陽もまた誰の上にも

2008-12-29 | 日々小波乱(日記)
2008年もあと二日となりました。

今年は年末に向かって色んなことが猛スピードで変化していて

静かに振り返るという感じじゃありません。

それも尋常ではない悪化への加速が、否でも悲観的にさせられて……

実際色んな形で影響を受けている人が殆どだと思うのですが、

ニュースの伝え方、もう少し何とか前向きな部分も入れられないのかと。

皆様にはどんな年だったでしょうか。

私にとっても去年に続いて色んなことが重なった、正直大変な一年ではありました。

だからこそ見えたものもあります。







沖縄のことわざに

【あみや とうがにんぬ ういん ふゆん (雨は罪人の上にも降る)】

というのがあります。

(本土のことわざの「誰の上にも雨は降る」と似てます)

雨は罪人であっても、よけて降ることはなく誰の上にもふる。

誰もが平等、自分だけが正しいという錯覚を起こしてはいけない

などという意味ですが、私は本土のことわざの方を先に知って、違う意味で解釈してたのです。

「雨」は悲しみや辛いこと、人生の中での上手くいかないことや時期を表してるのだと思っていました。

この言葉への勘違いの理解から生まれた想いです。







「雨」に見舞われない人はいず。

止むことなく雨が降り続けば、人は押し潰されそうになる。

壊れそうになる。

もうダメだと感じたりしながら

不思議と立っていられるのは

そこが真っ暗闇ではないから。

厚い雨雲の立ち込める中にいても

びしょ濡れのまま立ち尽くすしか出来ない時でも

その上にある「陽」の光がそれに負けることはないから。







どんな大雨でも、雷雨でも、必ずその上にある「陽」

それは希望だったり、愛だったり、友情だったり。

晴れている時には見えないもの。

いえ、見えているけれど忘れている。

雲一つない空にあるお日様よりも

何日も何日も続いた雨や嵐のあと、

その終わりを告げる時に雲の合間から差し込む

一筋の光の方がずっと綺麗で愛おしく感じる。ほっとする。

それをどれだけ求めていたか、大切か、気づく瞬間。

そしていつもそこに在って、支えられていたことを教えられる。

自分の中に生命力が戻って来て初めて見える、私を守ってくれていたもの。







ニュースから流れて来るのは、気が滅入って不安になるものばかり。

新しい年に希望を持ち、新たな気持ちで、と切り替えたくても

そう簡単には解決しないことばかりなのは誰もが分かっているから余計に。

それでも太陽は消えてはいない。

支えてくれる人たちは必ずいる。

先の見えない暗雲の中にあっても

このぶ厚い雲の上にも陽の光は存在している。

2009年、どうか全ての人に希望の光が、優しい陽の光が注がれますように・・・。







今年も猫耳荘へ来て下さって、本当にありがとうございました。

コメントやメールにお返事出来ない管理人を、温かく見守って頂いて本当に感謝しています。

どうぞ来年も宜しくお願い致します。

皆様、良いお年をお迎え下さい。



最高のプレゼント

2008-12-22 | ねこのきもち
先週は友人、知り合い、職場と、色んな人からプレゼントや差し入れをもらいました。

それは品物に限らず、温かい言葉だったり。

何かをもらうことは無条件で嬉しいことだけど、

自分の心の琴線に触れた「誰か」の「何か」は、滅多にないとても特別なプレゼントだと思うのです。

そしてそれが互いになら、もっともっと特別に。

想いが「伝わった」感覚。

気持ちが「繋がった」実感。

大切な人だからそうなることもあれば、そうなったから大切になる人もいます。

そんな宝物をくれた人たちに感謝。







中でも先週届いたあるメールに、私は涙、涙、涙。

感激で泣きまくってしまいました。

もぉあまりにも嬉しかったので抜粋して掲載します!

以前私が 「罪=処分/去勢/ペット売買/実験」 というテーマで書いたものに対して下さいました。

HP時代から来て下さっている、anaさんからのメールです (ご本人に了承済)










