どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

康居2(エフタル時代)

2011年06月30日 06時04分30秒 | 海(わた)



康居2(エフタル時代)

晋の泰始中(265~274)、康居王の那鼻(なび、だび)は西晋に遣使を送って良馬を献上した。・・・康居王・那鼻、ナビとは、盧氏ではないか。
太元中(376~396)、康居は、前秦(苻堅治下、380年頃)の都長安に使者を送って朝貢した。
太延3年(437年)、康居は、北魏へ遣使、朝貢した。
北魏の時代、康居は、嚈噠国(エフタル)に属し、者舌国(しゃせつこく、チャーチュカンド:タシケント)と呼ばれた。
また、康居の後継国家として康国(サマルカンド)があり、
康国は、米国,史国,曹国,何国,安国,小安国,那色波国,烏那曷国,穆国を服属させていた。・・・康国が代表となったのでしょう。

エフタルという国
魏書は、エフタルを大月氏と同種もしくは高車の別種とする。・・・84年、康居は、月氏と婚姻したので、大月氏と同族とする。高車は、北匈奴の娘婿の国。このとき、すでに、康居を後継した小月氏康国がトップとなったのではないか。

通典辺防9は、エフタルの習俗は、吐火羅と同じくすると記し、また「元々の出自を車師または高車または大月氏と同種」ともいう。
加えて「エフタル言語は、柔然:蠕蠕(東胡系)、高車(テュルク系遊牧民)及び諸胡(テュルク系、東胡系、チベット系)と異なる」と記している。

榎一雄は、エフタルが話していたのは東イラン語と思われるという。

以下は、末尾記載の図解を先に読み、呑みこんでください。

前130年の十数年前
A史記は、匈奴が烏孫王昆莫の父を殺した。
B漢書は、大月氏が烏孫王昆莫の父を殺した。
この矛盾は、上記の件の北匈奴を介して解けたのではないか。

史記の匈奴は、北匈奴に遡り、大月氏は、もと北匈奴と同族だから、やはり、大月氏が昆莫の父を殺したのでしょう。同族の争いは常のこと、多々見られます。

史記索隠、夏王・桀の妾を妻とした薫粥(くんいく)は、晋書のいう匈奴の始祖で、夏の末裔かつ匈奴の祖考[父]です。匈奴の始祖・淳維の父でした。

Aの史記が、匈奴というのは、祖考をさすから、新唐書は夏后の苗えいと記した。結果、大月氏本家筋に昆莫の父が殺された。
Bの漢書が、大月氏:夏の本家の祖考:薫育をさし、大月氏本家筋に、昆莫の父は、殺された。・・・同じことでした。

その理由
苗裔とは、薫育の子・淳維が匈奴の初代ですが、祖考の薫育を含めたもの[大祖]と定義されていました。
定義。始祖とは、初代、先祖をさす。諸候は、その大祖に及び、天子はその始祖の出ずる所に及ぶと定義されています。

夏末・殷初[前1600年代]以前から、大月氏の分家は、大康の弟5人が甘粛省タリム盆地やモンゴリアの覇者であった。前1600年頃、分家は本家の薫育と合体した。
ゆえ、匈奴は長らく大月氏に従属していたが、匈奴の淳維の後裔:冒頓単于は、前176年、大月氏から独立を勝ち取ったとなります。

そして、漢書の故烏孫民は、塞種で、大月氏と同族でした。

大月氏の同族は、沢山いるのでしょう。月支胡の支姓の人達もしかり。
月支胡は、北匈奴と同族で、夏王の苗裔ではなく後裔の分家です。月支胡の支[枝]が決め手でした。

大月氏は、昭武九姓の小月氏ではなく、区別されていました。
前176年、冒頓単于は、大月氏から独立したのでしょう。冒頓は北匈奴ではないか。
なぜならば、
冒頓は、一日に日を朝昼夕拝む。冒頓の後裔は、北匈奴単于・蒲奴(46~?)で、甫の字が太陽を表すからです。
例示すれば、慶州北道の蒲項(ボハン)を迎日湾というからです。

したがって、北匈奴:西で白。白フンのエフタルが大月氏のあとのギタ―ラ朝を滅ぼして覇者となった。
これで、辻褄が合いますが、執念深い連中でした。

この後は、隋唐代の西突厥が、西域を支配し、大唐帝国のもと、ビザンツ(東ローマ)との東西交流が進み、シルクロード文化の花が咲くのでした。


図解・・これらの件[経過]は、図解しないと間違いやすい。

陶・虞時代・・・・歴山開拓、舜が開拓。盧満は協力者。虞氏は昭武の祖。

前2070年・・・帝ウ夏后氏の即位。中国科学院の推定。

夏后の大康・・・弟5人(分家)は既に遊牧。月支胡で康居王?

