オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

パンチボードで痛恨の記憶

2022年08月14日 16時04分02秒 | シリーズ絶滅種

かつて、「パンチボード(Punch Board)」というインスタント宝くじの一種がありました。後に世界最大の娯楽機メーカーとなる米国Bally社がまだ「ライオン・マニュファクチュリング(Lion manufacturing)」を名乗っていた時の主力商品ですから、昔の話です。

パンチボードの一例。これはラスベガスの「Spinettis Gaming Supplies」で購入したもの。売値の35ドル(右上の値段表示)は案外高いと思うがこんなものなのか。


パンチボードの起源はよくわかりませんが、英語版のウィキペディアによると、ギャンブリングを目的に18世紀に始まり、19世紀に最終形ができているようです。そして、過去記事「リズムボーイズ ―― スロットマシンの必勝法の話」にも登場したギャンブルゲーム研究家のジョン・スカーニーによる推定として、1910年から1915年の間に3000万枚、人気の頂点となった1939年にはその1年だけで5000万枚のパンチボードが販売されたとあり、結構な人気があったことが窺われます。

これはちょっと変わりダネの例で、スロットマシンとパンチボードを合体させた「MIDGET PUNCH BOARD(1926)」。3個のダイスの出目により、金券を受け取るか、または1回5セントのパンチボードが2回~20回引けた。これを作ったのは、現代スロットマシンの嚆矢「リバティベル」を開発したチャールズ・フェイ。

パンチボードには、穴が100個程度の小さなものから数千個の大型のものまで様々あります。

2005年秋のシカゴランドショウで販売されていた様々なパンチボード(関連記事:歴史の語り部を追った話(2):シカゴランドショウ(Chicagoland Show))。

穴の一つ一つには巻紙(スリップ=Slip)が1枚封入されています。これを専用のピンで押し出し、そこに書かれている内容によって当たりハズレが決まります。1回の料金は5セントから1ドルまで、ボードによってさまざまな種類がありました。

穴の部分。このボードでは、青、赤、黄、緑の4つの区画に分けられている。

穴の部分の拡大図。表面はアルミ箔のようなもので覆われている。

ある程度の規模のパンチボードには、より大きな当たりが隠されているSEAL(封印された穴)が設けられているものも多くありました。通常は、特定の当たりを引くとこのSEALの1カ所を破る権利を得るのですが、ボード上で仕切られている区画ごとの最後の1個をパンチすることで、やはりSEALの一カ所を破ることができるというルールを設けて売れ残りを防ぐ手法も多用されました。

SEALの部分。このボードでは、最低1ドルから最大10ドルが当たると謳っている。

ワタシの手元にあるボードの場合、64ドルのINに対して、平均で33.16ドルのOUTとなっており、ペイアウト率は51.8%とかなり低いですが、この種のゲームのペイアウト率はだいたいこんなものだったようです。これには、SEALによる払い出しが平均を大きく超えるような場合のマージンも含まれていたのではないかと思われます。

パンチボードに添付されていた計算書。完売すると64ドルのINに対して、通常の当たりの合計で平均26.44ドル、区画ごとのラストパンチで得られるSEALでの払い出し平均6.72ドルを合計して33.16ドルのOUTとなる。

類似の簡易宝くじであるブレークオープン(Break Open)とかプルタブ(Pull Tab)などと呼ばれるチケットゲームは、地域によって今も盛んに行われているようですが、パンチボードはもう作られていないようです。

現在も続くブレークオープンメーカーの一つ、Bingo King社のウェブサイトより、ブレークオープンチケットの例。

1990年ころ、渋谷の東急ハンズでこのパンチボードがひっそりと売られていたことがありました。おそらくはデッドストックを持つ納入業者がいたと思われ、上述のシカゴランドで見たようなオールドファッションドなボードが大小どれでも一つ1500円だったか2000円だったかの均一価格でした。ワタシはそこから面白そうなものをいくつか買って勤め先のイベントでくじ引きごっこに使ったところ好評だったので、その後も継続して買っていたら、どうもブーム到来と勘違いされたようで、売り場に販促ポップが付くようになってしまいました。でも買っていたのはたぶんワタシ一人だけだったと思います。

