オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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それはポンから始まったのだけれども(5) ポストスペースインベーダーの頃

2017年09月03日 21時04分14秒 | ビデオゲーム
1979年の晩夏頃には、スペースインベーダーのブームも沈静化します。しかし、この一大ブームに乗ってビデオゲームに参入するメーカーが増え、第二のスペースインベーダーを狙ったタイトルが続々と世に送り出されるようになっていたこともあって、ビデオゲーム人気は一定の水準を保ち続けます。

当時のビデオゲームメーカーとしては、アイレム シグマ ジャトレ セガ タイトー ナムコ ユニバーサル レジャック(後のコナミ) 新日本企画(後のSNK) 電気音響 日本物産 任天堂レジャーシステム 豊栄産業(後のバンプレスト)などが記憶に残っています。この他にも、表には名前が出ない、もしくは目立たぬまますぐに消えて行ったメーカーも少なからずあります。また、アタリ(ATARI)をはじめ、グレムリン(Gremlin)やエキシディ(Exidy)といった米国メーカーの製品もまだ多く残っていました。

ワタシはインベーダーブームがそろそろ終焉を迎える頃、TVで「ポストインベーダーを探る」という趣旨の報道を見ました。マスコミがゲーム業界の動向を取り上げた例は過去にもなかったわけではありませんが、今ほど社会に認知されていなかったゲーム業界がこれほど注目されるということはやはりまれなことです。

その報道では、ポストインベーダー候補の一つとして、「与作」(新日本企画・1979)(フライヤーはこちら)というビデオゲームを紹介していました。

この当時、日本国内では北島三郎さんが歌う「与作」という歌が大ヒットしており、これにかこつけた企画であったことは間違いないでしょう。そして時期をほぼ同じくして、「与作とドン平(ウィング・1989)」(フライヤーはこちら)や、「与作とゴン平(ジャトレ・1989)」、「与作吾作(ショウエイ・1989?)」など、たいへん紛らわしいタイトルのゲームもありました。

当時のワタシは、繁華街に行けばゲームセンターを虱潰しにハシゴするくらいゲームに耽溺していましたが、しかし、これら「与作」を名乗るゲームが設置されていないロケも珍しくなく、実際、遊んでも面白いわけでもありませんでした。これを取材したTV局(確かNHKだったように思いますが不確実)は、ゲームの良し悪しがわからないまま大ヒット曲のネームバリューに騙されただけだったように思います。

結局のところ、スペースインベーダーに並ぶようなブームは日本では二度と起きませんでしたが、それでも今では想像もつかない規模のヒット作と言ってよいタイトルはいくつか出てきました。

◆「ヘッドオン(Head On)」(Gremlin/SEGA・1979)
後に「ドットイート」と呼ばれるジャンルの嚆矢となる「ヘッドオン」は、米国グレムリン社が開発し、日本ではセガが扱っていたゲームです。「パドル&ボール」でもなく「シューティング」でもない、新たなゲーム性を持ったヘッドオンは多くのプレイヤーが熱中しましたが、ワタシは滅法ヘタだったので、もっぱら上手な人のプレイを後ろから見て満足していました。

 
元祖のフライヤーを持っていないので、これは続編のHEAD-ON PARTⅡのフライヤー。

◆「ギャラクシアン(Galaxian)」(namco・1979)(フライヤーはこちら
namcoはこれ以前に「ジー・ビー(GEE BEE・1978)」(フライヤーはこちら)、「ボムビー(BOMB BEE・1979)」(フライヤーはこちら)というパドル&ボールゲームを作っており、ギャラクシアンは同社が開発した三作目のビデオゲームであるにもかかわらず、初めて100%RGBカラーのオブジェクト(ビデオゲーム用語で、画面上を自在に移動させることができる表示物、またはそれを実現する技術のこと。パソコン用語の「スプライト」は同義語)を採り入れ、それによって実現した滑らかな動きを見せる美麗なカラー画像はnamcoの技術力の高さを見せつけるものでした。一つのロケーションに何台も設置されるほど大ヒットし、ポストインベーダーの最右翼と目されたこともあったように思いますが、社会に与えた影響と言う点では、スペースインベーダーに肩を並べたとまで言えるものではありませんでした。