前1600頃
夏后のケツ・・・・殷の湯王に追放される。夏王朝の滅亡。
ケツの子薫育・・・妾を妻として遊牧。薫育は夏后の本家。
薫育と妾・・・・(子供は淳維。北匈奴の初代誕生。薫育は匈奴の大祖:
        なおかつ夏后の本家です。)

前176年・・・・・北匈奴の単于・冒頓は、大月氏本家から独立。

成果は、次のとおり。
1、昆莫の父を殺した首謀者は、
史記も漢書も同じ事を表現換えして、どちらも誤認ではなく、読者に注意喚起して、理解できるようにしていました。
2、月氏の構成
ひとつは、昭武の小月氏:先祖の虞舜の出自で、虞氏でした。
他は、大月氏が本家の夏后氏、月支胡が夏后氏の分家筋でした。

ここまでは、整理できたと思いますが、
依然として、大月氏と貴霜族との関係は、未消化で終わりました。
また、康居は、今のところ、推理であって正確かどうか、判りません。

康居1(月氏時代)

2011年06月30日 06時01分34秒 | 歴韓国



上の地図は、間野英二「中央アジアの歴史」
康居は、悦般、烏孫あたりの塞種の地域に居た国です(漢書)
時代は5世紀、柔然が弱体化、突厥が柔然から独立する時代、悦般は、柔然をイヌ[狗]のような穢い奴らと描写し、敵対関係にあった。

下の地図は、三世紀のものでWikiによる。。クシャ-ナ朝のところへエフタル(白フン)が代わって、占める。エフタルは、400頃~567までに相当する。

康居1(月氏時代)

前もって、言っておきます。
康居1、2を連続して入れますが、余ほど頭の中を整理しておかないと、事実誤認をしますので、要注意です。まだ、整理の途上ですが、思い切って、書いています。問題は、大月氏:クシャン[貴霜翕族]を残しますが、はたして、大筋は、適、不適、きわどい話です。
以下は、ウィキぺディアの引用も含みます。

康国は、康居の後裔ではなく、後継です。後継は引き継いだ意味で、後裔ではないので、注意すべきです。

北匈奴の単于・蒲奴(46~?)は、もともとの匈奴で、初代・淳維の後裔です。なおかつ、大祖の薫育:淳維の父を含みます。

後漢3代目から4代目にかけて、匈奴は南北分裂し、南匈奴が独立した。
南匈奴は、単于の「比」が独立し、後漢と和睦した。その後、南匈奴と後漢は、90、91年、北匈奴を攻めて、敗走させ、北匈奴は、行方が分からなくなって、中華圏から、姿を消した。

魏書列伝や北史列伝、
その後の北匈奴は、康居の地に逃れて悦般(えつはん)になった。
悦般の祖先は、北匈奴単于で、永元3年(91年)、後漢の車騎将軍の竇憲に放逐され、金微山を渡り、康居に西走した。その他、体が弱くて遠くに移住できない者は、亀茲の北に住んだ。(後漢書)

悦般国
永元3年(91年)、後漢右校尉の耿夔が北匈奴を征討したため、北匈奴単于が康居まで逃れてきた。のちにこの子孫は、康居の北に悦般国を建てる。・・・上の地図参照。
この頃の康居は、栗弋国、厳国、阿蘭聊国(奄蔡国)を従属させていた。上の地図のハザール(カザール)あたりの国々。
康居は、ソグド、厳国、奄蔡(もとアルメニア、グルジアからアラル海の北草原にでたアラン人の国:コーカサス地方)を従えていた。・・・下の地図参照のこと。