やがてめぼしいボードは全部買い尽くしてしまい、動きがパタリと止まった後、いつしか店頭から消えていきました。ワタシが買ったボードの中には、Ballyの前身のライオン社の製品も含まれていたのですが、使用済みでもあり重くかさばるため廃棄してしまったのは、今思えば全く痛恨の極みです。


「FARO」に関する備忘録

2020年08月16日 15時26分53秒 | シリーズ絶滅種
今回は「FARO」の歴史や遊び方などを、忘れないように残しておこうと思います。

と言っても、ワタシが「国産初のメダルゲーム機」と認定する、セガの「FARO」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)のことではありません。米国の西部開拓時代に大流行したカードゲームの「FARO」のことです。


1910年のネバダ州リノにおけるFAROの様子。たくさんのチップがベットされ、周囲には見物人が群がっており、当時のFAROの人気のほどが窺える。

「FARO」は、今でこそ忘れられたゲームですが、19世紀半ばから20世紀半ばまでは、米国の西部で最も人気のあるギャンブルゲームのひとつでした。ネバダ州バージニアシティにある「Delta Saloon」というレストランでは、往時にすべての財産を失って自殺した者を3人まで出したという逸話が残るFAROテーブルを「Suicide Table (自殺テーブル)」と呼んで展示しており、(関連記事:ネバダ・ギャンブリング・ミュージアム(ネバダ州バージニアシティ)の思い出)観光名物の一つとなっています。






ネバダ州バージニアシティの「Delta Saloon」に展示されている自殺テーブル(上)、それに見入る観光客たち(中)、および「Delta Saloon」の外観(下)。Delta Saloonは、数年前まではバーリーの60~70年代のスロットマシンを稼働させるカジノエリアもあったが、現在はただのレストランとなっており、マシンは展示品の一つとなっている(関連記事:新・ラスベガス半生中継 2017年GW カーソンシティ2日目の記録)。

■名前の由来

ゲーム名「FARO」は「PHARO」と記述されることもあり、「エジプトの王を意味する「ファラオ(Pharaoh)」から転訛したものと言われています。調べると、「古いフランスのカードに、ハートのキングとしてエジプトの王が描かれていたものがあったことに由来する」としている資料が複数見つかります。しかし、この説に対して、「ハートのキングがこのゲームで特に意味を持つと言うわけでもなく、また、たくさんの古いカードを調べたが、その説を裏付けるようなデザインのカードを見た例がない」と、疑問を呈している人もいます。

また、このゲームには「Bucking the Tiger」との異名(これは「虎に立ち向かう」とでも訳せばよいのでしょうか?)があり、その由来については、

・初期のカードの裏に虎の絵が描かれていた
・このゲームの道具を輸送する箱に、虎の絵が描かれていた
・このゲームが行われている場所では、それを示すために、外壁に虎の絵が描かれた看板を掲げていた
・多くの賭博場で、ファロのテーブルの上に虎の油絵が掲げられていた

など諸説ありますが、確定はしていないようです。ある人は、「証拠は無いが」と前置きした上で、「19世紀中頃は、虎はファロゲームを司る神と考えられており、『虎に立ち向かう』とか『虎の尻尾をひねる(Twisting the tiger’s tail)』という言葉は、ファロで遊ぶことを婉曲的に言ったものだと思われる。実際、ファロが代表的なゲームであった頃は、賭博場がたくさんあるような通りや地域は、しばしば『虎の小路(tiger alley)』とか『虎の町(tiger town)』と言われていた」と言っています。


1860年代のバージニアシティにおけるFAROテーブル。確かに背後の壁に虎の絵が掲げられている。

■ファロの歴史

英国のパブで人気があった「バセット(Basset)」と言うゲームがフランスに渡り、1691年に時の王ルイ14世がこれを違法としたのを受けて、ジョン・ロウ(John Law 1671-1729)というスコットランド人エコノミストが、法に抵触しないように改造したゲームが原型とされています。