◆「平安京エイリアン」(電気音響・1979)(フライヤーはこちら
東京大学の学生が開発したとして注目されましたが、そのような話題性だけでなく、碁盤の目に区切られた区画を行き来するエイリアンを、プレイヤーである「検非違使」が落とし穴を掘って捕え、そのまま生き埋めにすることで駆除するという戦略に重点が置かれたゲームは、従来の反射神経を要するビデオゲームとは異なり、非常に斬新で、大ヒットしました。「平安京」と「検非違使」という歴史的な概念を、このゲームで認識したという中高生も多かったのではないでしょうか。

メーカーである電気音響社は、ワタシが知る限り、これ以外のビデオゲームを発表していません。数年後には大手電子部品メーカーである「村田製作所」の傘下に収まり、そのまま吸収合併されました。生涯成績が1打席1打数1安打4打点(満塁ホームラン)で引退してしまった野球選手に例えたいメーカーです。

◆「パックマン(PAC-MAN)」(namco・1980)(フライヤーはこちら
スペースインベーダー以降現在に至るまでのビデオゲーム中、最大のヒット作は何かと言えば、ワタシはパックマンだと思います。日本でのヒットの度合いとしてはヘッドオンと同等か少し上回る程度でしたが、米国では「80年代のミッキーマウス」とまで形容されるほどの大ヒットとなりました。今も多くの人の記憶に強く残っているタイトルで、デビューから37年を経たつい先ごろには、カジノ向けのスロットマシンのテーマにも採用されました(実は10年くらい前にも一度、スロットマシンのテーマに採用されかけましたが、ネバダ州の当局が「子供が興味を持つキャラクターをテーマとするギャンブル機は認可しない」として、その時はお蔵入りとなりました。同じ時期に、米国のアニメ「サウスパーク」をテーマとしたスロットマシンも同様に認可されなかったことがあります。


アインスワース社の「PAC-MAN(2017)」。キャラクターだけでなく、サウンドも当時の効果音が随所に使われている。

なお、パックマンの英文表記は、当初は「PUCK MAN」でしたが、「P」を「F」に書き換えるというイタズラが発生したため、「PAC-MAN」に変更されたといういきさつがあります。

namcoはこの後も、ラリーX(RALLY X・1980)、ギャラガ(GALAGA・1981)、マッピー(MAPPY・1981)、ディグダグ(DIG DUG・1982)、ゼビウス(XEVIOUS・1983)、リブルラブル(Libble Rabble・1983)、ドルアーガの塔(The Tower of DRUAGA・1984)、ドラゴンバスター(DRAGON BUSTER・1985)など、独創的で完成度の高いビデオゲームを立て続けに世に送り出しました。そしてナムコはまた、当時はまだ添え物扱いだったゲーム中のサウンドさえも丁寧に作り込んで、現在に続く「ゲームミュージック」というジャンルの先駆けとなった点も注目しておくべきです。YMOの細野一臣氏がこれに注目し、史上初のゲームミュージックを収録したレコード(当時はまだCDは出始めたばかりで、普及していなかった)が発売されたのは1984年の事でした。

1980年代は、ゲーム製作者が面白いと思うあらゆる発想がビデオゲームになり得た時代であったように思います。その結果、当然ハズレも多かったことでしょうが、長く人の記憶に残る、良い意味で「異形」のゲームも数多く開発されました。

現在は、ゲームの原案を考えるにもマーケティングなどと言うものを気にしなければならず、さらに現在は、通信対戦やトレーディングカード、あるいはパソコンやモバイルデバイスとの連携など新たな要素が必須となっており、昔とは異なる遊びに進化しています。

変わったのはプレイヤーも同様で、90年代以降あれだけ隆盛を誇った対戦格闘ゲームでさえ、今はほとんど顧みられることもありません。しかし、メーカーがどんなに頑張っても、二度と80年代のような状況に戻ることはないでしょう。そしてそれが時代の流れというものであることも理解しますが、古いおやじゲーマーとしては寂しさを禁じ得ません。どこか、ラスベガスにある「Pinball Hall of Fame」みたいな、オールドファンの聖地となるような場所を作ってくれないかなあ。

(このシリーズ終わり)