建初9年(84年)、後漢の班超は、疏勒国,于窴国の兵を発し、莎車国を攻撃した。莎車国[ヤルカンド]は、陰で疏勒王・忠と密通しており、忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超は、その府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、忠を攻撃した。これに対し康居が精兵を派遣して疎勒を救ったので、班超は降せなかった。
この時、月氏(クシャーナ朝)は、新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品を月氏王に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、疎勒烏即城は、遂に班超に降った。
悦般国の風俗・言語は、高車と同じ(古テュルク語)で、そこの人々は胡人のなかでも清潔である。髪を眉のところで切りそろえ、醍醐(だいご:ヨーグルトの類)を塗って光沢を出し、一日に三回洗い、然る後に飲食する。

高車の始祖:北匈奴の娘婿国
昔、匈奴の単于に2人の美しい娘がいた。単于は娘たちを天に与えようとして高い台を築き、その上に2人を置いて天が迎えに来るのを待ったが、迎えは来なかった。4年たつと、1匹の老いた狼がやって来て台の下に穴を掘り、居着いてしまった。妹はこの狼こそが天の迎えだと判断し、姉が反対するのを振り切って台をおり、狼の妻となった。その間に生まれた子供が高車の祖先だと。(魏書列伝・高車条。)・・・ウィキは周代の赤狄:狄歴に遡るとする。

七海注記
上記の月氏にカッコ書されたクシャ-ナ朝は、クシャン[貴霜翕族]です。
ここで、初めて、クシャンは、康居と婚姻した。康居は、前130年、おそらく月支胡であって、夏后の分家でしょう。その後、夏后本家を迎え入れ、康居が栗弋国(ソグド州の一部)、厳国、阿蘭聊国(奄蔡国)を従えていた。
なおかつ康居は、夏后の分家筋、昭武の康、北匈奴:悦般、高車:匈奴の娘婿国、を含む多部族国家とみられる。
康居の後継の小月氏・康は、昭武姓(虞氏)だから、クシャンと親族になったというのでしょう。
続きは、連続して入れます。

重と黎

2011年06月21日 17時57分00秒 | 海(わた)


岸本道夫「古代オリエント」
エジプトの神話の天地創造神:大英博物館蔵。

重と黎

きょうは、一休みです。

山海経には、重が天を支え、黎(レィ)が大地を押さえる説話がありました。
重・黎は、顓頊(せんぎょく)の孫です。
高馬三良は、これに似たエジプトの神話があるという。
太気の神シユーが、天の女神ヌトを両手で支え、
大地の神ゲブが、顔を下に向け両手を下方に差しのべている。
(以上は、山海経・大荒西経、高馬三良の解説)

太気圏つまり空気。空気は、高山に上らない限り、日頃、あまり意識しない
存在ですが、湿気の女神テフヌトもいました。
太気と湿気が作用して、大地ゲブと天空ヌトが出来ました。

中央の女神シユーは、中国の盤古という造物神に相当するのでしょう。
それにしても、摩訶不思議な連中が、エジプトにも居たのでしょう。
この神話は、オシリス(女)の復活神話に引き継がれ、オシリスは冥界の王となり、王ファラオが出現します。

10万アクセスの御礼

グ―・ブログ
2009・9・13~2011・6・20。
100,143アクセス(一年と九ヶ月、7日)となる。
同じブログを
アメーバ、ヤフ-、ライブドアで、記載。
御覧いただいた皆さん、ありがとうございました。

扁平頭と長髪

2011年06月19日 05時03分12秒 | 海(わた)



諸橋広漢和辞典、椎(つち)の図
椎は木槌のようなもの。髪形にも椎:槌をつかう。才槌頭という。

扁平頭と長髪

きょうは、二度とお目にかかれない連中の話を出します。

1、後漢書韓伝
韓地は、全体が4000余里四方で、東と西は海、みな古の辰国であった。
(韓のエリアは、現在の韓国のエリアとほぼ同じとみなしてください)