【今日は、ねこみみさんにお礼をいいたくて、メールしてます。

ねこみみさんが以前のHPで書かれていた「動物実験」について。

その内容を読んで以来、できるだけ日用品などは"no animal tested"productを買うよう、心がけていました。

本当に微々たることではあるのですが…

こういう一人一人の小さな心がけが、一匹でも多くの動物を救えるといいなーと思って。

現在私は近所のコミカレでいくつかクラスを受講しています。

今セメスターはEnglish writingもとりました。

そのクラスでのリサーチペーパーの選択肢に「動物実験」があり、迷わず、そのトピックに決めました。

私なりにリサーチし、何とか形にして自分の意見をまとめることができました。

実はそのクラスの先生も、Animal rightsのサポーターで、ベジタリアンでもあり、

動物実験などについて、いろいろと助言してくれました。

学校の課題の1つ、という小さな枠での話ですが、私にとって、実際にすごく興味のあるテーマで、

いろいろ学ぶことができ、とても意味のあるペーパーになりました。

このテーマに目を向けさせてくれたのは、ねこみみさんのブログです。

ねこみみさんが、動物実験について書いてくれなかったら、私は何も知らないまま、無意識のまま、

動物たちに苦痛を強いたまま、人生を過ごしていたと思います。

私にベジタリアンではないし、動物の犠牲の上に生きているのですが、

そのことに気づかせてくれて、考える機会を与えてくれた、ねこみみさんに感謝します。

できれば、ねこみみさんにも私のペーパーを読んでほしくて添付しました。

ねこみみさんの言葉が、誰かの人生・生き方を変えることができることをお伝えしたくて。

これからも、ブログ楽しみにしています。】









書いた当初も色々と感想を頂いて、真摯に考えてくれる人がいることを嬉しかったのを覚えていますが、

その後もずっと誰かの心の中に残り続けていることは、その時以上に嬉しいです。

更にanaさんが多くの人に繋いで行ってくれている。

私が知って欲しいと思ったこと、伝えたい、考えて欲しいと書いたことが、

幾つにも膨らんで、増えて、分かれて、まるでたんぽぽの種のように、誰かの心に着地していく。

メルヘンチックだけど、そんな画が浮かんでしまいました。

それから胸の中が何か不思議なもので満たされ、とても励まされました。

文章で考えていることを伝えるのはとても難しいし怖い。

特にこういう内容は。

でもまた続きを書こうという気になりました。

anaさん、私こそありがとうございます。

いっぱい勇気をもらいましたよー







病院にかかって医師には感謝しても、

その病気の治療や薬の為に実験された動物のことを思う人はあまりいない。

食事を神様に感謝はしても、目の前にある「生命だった者」にありがとうと言う人は少ない。

生きたいのはどんな小さい命でも同じ。

それを私たちはどれだけむやみに、無駄に奪っているか。

より「知る」ことは辛いことが多いのかも知れない。

深く「考える」のは苦しいだけだったりする。

世の中の大抵のことが、自分にはどうにも出来ないことだから。

でも知ること、それは先進国の住人である者の義務だと思うのです。

動物に限らず、弱い人たちの犠牲の上に成り立っている

最新科学から生み出されるものに囲まれ、高度な医療が受けられる、ほんの一握りの中の一人だから。

直接手を汚さず、お金と引き換えに綺麗な部分だけを得ている、一番罪深い人間たちの一人だから。

逆に言えば犠牲を減らせる側の人間ということでもあるのだから。



語るためにでなく

2008-12-15 | 日々小波乱(日記)
私の働く学校には重度の障害を持つ子もいる。

英語に自信が無いのが一番だけど、何を話していいかが分からず

これまでは挨拶程度で、その子たちと会話らしい会話をすることは無かった。

そんな風に戸惑う自分にいつも罪悪感みたいなものがあった。

でも今学期入って来たある男の子が、私のそれを変えてくれつつある。







彼は首より下は殆ど動かせない。

言葉を発することも出来ない。

でも言っていることは理解出来る。

だから病気の経緯は分からないが、生まれつきのものではないのではないかと思う。

自由にならない体を抱えているのに、彼は他のどの子よりも明るい。

表情がすごく豊か。

特に笑顔は何とも言えないくらい可愛いくて、天使みたいってきっとこういう顔を言うんだなって。

一点の曇りもないその笑顔を見ると、あったかい優しい気持ちを内側から溢れさせてくれる。







妙に身構えて躊躇していた私が、知らないうちにいつの間にか会話をしていたのも、

彼のその表情のお陰だと思う。

自然と惹きつけられていったような感じ。

そして彼と話していて、自分のしているあることに気がつく。

