少年の日々

はじめて考えるときのように

正直しんどい(休憩)

2005年09月29日 | Weblog

岩波文庫の『方法序説』著・デカルトを読んでいると、セブンイレブンを立ち上げた鈴木敏文が言っていることと驚くほど酷似していることに気づく。

「古い基盤の上だけに建設し、若い頃に信じ込まれた諸原理にだけ、それが真か胴かも確かめずに依拠するのではなく、それまで受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ」

このデカルトの言葉は、鈴木敏文がイトーヨーカドーを立て直そうと過去に築き上げてきた総合スーパーのイメージを取り払い、例えば3万円のジーンズを店頭に並べ、ファッションの拠点になるような新しいイトーヨーカドーを創出する姿勢に他ならない。

1637年に書かれた書物の言葉が2005年の今日まで生きていることに驚くと同時に、人間の真理というものは相も変わらず同じところを堂々巡りしていることにうんざりする。

科学は進歩する。それは対象がモノであり、積み重ねによって進化し続けるからだ。
形而上学的なものに触れることは出来ない。形に残すことも出来ない。
言葉に残すことはできても、言葉が言葉であり続ける限り、それは対象の一片を切り取ったに過ぎず、言葉に表した瞬間に「そのもの」は「そのものの一部(あるいは一面)」になってしまう(この辺に件は玄侑宗久の「禅的生活」ちくま新書を参照)。

村上春樹の「東京忌憚集(新潮社)」では、言葉はそれだけでは機能しない。介するものがあって初めて言葉になると言っていたが、それはさておき形而上学が進歩しない理由は、やっぱりよく分からないが、それが個人に帰するからかもしれない。

話がはちゃめちゃになってきました。昔の文章みたいです。
そんな感じで、正直しんどい。




こころの処方箋(4)

2005年09月25日 | Weblog

古本屋の文庫の棚の前に立ち、僕は「ア行」から順に視線を流していく。
静かに、そして貪欲に。

河合隼雄の本が目に留まったのは単純に題名に惹かれたからで、「猫だましい」という新潮文庫の本が気になり本を手に取った。

ユング心理学やら臨床心理学という言葉が筆者紹介欄に並ぶ。
僕は知らない筆者の本を読むとき、とりあえず最後にある作品の解説や紹介欄に目を通して代表作を読むようにしている。

河合隼雄の作品で代表作に挙げられていたのが題字の「こころの処方箋」で、まずはそれから読もうと思い棚を探すと予想どおり並んでいた。

こころの処方箋(3)

2005年09月21日 | Weblog

現在の僕が妄想に支配されていないということは無いのだけれど、
妄想を支配するという意識を持つことが出来た点で21歳の僕とは異なる。

思考する際に対称的な要素を取り入れるというのは大事だけれど、もちろんそれだけではない。
「意識する」か「意識しない」かというのが重要で、僕たちの思考や行動はそこかた一気に啓ける。

スポーツの練習においても、自分が動かしている筋肉を意識してトレーニングするのと、ただやらされるままに腕を動かすのでは効果が異なる。
(さらにスポーツは同じ行為を繰り返すことで≪型≫が自分の中に造り上げられ、その≪型≫をベースに応用していくことで啓けるというのが斉藤孝の論理であるがそれはさておき)

その“啓ける”という感覚を意識することができるようになったは、河合隼雄『こころの処方箋』と出会ってからだ。。

こころの処方箋(2)

2005年09月19日 | Weblog
僕が“こころ”に対して意識を向け始めたのは、現実があまりにも思い通りに行かないと痛感した時である。

誰しもそうだと思うけれど、小さい頃から僕は「自分」であったり、自分を取り巻く「世界」に対して妄想を働かせ、その妄想が楽しければ楽しいほど現実を憂鬱に思い、そこから逃げようとしていた。

幼稚園児くらいまでは、空を飛ぶことはちょっとしたコツを掴めれば可能だと思っているし、小学生くらいだとムカつく同級生を喧嘩でかなりかっこよくやっつけた。

そのような妄想第一主義的な思考は、僕を結構な年齢まで支配する。
具体的にいうと、21歳まで僕は妄想に支配され、妄想を支配しようとは考えなかった。

その妄想の支配下に置かれていた僕はやはり彼女なんてものはいなかった。
高校生時代から読んでいた山田玲司の「Bバージン」では
“オタク”に対して、現実世界より楽な「趣味(アニメとか生物etc...)」に逃げ込んでいるダメ(?)な奴らということを何度も何度も言っているのだが、
別に周りから“オタク”というレッテルを貼られなくても現実から逃避している奴はいっぱいいる。

僕はそのひとりだったと思う。



こころの処方箋(1)

2005年09月18日 | Weblog

「一切唯心造」

僕らの世界は全て心から造られている。その心を造り出しているものが何なのかは知らないが、僕らは常に心に左右される。

個人の嗜好というものがあって、例えば僕が今、歴史について興味を持っていると、全ての物事が歴史について関連付けられる。
左手においてある村上春樹の新刊を見てはグーテンベルクを思い出さずにはいられないし、その上に無造作に置いてあるipodをみるとアップル社の創設が気になる。
そんな具合だ。

なんにせよ、僕の心が作り出した興味関心は簡単には拭えそうにない。
その心というものは意識的に動かすことが可能なのだろうか?

そんなことを考えている。