ある評伝によれば、ロウはギャンブル依存症を疑いたくなるようなばくち打ちです。フランスにいた時には、ルイ14世の甥であるオルレアン家当主のフィリップ二世(後のルイジアナ州ニューオーリーンズの名の由来となる人物)を巻き込んで、ギャンブルでたいへんな借金を作ってしまい、ルイ14世によってフランスから追い出されてしまいます。王にしてみれば、自分が禁止したバセットを改造して合法にしてしまったロウに対して面白くない感情もあったのかもしれません。

ロウが考案したゲームの米国への伝来は、1717年ごろ、北米大陸の、後にルイジアナ州ニューオーリーンズとなる地域に、当のジョン・ロウによってもたらされたとされているようです。1803年、その土地が米国によって1500万ドルで買い取られたのを境に、ロウのゲームはミシシッピ流域をリバーボートに乗って急速に普及します。シャープスと呼ばれるプロギャンブラーたちはこのゲームを大いに支持し、「ギャンブラーのゲーム(Game of the Gambler)」と称されました。ファロが行われている風景は、当時の絵や写真にも多く残されており、いかに盛んであったかが伺われます。

しかし、ハウスエッジが小さいゲームであったため胴元に嫌われ、近代から現代へと時代が移るに連れて次第に稼動が減って行きます。また、胴元が少ない利益をカバーしようと不正を行うようになったため急速に客離れが起きたと記述している資料もあります。そんなこんなで、最も高い人気を誇っていたはずのゲームは、1950年代にはネバダ州全体でも僅かに5台のテーブルが稼動しているのみにまで衰退しました。1985年には、リノのラマダというカジノに唯一残っていたテーブルが撤去され、かくしてFAROは絶滅しました。

■FAROの道具

・レイアウト(layout):レイアウトには、AからKまでのカードが、7を折り返し点とする二列の配置で描かれています。描かれるカードのスーツは多くの場合スペードですが、スーツはゲームの勝敗には関係しません。


FAROテーブルのレイアウト。多くの場合、スペードのカードが描かれるが、スーツ自体には意味はない。ラスベガス近郊のヘンダーソン博物館の展示より。

・ディーリングボックス(dealing box):ゲームに使用するカードを入れる箱です。上面には、カードより一回り小さいくらいの大きさの窓が開いており、パックの一番上のカードが何であるかが見えるようになっています。ディーリングボックスの中にはばねが仕込まれていて、セットされたカードは常に窓に押し付けられる形で保持されています。窓の上から見えている一番上のカードを指で横方向にずらすと、そのカードだけがボックスの外に出てきて、次のカードがボックスの最上部に現れます。


ディーリングボックス。バージニアシティのネバダギャンブリングミュージアム(現存せず)の展示より。

・ケースキーパー(casekeeper):ゲームに使用されたカードを記録しておくそろばんです。これによって、ディーリングボックスの中にどのカードが何枚残っているかが一目でわかります。レイアウト同様、ここでもカードの象徴としてスペードのカードが描かれていることが多いですが、ワタシはハートのカードが描かれているケースキーパーを見たこともあります。


ケースキーパー。バージニアシティのDelta Saloonに展示されている「自殺テーブル」より。

・チップ(chip):レイアウトの上に現金の代わりに置いて賭けを行います。
・カパー(copper):チップよりも少し径が小さい6角形のコマで、これをチップの上に置くと、そのカードが負けカードとなることを予想することを意味します。


チップとその上に置かれたカパー。

■基本的な遊び方

・52枚のカードをよくシャッフルし、表面を上にしてディーリングボックスにセットします。

・最初の1ゲームでは、一番上の既に見えているカードは「ソーダ(Soda)」と言って、ゲームには使用しません。ソーダを捨てて次に出てきたカードが1ゲームめの「負け」カードとなります。

