の長いレースに適性を見出したワンジルは、以後は主にハーフマラソンで鍛えて、最終目標であるマラソンに向けて着々と強化を進め、北京五輪での栄光へと繋がります。
しかし、この間、ワンジルは強化方針を巡って次第に会社と齟齬が生じ、北京五輪直前に会社に「マラソンに専念したい」との理由で退社届を提出し、五輪終了後に受理されます。つまり、駅伝が強化の手段ではなく、チームの最大の目標となっている日本長距離界の現状に、限界を感じたからに他ならないです。たしかに、ワンジルは「都大路が生みだした金メダリスト」であります。しかし、駅伝偏重の日本のシステムを見限ったからこそ、賞金を稼ぐプロのマラソン選手として世界的に成功を収めたのです。もし、他のケニア人留学生と同様に、ワンジルが大学や企業で駅伝を続けていたら、ランナーとしての才能は間違いなく潰されて、マラソンで日の目を見ることも無かったと思われます。つまり、ワンジルがマラソンで活躍すればするほど、世界の逆コースを歩んでいる日本長距離界の異常さが炙り出されるので、とても皮肉な図式でもありました。
それにしても、男子マラソンの五輪金メダリストは、引退後は不遇な人生を送る人が目立つような気がします。1928年アムステルダム五輪金メダリストのブエラ・エル=ワフィは晩年は貧困に喘ぎ、祖国のアルジェリア解放運動への協力を拒否したことからメンバーによって殺害。1952年ヘルシンキ五輪で長距離3冠(5000m・10000m・マラソン)を達成した“人間機関車”エミール・ザトペックは祖国が民主化された晩年こそ名誉回復されますが、1968年の「プラハの春」で民主化運動に加担したことが理由で、21年間もの長い期間に渡って共産主義政権から冷遇され続けました。1960年ローマ五輪&1964年東京五輪でいずれも世界記録を更新して大会2連覇を果たした“裸足の英雄”アベベ・ビキラは、メキシコ五輪の半年後に自動車事故で下半身不随となり、その後遺症が遠因で脳出血で41歳の若さで死去。1968年メキシコ五輪の金メダリストのマモ・ウォルデに至っては、祖国の政変に翻弄された結果、晩年はあまりにも惨過ぎる生涯でした。
ワンジルは若くして成功を手に入れただけに、日本で学んだ「我慢」を実践していれば、身を滅ぼさなかったのかもしれません。年齢を考えれば、史上初の五輪3連覇も決して夢では無かっただけに、本当に早世が惜しまれます。
謹んでワンジル氏のご冥福を心よりお祈りいたします。
※全国高等学校駅伝競走大会公式サイト
ロイター通信が16日、伝えた。地元警察が自殺の可能性もあると見て調べている。
ワンジル選手は宮城・仙台育英高に留学し、全国高校駅伝などでも活躍。昨年12月に妻を銃で脅迫した疑いで告訴され、脅迫については妻が告訴を取り下げたものの、銃の不法所持の罪で起訴され、近く判決が言い渡される予定だった。
今年1月には交通事故で軽傷を負うなど、トラブルが続いていた。4月のロンドンマラソンに出場する予定だったが、右ひざの故障で欠場している。
〔時事通信 2011年5月16日の記事より、写真はロイター〕
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男女を通じてケニア初のマラソンの五輪金メダリストである2008年北京五輪男子マラソン優勝者のサムエル・ワンジルが5月15日に、母国のケニアにて転落死した。ワンジルはまだ24歳の若さですし、もちろん現役バリバリの世界のトップクラスのランナーです。北京五輪後のワンジルは、私生活で多くのトラブルを抱えていたとはいえ、今回の悲報には世界中の誰もが驚いたでしょう。
ワンジルは、3年前の北京五輪では真夏のレースだったのにも関わらず、2時間6分32秒と常識外れのタイムを叩き出し、五輪新記録を樹立して金メダルを獲得。しかも、僅かマラソン3戦目で世界の頂点に君臨。まさに高速レースの申し子のような存在でした。北京五輪後のワンジルは、春のロンドンマラソンと秋のシカゴマラソンと年2回のペースで高額賞金が懸かったレースに参戦。昨年のロンドンこそ途中棄権でしたが、それ以外は全て優勝。全7戦中5勝と勝負強かっただけでなく、完走した6戦のタイムも全て2時間6分台以内とスピードも兼ね備えてました。ワンジルは、世界のマラソンの歴史を変える選手だっただけに、私生活の乱れが原因で破滅の道を突き進み、このような形で突然の別れを迎えたことには、世界のマラソン界にとっても非常に残念でならないです。