私は必死で彼の気持ちを引き出すような言葉や質問を考えていた。

彼だって話したいはず。

まして相手の言っていることが分かるなら尚更、それに対してどんなにか言いたいことがあるだろう。

伝えたいことが沢山あるんじゃないだろうかと。

それを少しでも汲み上げてあげたい。

無意識だった。

話しているのは私でも、私の想いを伝える為にではなく、

相手の想いを推し量る為に考えていた自分の言葉に

あぁ、「話す」って語るだけのものではないんだ、と。







人は自分を分かってもらう為に、必死で言葉を駆使する。

でもそれが出来ない人もいるし、饒舌な人だっていつでも上手く表現出来るとは限らない。

話すことに何の不自由も無くても、言いたいことがきちんと言えず不器用なのが人間。

自分に伝えたいことがあるように、相手にもあることを

それを本当に出させてあげているのか、発した言葉の後ろに隠れているものは違うものじゃないか

そんな風に相手を慮って話せたら。







彼が気づかせてくれたは人のことをもっと思う優しさ。

考えさせてくれたのは話すことの深さ。

そして心を開いて素直に言うことは傷つくこともあるけれど、少なくとも相手の心は傷つけない。

意地やプライドで心にも無いことを言って、本心でもないことが誰かの心にずっと残ったり

その人の傷になったりしたら悲しい。

沢山の言葉を知っていて、それを使えるのに何て勿体ないこと。

彼もきっとそう言う気がする。



とうとうこんなもんまで

2008-12-08 | 日々小波乱(日記)


お花って和むな~ でも家はにゃんずがいるから無縁の代物…







仕事は違うけど、毎日顔を合わせていた女性が定年退職することになった。

とにかく冗談好きで、自分もよく笑うけどそれ以上に人を笑わせるのが大好きな彼女は

陽気なアメリカ人の中でも飛び抜けて明るい方で皆から好かれていた。

考えれば自分の親に近いような年齢なのに、そんなことを少しも感じさせない、思い出させない。

誰もが近寄り易い空気を自然に作れる、素敵な年のとり方をしていると思える人。

そんな笑顔の絶えない彼女が笑えなくなった時期があった。







三年前のクリスマスの直前、彼女のご主人が事故に遭い亡くなられた。

帰宅途中に対向車に突っ込まれた。

彼女のご主人に全く非はなかった。

相手は飲酒運転をしていた20歳そこそこの青年。

彼は殆ど無傷だった。

丁度その頃帰国していた私はそのことを知る由もなく、年が明けて出勤してみれば

体はそこに在るのに、その存在を感じられない、空っぽの見たこともない彼女がいた。

私は何の言葉もかけられなかった。

一緒に泣いて抱き締め合うしか出来なかった。

愛する者を失う痛みがどれほどのものか

知っているからこそ。

ましてこんな理不尽な形で愛する人を奪われた彼女に、相応しい言葉は一つも浮かばなかった。







ご主人が大好きで、本当にいい人なの、と自慢していた彼女。

そんな風に言う彼女は、60近くの人生の大先輩なのに、とても可愛くて微笑ましかった。

いつか会わせるね、とよく言っていた。

私も彼女にそこまで言わせるご主人に会ってみたかった。







どんなに悲しいことがあったって、生きている者の前には現実がある。

仕事をしながらの合間、事故の裁判の為に彼女は何度も裁判所に足を運ばねばならなかった。

どんな想いで毎回……早く終わって欲しいと願うばかりだった。







その後彼女は笑顔を取り戻したけれど、

いつもこの時期になると思い出さずにはいられない。

人には見せない、見えない、彼女が一人で乗り越えたもの、

そして今も乗り越えていないかも知れない痛みを想像してしまう。







彼女が辞める最後の週の盛り上がりは凄かった。

学校側が校内のあちらこちらに彼女の写真を貼り、そこに面白いコメントを付けている。

ランチタイムに校長を始め、教師たちが彼女を囲んで歌とダンス。

見ている生徒が更に盛り上げる (こんな時のアメリカって大好きだ)

いつもは人を笑わせたりびっくりさせる側の彼女だけど、

思わぬサプライズと多勢に無勢、流石に対抗できず(笑)

私もホントびっくりした。

だってまさか学校側がこんなことをするなんて。

アメリカだから、ってのは勿論あるだろうけど、彼女だから、ここまでしてくれたと思った。

こういう時に人って分かるって改めて感じる。

これは彼女がして来たことの表れ、彼女自身が築いたものなんだよね。







最後の出勤の日、手作りのフラワーバスケットを彼女に贈った。

皆でお金を出し合って小さなパーティはしたのだけど、個人的にどうしても何かしたくて。

でも彼女の欲しそうなものが分からない。

色々考えた末これにした。

花を嫌いな女性はまずいないだろうし、形に残らないものの方が逆に残ることもあると思い (←ちとキザ)