・負けカードを抜き取り、次に出てきたカードが「勝ち」カードとなります。これで1ゲームが終了です。この後、「コーリング・ザ・ターン」(後述)までゲームを続けます。

★賭け方

・勝ちカードへの賭け(図の(1))
 レイアウト上の、勝ちカードと予想されるランクの絵の上にチップを置きます。

・負けカードへの賭け(図の(2))
 レイアウト上の、負けカードと予想されるランクの絵の上にチップを置き、その上に更にカパーを置きます。

・スプリット賭け(図の(3)~(6))
 レイアウト上の複数のカードの絵の間にチップを置くと、それらのランクすべてに賭けたことを意味します。形としては、左右2枚の中間、上下2枚の中間、上下左右4枚の中間、6-7-8の3枚の中間があります。チップ上にカパーを置けば、指定するカードのいずれかが負けカードになることを予想することを示します。

・コーナーベット(図の(7)~(8))
 スプリットベットの変形で、レイアウト上のカードの絵の角にチップを置く方法です。レイアウトの外側の角にチップを置くと、そのカードと、一枚飛ばした次のカードの2枚に賭けたことを表し、レイアウトの内側の角にチップを置くと、そのカードと、その斜め上(または下)のカードの2枚に賭けたことを表します。チップ上にカパーを置けば、指定するカードのいずれかが負けカードになることを予想することを示します。

・ハイカード賭け(図の(9))
 勝ちカードが負けカードよりも高いランクであることを予想する賭けです。レイアウト上の「HIGH CARD」の部分にチップを置きます。また、このチップの上にカパーを置くと、負けカードの方が高いランクであることを予想していることを意味します。なお、ファロにおいては、エース(A)は最も低いランクとして扱われます。


FAROの賭け方の図。

・予想が的中すると、賭け金の1倍の配当を得ます。

・勝ちカードと予想したランクが負けカードになるか、または逆に負けカードと予想したランクが勝ちカードになると、賭け金を失います。

・勝ちカードと負けカード両方に同じランクのカードが現れた場合は、そのランクに賭けられている賭け金の半額が胴元の取り分として徴収されます。

・賭けたランクが勝ちカードでも負けカードでもない場合は勝負無しとなります。その場合は、チップをそのままにして次のゲームに引き続き賭けても良いですし、チップを引き上げて改めて別の場所に賭け直しても構いません。

・コーリング・ザ・ターン(例外的な賭け)
 52枚のカードをディーリングボックスにセットすると、一番上のカードは最初から見えているのでゲームには使用しないため、51枚のカードでゲームを続けて行くことになります。1ゲームごとに2枚ずつ使用して行くと、ディーリングボックスの中には最終的に3枚のカードが残ります。コーリング・ザ・ターンは、この残りの3枚の出現順を予想する賭けです。通常は、的中すると4倍の配当が支払われますが、残り3枚の中に同じランクが2枚入っている場合は、配当は2倍になります。3枚とも同じランクの場合は、この賭けは行われません。

■トリビア

・「OK牧場の決闘」で有名な「ワイアット・アープ」は、バージニアシティでファロテーブルのオーナーだったことがある。

・そのアープの活躍を描いた1993年製作の米映画「トゥームストーン」(主演:カート・ラッセル、ヴァル・キルマー 監督:ジョージ・P・コスマトス)に、このファロが登場する。しかし、ファロに関する描写には誤りが多く、なかでもレイアウトのデザインがでたらめで、「一体製作者たちは何を考えているのか」と憤っている人もいる。

・日本のゲーム機メーカーのセガ社は、1974年の「ファロ(FARO)」に続き、その2年後に「プント・バンコ(PUNTO BANCO=カードゲームのバカラのバリエーション)」という、8人用のメダルゲーム機を発売しているが、これも本来のプント・バンコとは何の関連性も無い、ルーレットをモチーフとしたゲームだった。当時のセガ社に、いったい何があったのだろうか。