辰韓の古老の言
我々は、秦から逃れて来た亡命者です。秦の苦役を避けて、韓の国へ来ました。馬韓[王都天安市]が東部[北部のこと]の土地を与えてくれました。
辰韓の言語は、国を邦、賊を寇、酒宴を行觴、五穀を乳、互いを呼ぶことを徒(トゥレ)という。言語は、秦の言語に似ている。辰韓をある者は、秦韓ともいう。(中略)風俗は、歌舞や飲食して、鼓瑟(太鼓や琴)を好む。子供が生まれると、赤子の頭を扁平にしようと、誰もが石で頭を押し付ける。

2、大唐西域記
カシュガル地域の佉沙國[ヤルカンド]の風俗
ヤルカンドは、西域北道、西域南道の交差点で、南道への近道です。佉沙國は、莎車(ヤルカンド)です。玄奘は、帰途、パミール南の瓦罕谷(ワハン渓谷)を登って、ヤルカンドへ行きました。
佉沙國の風俗は、生まれた赤子の頭を押さえて扁平にする。容貌は卑しく、文身[いれずみ]をし、碧い眼をしている。

なお、カシュガルは、喀什噶爾、喀什と書くが、大唐西域記の解説地図は、カシュガル表記ですが、実際はその南のヤルカンドです。ここも現在のカシュガル地域です。なお、カシュガルは、疎勒地区も含む。
現在はウイグル人が多く住む。ウイグル人は、混血で目が碧いが顔色は黄色いと、紀行文で司馬遼太郎はいう。

3、和田(コータン)
玄奘は、643年、瞿薩旦那国(クスタナ)に着く。昔の于塡国、和田(コータン、ホ―タン)です。クスタナは、梵語ゴ―スターナの音訳で、「地乳」の意という。(長沢和俊)
地の乳は、秦人に似た言語「乳」を五穀という。辰韓を想起します。
また、楚国の人も、乳と書いて穀という。

上記の年代差が800年以上あります。
扁平頭にする風習は、そんじょそこらに無い変わった連中です。

4、亀慈人は、子供が生まれると頭を木に押し付けて、平べったい頭に作ろうとする。妙な風習で、辰韓人に同じです。

5、西突厥の顔と髪
627年、東ローマ(ビザンツ)のヘラクレイオス帝と西突厥可汗軍は、現在のグルジア国、トビリシを包囲した。一回目の攻撃でのトビリシ人の突厥人描写。
西突厥の姿は、長い髪の弁髪。かぼちゃ顔、二目と見られぬ醜い、まつ毛の無い、だだっぴろい顔の人と描写する。
退却する突厥に対し、城壁に大きなカボチャを載せて、
「ヤ―イ、かぼちゃ顔の人よ、帰って王にお辞儀するがよい」という。
髪を長く伸ばして、垂らす女の姿の太群が去って行った。女:男のこと。

突厥族の中に、カボチャ顔の人あり。これも珍しい。
頭を平たくして、前から見れば、デコが大きく見える扁平頭と関係あり。
玄奘は、631年ころ、西突厥の王に会った。髪の長さ一丈ばかりという。

秦の国から逃れる人々
前221~前205年、秦の苦役で、西域へ行った人も、在ったのではないか。
また、広東省へ行く人、斉の山東半島僻地に留まった人もあったのではないか。当然、日本にも秦氏は、来ています。[姓氏録]

382年、前秦の符堅がいう。慶州新羅は、どうして長い髪をしているのですかと聞いて、いぶかしがる。秦書の逸文(太平御覧四夷部に所引)
この時は、日本百済が通訳としてゆくが、このくだらは「高麗、新羅、俀、中っ国人」です。韓国のぺクジュ(百済)ではない。
また、日本では、300年代、武内宿禰が率いる軍も長髪で、長髪を才槌頭(長髪を二つに分けて、木槌の状)にしていた。髪をほどけば、弓矢を髪に隠せるのでした。この頭髪は、韓にも居ました。

