もの想う鷲 (A thinking eagle)

自然・環境を科学してみる

5月30日 アインシュタイン博士 と お釈迦様 (その2)

2013-05-30 14:23:08 | 日記
5月30日 アインシュタイン博士 と お釈迦様 (その2)

待望のThomas J. McFarlane編の「アインシュタイン と 釈迦:類似した言説」をAmazon経由で入手しました。(1週間でGloucester(Londonの西方でWalesとの国境に近く、Severn
 River沿い)からAir-mailで到着)

その前書きは印象的なので、それを紹介します。

(ご参考までに:本の価格 1,105円 送料+関税 250円 合計 1,355円--但しPaper back。また価格は都度違います。出品者によるからです。Amazonではいつもそうですが。)

この前書きを書いていられる Mr. Wes Nisker は以下の略歴の持ち主です

アジアと西洋で、各地の指導者について30年間(2002年の時点で)仏教的瞑想をされてきている。仏教雑誌「Inquiring Mind」の創始者で編集者である。瞑想の指導所
(retreats and workshops)で仏教の瞑想と哲学を、世界各地で、教えていられ、California の
Spirit Rock Meditation Center in Woodacre に協力されている。
また、著書に「Buddha's Nature」、「Crazy Wisdom」がある。

本の前書き

「アインシュタイン と 釈迦:類似した言説」は我々に元気を与える本である--人類の知恵を有効にし、文化と知の方法を統一し、人間は現実の本質について、実際に、少なからざるものを理解することができることを暗示している本である。我々がここで手にしえるのは、科学者と宗教的指導者の言説における、我々の理解の外なる限界である。
この本は、2つの明白に異なった知の方法の幸先の良い結合である。概観すれば、世界文化の観点から言えば、地球は大脳の働きから、あたかも2つの半球に分かれているようにみえる。
アジアは右の半球の大脳に割り当てられ、その偉大なる賢者たち(釈迦、ウパニシャッド、荘子、鈴木大拙、ダライラマ、など)は、注意を自己の内面に向け、直覚と受容的静謐を通して真理を追究した。左の半球の大脳を割り当てられたヨーロッパと地中海では、真理の探究は自己の外側に向かい、より攻撃的な理性の力に頼り、世界を分析し分解する過程となった。

アジアの叡智の慣習はより全体的に見る傾向にあったが、西洋は差異を作ることに、より興味を持った。我々の時代になって、現代の交信と旅行が、脳梁(左右の2つの大脳の半球を結ぶファイバー)の役目をして、2つの大脳の半球を結びつけ、自然の法則と深遠な現実構造について、驚くべき一致があることを啓示したのである。この2つの考えを手にした今、我々は全脳的アプローチと呼んでよいものを手にしているのである。この科学者や宗教的指導者たちの言説集を読み終えて、私は、現在の物理学が、神秘主義者達や瞑想家達の洞察を有効化していることを知って特にスリルを覚えた。
反対もまた真実であると言えども、我々西洋の文化は、科学を最高の権威と見なし、個人的啓示に懐疑的になる傾向にある- -特に宇宙がどのように働いているかを描写する段になると。しかしながら、現代科学を精緻に捉えれば、偉大なアジアの宗教的指導者達は、物質、空間ー時間、及び意識の謎の洞察に長けていたように考えられる。
これらの宗教的指導者達は、電波望遠鏡、原子破壊機、あるいは、レーザー写真術を使うこともしないで、心眼だけで観察したということを考えれば、彼等の洞察力はまったく驚くべきであると考えられる。逆に、それらの強力な機械を発明してきたのは、西洋の心眼であったことを思い起こすべきである。一方、西洋では、宗教的認識を、不規則に起こる事柄として、普通 落雷、燃えている木立、または そのような奇妙な出来事を伴う事柄として、長らく考えてきた。しかしながら、最近の10年間で多くの西洋の学者達と真理の探求者達はアジアの研究機関で広範囲の研究をしてきて、この科学とは違った知の方法は、科学と同じように、一つの明白に規定された、厳しい規律を含んでいることを発見した。
矛盾するように聞こえるかも知れないけれども、私達は、神秘的洞察は学習しえる ことを体得しているのである。

多くの西洋の仏教の教師達は、瞑想(脚注参照)の道を、認識可能で予言可能な結果に通じる、非常に特別な方法を使った、「科学的」研究の一形式として、位置づけることまでしたのである。
多くの仏教の学校において、科学者が実験を行う時に持つと思われているのと同じ態度である、「干渉のない、予断のない」、「無心の状態」と描写される心の状態に到達することから、瞑想者は始めるのである。瞑想者は、科学者のように、観察されているものについて、できるだけ客観的になるように努めるのである。瞑想者の場合は、主題は自身の心であるが。さらに、瞑想的実験は、手順に従っていれば、どの新しい瞑想者の場合でも、結果に関して、同じことが期待できるのである。一人の瞑想の指導者として、私はその結果を立証できる。殆どの瞑想者は現実の本質に対して同じような洞察に辿り着くでしょう。

人々は夫々異なった概念的枠組みを持っている。その故に瞑想において、見ているものを表現する方法も異なっていて、彼等の洞察は、屡、現実の描写、言い換えれば 自然の法則を含んでいる。瞑想を通して、人々は、「心」は世界の、共同創造主(co-creator)であることを悟ることができる;出来事の1つの原因であるというよりは、全ての現象は、数学で言う「複雑性理論」で表現されているものに似た、蜘蛛の巣の状態で関連されているのである;各背景は観察者に関連している;エネルギーは「量子」で来る;全てのものは,過程の中にあり、どこにも固形体(変化しない固体)はない。
この本の中で、読者は見られるように、これらの洞察は最近の科学的理論とほぼ一致しているのす。

科学者が考える真実 と 瞑想者 または 宗教的指導者のそれら との間には 多分 重要な差異がある。科学者は外部世界を調査することによって全てのものは常に変化していることを発見したが、瞑想者は彼または彼女自身の心と体の内側に同じ事実を発見するでしょう。このことは洞察を非常に個人的なものにするでしょう。永続性のなさは瞑想者自身の生活に関連している;宇宙の働きについての知識は知恵となる。勿論科学者の真実は個人を変化させる力を持っている、そして このことをよりよく証明したのは、アインシュタインである。しかしそれはアジアの宗教の学校
(Asian wisdom school)においてより頻繁に起こる。そこでは個人的な内面の変化がまず調査の全点である。

科学者と宗教的指導者は、今 対話し、覚書を比較し始めている。だから結果や結論を出すのは、時期尚早である。この本は、彼等の対話の導火線であり、(異種の)心の会合のための基礎を鋭く透視している。我々の時代の最大のチャレンジの1つは、理性と人間の心を、認識と思いやりを、科学と宗教性を、結びつけることである。そしてここに我々は足場を持った。上記の二つを結びつけるのに、科学者と宗教指導者自身の言説を通じることより良い方法があるだろうか?これらの言説が皆様のために役立つことを祈る。

注記:ここで言う「瞑想」とは 坐禅 のことです。

この本は178pageの小さな本ですが Albert Einstein 、Niels Bohr、Erwin Schroedinger、David
Bohm 等の物理学の大家の言説も出てくるので、理科系の方にも読まれることを推奨します。

合掌
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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