柳通り便り

アメリカでの勉強と仕事に関するよしなし事

私のここまでの歩み、日本編

2006-12-28 04:55:55 | Weblog
皆さん、こんにちは。糸井名生(なおまる)と申します。名古屋大学 情報工学科 渡邉研究室を1996年に卒業後、2001年にアメリカ・ミシガン大学で博士号を取得し、それ以降シリコンバレーで働いて、もうすぐ6年になります。

このたび渡邉先生のご厚意により、私の体験を、月に一度書かせていただくことになりました。皆さんがキャリアを考える上で少しでも参考にしていただけたら嬉しいです。皆さんの若々しいエネルギーに触れるのが楽しみなので、質問などがありましたら、どんどん書き込んでください。

今回は第一回でもあり、筆者の背景なしでは、これから書くことも何のことか良くわからないと思いますので、日本での子供時代から渡米するまでを書いてみます。

私は18歳まで、神奈川県の逗子市で育ちました。初めてコンピューターに触ったのは小学生の時。父が、今は潰れてしまったコモドール社のコンピューター、VIC-1001を買って家に持ち帰り、使わせてくれたのです。まだファミコンが出る前のことで、私は、珍しかったコンピューターゲームに夢中になりました。

とは言っても、当時のゲームは、現在とは比べものにならないほど原始的なもので、登場するキャラクターはグラフィックではなく、ASCII文字を組み合わせた物がぴょこぴょこ動くだけ。ゲームはたいていBASICという言語で書かれていて、ソースコードにも簡単にアクセスできます。これを改造し、例えばハイスコアが簡単に出るようにする、というのが、私のプログラミング初体験でした。その後、富士通FM-7やNEC PC-9801を使って、ちょこちょこプログラミングをしましたが、本格的にコンピューターの世界に没入したのは、大学でUNIXに出会ってからです。

大学二年生の時だったと思いますが、計算機演習が始まり、計算機室のコンピューターにアクセスできるようになりました。そこでUNIXワークステーション(機種はSUN4)に初めて触れ、衝撃を受けました。それまで使っていたパソコン上のグラフィカルユーザーインターフェースと比べると、UNIXのインターフェースはコマンドライン中心で、素朴にできている分、OSの中身がよく見えます。

私が一番興味を覚えたのは、UNIXもそのひとつであるOSは、小さなツールの寄せ集めなので、自分の好きなようにカスタマイズや、書き換えもできてしまう、という点でした。その後は毎晩、計算機室にとじこもり、ソフトウェアのインストールや、プログラミングの勉強をするようになりました。もちろん、かなり長い時間を友達とのゲーム(特に好きだったのはボンバーマンとX-Pilotでした)に割いたのも事実ですが。

三年生の時のある晩、いつものように計算機室にいると、渡邉豊英先生が、そこにあったカラーコピー機を使いに入って来られました。そして、夜、一人で作業している私を見て、腰を落ち着け、コンピューター界のあれこれを話してくださいました。そのうち、次世代のオペレーティングシステムを制するのは何か、という話に。「ネットワークに強いOSが勝つだろう」という先生に、私が「じゃあUNIXでは無いんですか」と言うと、「それは分からんけれども、まあ多分アメリカから出て来るだろう」。それを聞いて私は、いつかアメリカでOSの勉強をしてやろう、と思ったのです。

この時の率直なお話や、熱意を持って学生と接しておられる様子などから、私は渡邉先生のファンになっていたので、研究室選択では迷わず渡邉研を選びました。男兄弟を持たずに育った私には、研究室に入って初めて、尊敬する兄がたくさんできたようなものでした。特に、オーストラリアを三ヶ月間旅して来たばかりの成瀬彰さんや、毎晩遅く(しばしば朝まで)、真剣に研究に取り組んでおられた牛尼剛聡さんは、非常にかっこよく見えました。渡邉研での一年半は、机上の勉強だけでなく、人生勉強としても、楽しく、実りあるものでした。

自分では、負荷分散のために、UNIXコマンドを、負荷のかかっていない、性能の高いワークステーションでリモート実行する、という渋い研究をしていました。稚拙な研究でしたが、これに関しては、渡米後、おもしろい体験をしたので、それについては後日書きたいと思います。

名古屋大とミシガン大学の交換留学協定を利用してアメリカに渡ったのは 1996年、M1の夏でした。生まれて初めて飛行機に乗って12時間、遂にソフトウェアの本場(と私が思い込んでいた場所)で勉強ができると思うと、興奮で一睡もできず、ふらふらでデトロイト国際空港に降り立ったのを覚えています。

(来月に続く:ミシガン時代の話を書きます)