今回のワンジルの死が日本で大きくニュースで取り上げられているのは、ただ単に五輪金メダリストの夭折だけではないですし、ましてや女性に纏わる醜聞だけでもありません。それはワンジルの経歴を見れば納得できると思います。ワンジルは仙台育英高校に留学して高校時代を過ごし、卒業後はトヨタ自動車九州に在籍してました。もちろん、日本語も流暢に喋れます。また、ワンジルは年末に京都の都大路で行われる全国高校駅伝を走ったことでも有名です。戦後、日本男子のマラソンの五輪メダリストは、1964年東京五輪銅メダリストの故・円谷幸吉、1968年メキシコ五輪銀メダリストの君原健二、1992年バルセロナ五輪銀メダリストの森下広一の3人ですが、実は3人とも全国高校駅伝には参加してません。なので、ワンジルが都大路を走った男子の唯一の五輪メダリストということになります(なお、女子は野口みずきだけです)。つまり、ワンジルは10代の頃から日本で育てられた選手だったことが、世間一般の関心が高い理由だと思われますね。
ちなみに、全国高校駅伝の男子は、総走行距離がマラソンと同じ42.195kmで行われます(なお、女子の総走行距離は、男子のちょうど半分の21.0975kmで5区間)。男子の区間は7つあり、最も距離が長い区間が「花の1区」と呼ばれている1区です。1区の区間距離は総走行距離全体の約4分の1を占める10kmです。ちなみに、この1区の歴代ランキングは、なんと上位15位までが全員ケニア人留学生です。なお、ワンジルは、高1と高2の時に1区で2年連続区間賞を獲得してます。早い話が、最も区間距離が長い1区に外国人留学生選手を配置すれば、桁違いのスピードで日本人選手を置き去りにして圧倒的にリードを広げられるので、勝負は1区の序盤の段階で殆ど決まる展開でした。しかし、私学が“助っ人”として外国人留学生を起用することに対し、他校からの不満が爆発。更には、一般の駅伝ファンなる連中からも、陸連に喧しくクレームを付けはじめます。
そして2008年、陸連は「外国人留学生選手を1区での起用を禁止」を打ち出します。たしかに、戸籍制度が胡散臭いアフリカ諸国だと、年齢詐称の疑いは否定出来ないです。とはいえ、留学生の人数を規制するのならまだしも、起用する区間を制限するのはあからさまな差別行為です。しかも、同じ“助っ人”の立場である県外からの特待生を容認しながら、外国人留学生を規制をするのは明らかに矛盾してます。それに、同年代の世界のトップクラスの選手と戦える機会を自ら放棄させている為、箱庭でしか通用しない“駅伝要員”を量産させているに過ぎません。本来なら、区間距離を変更すれば済む話ですが、過去の記録が「参考記録」として扱われることを嫌っているのが本音でしょう。まさに過保護であり、究極の愚策です。ちなみに、ワンジルが3年の時に優勝した仙台育英の2時間01分32秒(2004年)は、今も破られてない高校記録です。ただ、世間からの批判を和らげる為なのか、仙台育英は当のワンジルを2番目に長い3区(8.1075km)で起用してます(なお、3区の区間新記録を樹立)。なので、他の日本人選手が留学生と一緒に練習して実力を付けたからこそ、成し遂げた記録でもあります。
ワンジルは高校卒業後、森下広一が監督を務めるトヨタ自動車九州に入社。つまり、ワンジルは関東の大学に進学して、箱根駅伝を目指すことは端から眼中にはありませんでした。ワンジルと同じく、ケニア人留学生が箱根駅伝を走った選手は数多くおりますが、卒業後にマラソン選手として成功した選手は皆無です。ワンジルに匹敵する才能があると言われていた山梨学院大学出身のメクボ・ジョブ・モグスでさえも、箱根駅伝ではエース区間の2区で3度区間賞を獲得するなど大活躍しますが、大学卒業後はマラソン転向するも大した成績を残してません。対照的に、距離の長いレースに適性を見出したワンジルは、以後は主にハーフマラソンで鍛えて、最終目標であるマラソンに向けて着々と強化を進め、北京五輪での栄光へと繋がります。
しかし、この間、ワンジルは強化方針を巡って次第に会社と齟齬が生じ、北京五輪直前に会社に「マラソンに専念したい」との理由で退社届を提出し、五輪終了後に受理されます。つまり、駅伝が強化の手段ではなく、チームの最大の目標となっている日本長距離界の現状に、限界を感じたからに他ならないです。たしかに、ワンジルは「都大路が生みだした金メダリスト」であります。しかし、駅伝偏重の日本のシステムを見限ったからこそ、賞金を稼ぐプロのマラソン選手として世界的に成功を収めたのです。もし、他のケニア人留学生と同様に、ワンジルが大学や企業で駅伝を続けていたら、ランナーとしての才能は間違いなく潰されて、マラソンで日の目を見ることも無かったと思われます。つまり、ワンジルがマラソンで活躍すればするほど、世界の逆コースを歩んでいる日本長距離界の異常さが炙り出されるので、とても皮肉な図式でもありました。