シリーズ絶滅種:アレンジボールを記憶に留めておこう

2018年01月28日 18時00分21秒 | シリーズ絶滅種
1970年代、風俗第七号営業(現・第四号営業=つまりパチンコ・パチスロ店)で稼働する遊技機に、「アレンジボール」と呼ばれるゲームがありました。これがいつごろから始まったものか、ワタシは詳しくを知りませんが、少なくとも1973年には既に存在していたようです。その多くはパチンコ店に併設されましたが、1970年代の中頃には専門店ができる程度にはポピュラーになっていました。


写真1:業界誌「アミューズメント産業」1973年1月号に掲載されたアレンジボールの広告。筐体には「BingoLet」の文字が見えるが、宣伝文の中では「アレンジボール」と謳っている。なお、広告主の「株式会社さとみ」はその後「サミー」となり、更にその後セガを吸収して現在は「セガサミー」となっている。


写真2:写真1の改良版と思しき機種のフライヤー。いつごろのものかは不明だが、周辺の状況から、1973~1975年の間だと推測される。

アレンジボールは、オリンピア(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)同様、メダルを使用するゲームでした。メダルの貸出料金は、当初は100円で2枚でしたが、1980年前後頃に200円で3枚に値上げされました。筐体にこのメダルを投入すると、16発のパチンコ玉が打てるようになります。この玉は機械に封入されており、取り出すことはできません。


写真3:アレンジボールで使用されたメダル。メダルゲームの25Φメダルよりもやや大きく、厚い。

ゲームの内容は、1番~16番までの数字による4×4のビンゴゲームです。打ち出した玉が入ったポケットの番号が盤面上部中央のビンゴカード上に点灯し、縦または横1列が点灯するか、または中央の4個が点灯すれば得点を獲得します。ゲーム終了後は精算ボタンを押すことで得点分のメダルが払い出されます。

得点は、縦1列が1点、横1列が2点、中央の4つ(JP)が3点と設定されていました。もし、全ての数字を点灯させることができれば合計得点は15点となりますが、法律による制約で、何点獲得しようとも、1回のゲームの最高払い出しメダル数は5枚までとされていました。

アレンジボールは、ビンゴゲームだけでもゲームとして成立しますが、当初には、盤面中央の穴に入ると7番が点灯するとともにメダルが1枚払い出されるというフィーチャーがあり、プレイヤーにとってはかなり嬉しいオマケでした。しかしこれはそれほどしばしば起きることではありません。そこで、1975年頃、「Buffalo」という後継機種が登場しました。この機種では、天穴に玉が入ると、得点にかかわらずメダルが得られる役物が動作するものでした。


写真4:セガの総合カタログ1975年版より、アレンジボール「Buffalo」の部分。玉が天穴(1)に入ると、下にあるバッファロー役物(2)の角がゆっくりと上下に一往復する。この役物に玉が1個入ると、それだけで直ちにメダルが1枚払い出される。角が作動し始めると、数字を狙うよりも角を狙って玉を打ち出すという点で、本来のビンゴというゲーム性を壊していたと言えるかもしれない。1ゲームの最後の一発がうっかり天穴に入ると、作動中に次のゲームを始めようと急いでメダルを投入するのだが、それで良い思いができた記憶はあまりない。

「アレンジボール」と呼ばれる遊技機のメーカーにはもうひとつ、「太陽電子」がありました。太陽電子は自社の機械を「チャレンジボール」と称し、リングタイプ(円状に並んだ番号ランプが4つ以上連続すれば勝ち)などビンゴタイプとは異なるバリエーションを精力的に開発していたように思います。ワタシがバイトをしていた時のダイエー碑文谷店のゲームコーナー(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)でも、太陽電子製のチャレンジボールを改造したメダルゲーム機の島がありました。

1978年頃になると、アレンジボールは電動役物を取り入れるなどより進化し、またメダルの値上げに伴い1ゲームの最高払い出しメダル数が10枚と緩和されました。しかし、ライバルであるパチンコに、現在の「セブン機」の走りとなる「フィーバー」が登場することにより下火となりかけたため、1980年代になると、アレンジボールでもスリーセブンが揃うことで一気に打ち止めとなる爆裂(当時としては)機が登場するようになりました。ワタシも、この時代まではしばしばアレンジボールを遊んでいました。