6、周の大白は、現地の風俗に同化するため、髪を切り、文身をして呉の国を作った。ひょっとして、周は長髪の人ではないか。
7、晋書・王敦伝
俗世間では、東晋の明帝は、孫呉の孫権と同じように、碧眼・紫髪・黄髭だったという。
王敦が、明帝の容貌を見て、
「太子は、鮮卑奴なり」と評して述べていたという。・・・閼氏という匈奴の皇后家の子孫でしょう。
以上は、5と呉国と7を除き、みなトルコ語系統の人々です。
なお、イラン系の人は、髪を切っています。
最後に、加藤九祚の言。
アフガニスタン北部、タジキスタンでは、(堀)コタツがある。また、屋根の煙り出しの様式は、高句麗も同じ様式という。
以上の状況証拠で、みなさんの総合判断は、いかがですか。

飛鳥に蒸し風呂[トルコ風呂]がある。どうして?
アルタイ語は、トルコ語、モンゴル語、朝鮮語、日本語、でした。
ただし、天皇は、夏王6代目の庶流で支那語族です。もまた、語族は人種と必ずしも一致しません。


バダフシャン

2011年06月17日 00時05分13秒 | 海(わた)


葛飾北斎「朱鍾馗図幟」ボストン美術館蔵。提供写真:朝日新聞

バダフシャン

バダフシャン(鉢鐸創那)・・・那:奴。
1、鉢:金銅の鍾(お寺のカネ)・・・イヌのバンコの入っていた鍾。
鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句五月5日に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったりする。屋根の上に鍾馗の像。沖縄のシ―サーの類、狛犬に似る。
2、鐸:銅鐸:鈴鼓・・・のちの神社の鈴、梵鐘、風鈴、くすだま。
3、創:新たにつくる:発明。

親分は、少昊氏の不肖の息子・窮奇で、後裔がかついでいるのでしょう。

傑作な連中?・・・否、傑出した連中でしょう。

鍾馗さん、頭にお盆、お椀を載せて何処へゆく。
お盆は、三日月ではなく、円鏡(凸面鏡)ですって。・・・円山。船の丸。
お盆の上に載ったブッダ(小金銅仏)ですって。・・・ハスの葉ではない。
(ブッダに追いつけない悪神アングリマ―ラ。ブッダの後ろは凹面鏡でした。凹面鏡は、近づくほど、遠ざかるので、追いつけない。鏡は魔除けでした。)

ついでに、面(おも)、白い・・・白い満月を擬人化。
これは、大月氏そのものではないか。

もまた、鏡のように磨かれた高僧の「おつむ」です。

話を代えますが、
昨日、午前3時頃、金環食が見えなくって残念です。
代わりに、GoogleのOのところを使って、金環月食の移り行く姿が動画になっていました。
七海は、創意工夫を買いたいと思います。「さすが」を冠します。
なお、卑弥呼の母は、鬱色謎売(うつしこめ)で、金環食の日に生まれた。

そして、鍾馗に似た窮奇(キュウキ)は、魏志倭人伝、狗奴國王・卑弥弓呼素です。弓字は、穴を上に付け、弓の左に、身をつければ、窮になります。
穴から出て、身を取られ(ミトラれ)、弓だけ残った。
万葉集、我が大君の御執らしの・・・御執は(みと)と読む。

大君は、天上の天照大神、地上の王者スサノオですが、上記の万葉集は、天照大神です。隋書でも証明できます。


追記、仏鉢・・・2011・6月26日
托鉢は、坊さんが喜捨をもらう器です。昔は、食物を容れました。下図では、ブッダが、麦密を受け取った。
図は、ブッダに、鉢を奉じる四天王の二人。
左右の二人です。アフガニスタンのカービシー地方の出土。
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鉢鐸創那
鉢の音、ハツ、ハチ。鐸の音、タク、ダク。文献では、バダフシャンで、両音とも、濁音で、バダでした。訂正し、バダフシャンとします。

しかし、漢音ではハタの音、呉音ではハダの音。何かが隠れているのではないか。
ハッダは、アフガン地名に在るからです。

百科事典マイペディア ハッダの用語解説 - アフガニスタン東部,現在のジャララバードの南8kmの地にあるクシャーナ朝から8世紀の仏教遺跡。
大唐西域記の醯羅(けいら) 城に当たる。1923年からフランスの考古学者によって発掘された。(コトバンクより)・・・醯は、酢(す)。

さらに、バダフシャンをバダクシャンとした学者もいました。ハ音:ク音。
正確には、どんな発音になるのでしょうか。