それにしても、男子マラソンの五輪金メダリストは、引退後は不遇な人生を送る人が目立つような気がします。1928年アムステルダム五輪金メダリストのブエラ・エル=ワフィは晩年は貧困に喘ぎ、祖国のアルジェリア解放運動への協力を拒否したことからメンバーによって殺害。1952年ヘルシンキ五輪で長距離3冠(5000m・10000m・マラソン)を達成した“人間機関車”エミール・ザトペックは祖国が民主化された晩年こそ名誉回復されますが、1968年の「プラハの春」で民主化運動に加担したことが理由で、21年間もの長い期間に渡って共産主義政権から冷遇され続けました。1960年ローマ五輪&1964年東京五輪でいずれも世界記録を更新して大会2連覇を果たした“裸足の英雄”アベベ・ビキラは、メキシコ五輪の半年後に自動車事故で下半身不随となり、その後遺症が遠因で脳出血で41歳の若さで死去。1968年メキシコ五輪の金メダリストのマモ・ウォルデに至っては、祖国の政変に翻弄された結果、晩年はあまりにも惨過ぎる生涯でした。
ワンジルは若くして成功を手に入れただけに、日本で学んだ「我慢」を実践していれば、身を滅ぼさなかったのかもしれません。年齢を考えれば、史上初の五輪3連覇も決して夢では無かっただけに、本当に早世が惜しまれます。
謹んでワンジル氏のご冥福を心よりお祈りいたします。
※全国高等学校駅伝競走大会公式サイト
どうしてもプロランナーになるとカネが入りますから取り巻きも増えますし、若さゆえ周りが見えなくなるという事は多いですよね。
ボクシングの中南米あたりの世界王者が同じようなパターンで、稼いだのにスッカラカンになってカムバックして無残な姿を晒すというのを思い出しますけど、ワンジルも自制できなかったのでしょうね。
願わくば大活躍して日本の駅伝中心主義を否定して欲しかったのですけどね・・・・
そういう意味でも残念ですよ。
ネットで検索していたら、以下のようなものも見つけました。
◆非業の死を遂げた五輪メダリスト
▽西 竹一(1932年ロサンゼルス馬術障害飛越金)「バロン西」と呼ばれ欧米でも人気となったが、帝国陸軍の騎兵将校として第2次世界大戦に従軍中の45年3月、硫黄島の戦いで戦死。42歳。
▽円谷幸吉(64年東京男子マラソン銅)68年1月に自衛隊体育学校内で頸(けい)動脈を切り自殺。「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と遺書を残した。27歳。
▽猪熊 功(64年東京男子柔道重量級金)2001年9月、経営する会社の業績不振の責任を取り、社長室内で自ら腹部などを刺した。63歳。
▽クラウディア・ハイル(04年アテネ五輪女子柔道63キロ級銀)北京五輪後に引退。ジュニア選手を指導していたが、11年3月にウィーン市内で飛び降り自殺。29歳。(スポーツ報知)
ワンジル氏の死の状況は、今ひとつわからないけど、覚悟の死とか、激昂の挙句の死とかではなく、どこか、“間違えて”死に至ったような、本人にとっても、“計算外”だったような、不可思議さがありますよね。
それにしても、周囲も本人にすら、納得できなくても、結果は結果なんですよね。残念です、私も・・・。
やはり、若くして成功を収めたからこそ、冷静な視点で耳の痛い忠告をする腹心を側に置く必要がありますね。
頂点に立っている時に擦り寄ってくる人間なんて、大抵は腹に一物のある曲者ばかりです。
特に、金銭面を管理するマネージャーをプロに任せないと、そういう連中に搾取されるだけですから
マイク・タイソンもそうですが、もしカス・ダマトが側に長く付いていれば、
あそこまで転落しなかったはずですし、全く違った人生だったと思いますね。
ワンジルも、周りがイエスマンばかりに囲まれていたので、日本にいた頃に比べると
すっかり人が変わったみたいです。
結果が全て己に跳ね返るプロ選手だからこそ、ワンジルには自分を律してほしかったです。
マラソンで更なる成功を収めてほしかったので、本当に今回の悲報は残念でならないです。
今回の事件は夫婦のことなので、事の真相は当事者同士にしか分からないのですが、
伝えられた話によると、あまりいい死に方ではないみたいですね。
やはり、金メダリストだけあって、世間一般にはスキャンダラスな面ばかり強調されて、
どうしても興味本位で伝えられてます。
しかし、日本がマラソンに真剣に向き合って、プロ化に理解のある国だったら、
ワンジルは日本を去ることはありませんでした。
なので、もしかしたら今回の悲劇は起きなかったかもしれませんね。
もちろん、身を滅ぼしたのは、自分を律することが出来なかった本人が一番悪いのですが、
やはり今回の事件は本当に複雑に感じますね。