葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

その苦味は味わいか、それともただ不味いのか。

2017-10-02 12:24:16 | 養生
 良薬は口に苦しというのは一種の方便だ。
 特に漢方薬などは、証が合えば美味しい(らしい)。

 さて、勉強や運動も似たようなもので、辛ければ効果があるかというとそうでもない。
 楽でないことは多いが、楽しさや面白みがなければ上達は難しい。
 もっともその楽しさや面白みは、ニコニコ笑えるものばかりではないからややこしい。

 それは、甘いだけの料理がかえって味気ないのと似ている。
 塩味や辛味や酸味、あるいは苦味が適度に混じっていなければ、食事は美味しくない。

 勉強や運動もやはり、適度な負荷という苦味が無ければ面白くないし続かない。

 だが学校、特に大勢の人間を、限られた時間で均一の水準に揃えることを目的としている義務教育の場で、そんな匙加減をするのは難しいだろう。

 とにかく多くの人に娯楽的な意味で(栄養や健康は二の次で)美味しいと感じてもらうことを目的としている外食でも、全ての人間の舌を満足させることは不可能だ。
 ましてや娯楽性よりも成長が優先される教育の場なら尚更、万人にフィットするカリキュラムなど夢幻だろう。

 これが飲食店なら口に合わないと思ったら行かなければ済む話だが、学校となると中々そうはいかない。

 かくして、学校のカリキュラムがたまたま自分の好みと合致した、ごく少数の人間を除いて、ほとんどの人は「勉強や運動は、まずは辛いもの」だと刷り込まれることになる。

 だが本来、学ぶことや体を動かすことにおいて、どこかの誰かが作った基準というのは、ゲームを面白くするための設定に過ぎない。

 特に健康の維持を目的とした運動は、しなければいけないとか、これだけやってる自分は偉い、などという感覚はそれこそ「いけない」。

 例えば食事は基本的に、空腹感から発生する食欲から始まる。
 いつ、どんな物を食べるれば体に良いとか、そういう知識はあくまでも、その後についてくるものだ。

 運動もまずは、動きたいという欲求があり、そこに「ではどう動くとより楽しいか」という知的欲求が重なった時に、やれエアロビクスだのウエイトだのヨガだのといった知識がついてくる。

 それが「運動は辛いから、なるべく短時間で効率よく結果を出したい」などという気持ちから出発して情報を漁るのは、自らの身体に対する冒涜に近い。

 それでもなお「運動は辛い」と思うなら、それは学校教育やマスコミの洗脳のせいだ。

 だが人間もまた動物であり、動物が「動きたい」と感じる気持ちは、洗脳などによる後付けの感覚よりもずっと根元的なものだ。

 だから運動する習慣を持つのに、心を入れ替えるだの気持ちを切り換えるだのといったことは、本来は不要だ。
 ただ、思い出すだけでいい。

 そうして体を動かす旨さを味わわなければ、せっかく動物として生まれてきたのに勿体無いというものだ。
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