しかし正直日本みたいにセンスの良いものを売っていない。

なのに値段は高い。

色んなとこを見て回ったが、思った通り気に入るのは見つけられず…

ならば自分で作ってしまえー

とやってみたわさ。

まっそれなりに形になってると思いません? (薔薇のお陰か)







で、反応はというと。







後ろ手に隠しながら彼女の名を呼び、

『大したものじゃないけれどこれ』

と目の前に差し出したら凄い表情に。

喜びでもなく驚きでもなく、何だかひきってるような……

と思ったら、みるみるうちに彼女の目が赤くなる。

そして表情は更にわけわかんないものに(笑)

『わ…わたしに?』

『うん、何がいいか分からなくて、気持ちだけだけど』

と手渡した瞬間







号泣。







えっ?!

なんで

なんで

まさか泣くなんて思わず(しかもホントに号泣だってばさ)一瞬私もどうしていいか。

泣きじゃくった声で私にありがとうと言った後に、主よありがとう、とも。

んな大袈裟な。

おまけに側に居たマネージャーまで泣き出している。

『ちょっとちょっと何でそんな泣くのーーー』

と言いながら私も泣いてるじゃんか~(笑)







こんなに感動してもらえるとは思わないし、大したもんでもない恥ずかしくなると言ったら、

『これ以上の素敵なプレゼントはないわ! だってねこみみが選んで、ねこみみが作ってくれた。

これに込められた貴方の気持ちはとても大事なものよ。本当にありがとう』

うーそんなこと言ったら、また泣けてくるじゃないかー







確かにただ突き刺してるだけに見えるかも知れないが、色のバランスとか角度とか何度も変えながら作った。

お花もバスケも何件も回って探した。

下がっているガラスに入ったミニ雪だるまには彼女の名前入り。

決して特別なものではないけれど気持ちだけは込めたつもり。

お疲れさま、いつも笑っていてくれてありがとう。

それが伝わったようで私も凄く嬉しかった。

プレゼントをあげた側なのに、私が何かをもらったような。







にしてもアメリカ来てから【買うもの】、だと思ってたものを一から作るのが増えてるが

(手に入らないものが多い、または高価なんで。主に食品っす)

こんなもんまで、しかもこの私が作るとは思ってもみんかった (やっとタイトルに結びついた)

でもやってみたら楽しいもんだし、こんな良い気持ちにさせてもらったので良し?

けどやっぱりだし取るの面倒~ レトルト欲し~ クッ○ドゥ使いてぇ~

あっずれてる(笑)



困った時の角煮ちゃん

2008-12-01 | 日々小波乱(日記)
相変わらずお腹の調子は良くなく、常時ゴ~ロゴロ、私のお友達はおトイレ状態 (今週もごめんなさい)

しかし先週は Thanks Giving という、アメリカではクリスマスの次くらいに大事なお行事があったのですよ。

何か作って持って参加するのが当然。

毎年悩むとこなんですが







……………





……………………





…………………………





うーん

何も浮かばん。

食べ物を口にするのが恐怖な時に、メニュー考えるのは流石に無理が。

そんな時に職場の上司からも招待が。

『去年持って来てくれたの美味しかった。あれまた作って』

と言われ助かった。

そうだ、アレなら楽チンじゃないか!

しかも去年は身内のには参加してないから、彼らにはお初のメニューだし。

ってことで作った超手抜き料理は

【豚の角煮&今年は煮玉子付き~】

(時間は掛かるが手間は掛からん)









アメリカ人は半熟苦手な人が多いので1/3くらいにして分けた。

でもこれ色的に旨そうじゃないね…









残ったので角煮丼。

これが旨いのなんのって。

崩れるお肉はそれだけでよだれが。

肉汁の絡んだ白いご飯は危険なくらい箸が進む ← 腹の調子はどうなった?

そして煮玉子!

半熟の黄身に染みこんだ煮汁が、もっ、もっ、もっ、旨すぎ~

自分で言うのもなんですが、売りたいくらい(?)絶品でした。

でも……







アメリカ人にはウケませんでした。

正しくは受け付けてもらえませんでした。

肉は食べるんだけどねぇ

玉子は箸さえ、もといフォークさえ付けてもらえんかった。

やっぱこの茶の色のせいかしら?

食べたら美味しいのになぁ。

気遣ってせっかく半熟と固め分けて作ってやったのに…ちきしょー

まっお陰で煮玉子三昧だからいいもんね♪ ← 三日も続くと辛くなってきた