しかし、様々なアイディアとテクノロジーを導入してその寿命を延ばしてきたアレンジボールの人気も、1980年代中ころには衰えてきます。この頃にはサミーとなっていたさとみは撤退し、残る太陽電子は「アレパチ」と呼ばれる別の方向に延びて行こうとしたようですが、ワタシはこの面白さが理解できず、ほとんど遊んでいないため、一時はそこそこ支持されていたようだけど現在はもうないんじゃないかな? という程度の理解しかありません。

伸び得る方向性を全て消費し尽くしてしまったアレンジボールが今後復活することは無いでしょう。そして現在のパチンコも似たような状況に陥りつつあると思うのですが、果たしてパチンコ業界は次の一手を生み出すことができるものでしょうか。

シリーズ絶滅種:「レッドドッグ」をラスベガスで見た記憶

2017年04月08日 13時42分47秒 | シリーズ絶滅種
どんなものにも流行り廃りはあるものです。コインマシン業界やギャンブル業界においても、かつては人気を博したのに今では全く顧みられなくなったものは珍しくありません。今後はそんなゲームを「シリーズ絶滅種」というジャンルにまとめ、少しずつ記録を増やしていこうと思います。その第一回目に取り上げるのは、「レッドドッグ(Red Dog)」というギャンブルゲームです。

確か1993年、ワタシにとって生涯二度目のラスベガス訪問時のことです。この時ワタシは、仕事仲間と共にラスベガス・ヒルトン(現ウェストゲート)に宿泊しました。当時はモノレールもなく、ラスベガス・ヒルトンは繁華街から孤立して聳え立つ巨大ホテルだったので、滞在何日目かの夜、少しは違うところに行こうと仲間たちと語り合い、とりあえず目の前に見えるサハラ(現SLS)まで歩いて移動することにしました。しかし、ラスベガスヒルトンの敷地は広く、宿泊棟から表通りのパラダイス通りに出るだけでも数百メートルは歩かされ、そこからさらにサハラまで1㎞弱、トータルではおそらく20分程度は歩いたと思います。これにより、「ラスベガスでは近くに見えるものも実は遠い」ということを初めて思い知りました。

サハラに到着し、パラダイス通り側にある裏口のようなエントランスからカジノに入ると、そこはすぐスポーツブックのエリアだったように記憶しています。しかし、当時からその壮大さが有名だったラスベガス・ヒルトンのスポーツブックエリアとはまるで違って、さほど広くもないエリアの頭上にいくつかのCRTモニターが設置されているだけで、めっぽうみすぼらしい施設だった記憶が残っています。そのスポーツブックのエリアを抜けた先のカジノエリアに、一見したところブラックジャックテーブルに見えるけれどもレイアウトが全く違う、初めて見るゲームがありました。それが「レッドドッグ」でした。

いったいどうやって遊ぶのだろうとしばらく観察していたら、ルールがわかってきました。

【レッドドッグのゲーム手順】
(1)プレイヤーが賭ける。
(2)ディーラーがシューから2枚のカードを取り出し、表向きにして並べ、
  2枚のカードのランクの間隔(スプレッド)がいくつであるかを示すレイアウト上の数字の上に
  赤い犬の人形を置く。
(3)この段階で、プレイヤーは賭け金を倍にレイズできる。
  ただし、2枚のカードが同じランクの時にはレイズはできない。
(4)ディーラーは3枚目のカードをシューから取り出して表向きに見せる。
  3枚目のカードがスプレッド内に収まるランクであればプレイヤーの勝ち。

例えば初めの2枚が5と9の場合は、3枚目が6 or 7 or 8であれば勝ちとなる(スプレッドは3)。

【レッドドッグのルール】
*カードのランクは、2を最低とし、Aを最高とする。
*2枚のカードのスプレッドがゼロの時(例:4-5、10-J)は引き分けとなり、3枚目は配られない。
*2枚のカードが同じランク(例:7-7)で、3枚目も同じランクの場合(スリー・オブ・ア・カインド)は11倍の配当が付く。スリー・オブ・ア・カインドが成立しない場合は引き分け。
*配当はスプレッドによって異なる。
 スプレッド=1: 5倍
 スプレッド=2: 4倍
 スプレッド=3: 2倍
 スプレッド=4以上: 1倍

このゲームでプレイヤーのテンションが上がるタイミングは、スプレッドが大きい時のレイズと、初めの2枚がペアで負けが無いことが確定し、あとは11倍の高配当を得られるかどうかで期待感が盛り上がる時であるように思いました。ただ、ルールが簡単で手を出しやすいところは良いのですが、全てのプレイヤーが同じ結果になってしまうところが今一つ妙味に欠けるように思いました。また、ひょっとするとカードカウンティングが有効なゲームかもしれないとも思いました。

この頃、レッドドッグは、ラスベガスの他のカジノでも見ることができました。ワタシの手元には、サーカスサーカスの別館のようなカジノ「スロッツ・ア・ファン」と、「インペリアルパレス(現Linq)」で配布されていたレッドドッグのインストラクションがあります。


スロッツ・ア・ファンが配布していたインストラクション。本来は二つ折りで、左は表紙側、右は中側。遊び方のほか、レッドドッグの歴史が紹介されている。


スロッツ・ア・ファンのクーポン。インストラクションにホチキス留めしてあった。このクーポンを添えて1ドルを賭け、勝つと2ドル貰えると書いてあるが、スプレッドが3以下の時はどうなるのだろうか。


インペリアルパレスのインストラクション。これも本来は二つ折りで、左は表紙側、右は中側。「速い勝負、エキサイティングなアクションがあなたを待っている。我々の最新カジノカードゲーム、レッドドッグ!」とある。「最新の」と謳っているところを見ると、レッドドッグはちょうどこの時期に、ラスベガスに新たに導入されようとしていたということだろうか。

スロッツ・ア・ファンのインストラクションによれば、「レッドドッグ」は、西部開拓時代の1920年から30年にかけて「エイシー・デューシー(Acey Deucy)」もしくは「イン・ビトゥイーン(In-Between)」と呼ばれ、西部一帯でたいへん人気があり、またたくさんのバリエーションもあったとのことです。

実は1970年代の半ばころの少年ジャンプ誌に、良く似たゲームをテーマとした漫画(タイトルは覚えておりません)が掲載されており、そこでは「インサート」と呼んでいましたが、これも多くのバリエーションの一つだったのかもしれません。

コインマシンの世界では、sigmaがビデオポーカー筐体の「HRシリーズ」で、「Between Card」というタイトルの、レッドドッグのバリエーションを発売しています。正確な発売時期は特定できませんが、HRシリーズの発売は1987年(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(6) 90年代のビデオポーカーとsigmaの終焉)ですので、それ以降であることはわかります。このゲームでは、3枚目のカードは画面上部からスクロールして現れる5枚の裏向きのカードからプレイヤーが選んで決める、と言うルールでした。また、スプレッドやスリー・オブ・ア・カインド以外にも様々な役が設定され、数百倍の高配当もありました。

また、これも正確な時期が特定できませんが、おそらく1990年代半ば、sigmaは「HRシリーズ」に続く「LOTUS DEAL」筐体でも、「Red Dog Poker」というタイトルを出しています。ゲームの内容は「Between Card」から若干変更され、通常のドローポーカーのように5枚のカードを裏向きに配り、このうち左右両端の2枚を表向きにした後、残った3枚から1枚を選ぶ形になりました。このタイトルは、1台の機械で複数のゲームが選べるマルチゲーム機の中でも見ることができました。


sigmaのレッドドッグポーカー。

しかし、ワタシがラスベガスに毎年行くようになった最初の年である1998年には、ラスベガスにレッドドッグの姿を確認することができませんでした。その後もラスベガスに行くたびにレッドドッグを探し続けましたが、その名前すら見ない状態が何年も続いたため、「レッドドッグ」はワタシ的絶滅種に認定されることとなりました。