長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

母来る

2018年05月25日 14時30分03秒 | 近況
 父が逝ったのは如月の三日月の頃だった。
 昭和の熱血教師であった父は戦後の激動の中学校、バブル期を迎えんとしていた昭和60年代の小学校、定年退職後は幼稚園の園長先生を勤め、多くの教え子に愛され、愉しい晩年だったらしい。
 …らしい、というのは、父が心不全で急逝するまでのこの7年間、とある事情から私は父と絶交状態にあった。
 亡くなる一と月前、何の偶然だったのか、懇意にしていた虫が知らせたのか、ふと近況を知らせる葉書きを父に送ったのが最後となった。
 今となっては、それが私の心の救いともなったのだったが、鬱病と認知症を併発していた老々介護の母が残された。

 そんなわけで、めずらしく心のどかに朝の公園を散策する、という日常が私にも訪れた。
 それは、ふんだんにある檸檬の葉を食べ尽くしつつ、見事に育ちつつあったアゲハJuniorを、野鳥の思惑から守れなかった失意の私に訪れた一筋の光明でもあった。

 もう紫陽花が色づく季節となった。
 幼生のアジサイたちは、蟹がハサミを振って招く姿にも似ている。



追:慣用的な日本語の修辞法が、21世紀に働く方々に伝承・取得されていないことを痛感する日々である。
  例えば、読み方。
  ゴジラが来る→ごじらが「くる」
  ゴジラ来る→ごじら「きたる」
  そんな感じです。
 
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インセクタ派

2018年05月16日 11時17分03秒 | 近況
 昨日今日の暑さはなんとしたことか。私の半世紀ほどの記憶の蓄積によれば、今朝は7月になったんだなぁ…と思える体感である。
 移りゆく季節の中で、春を愉しませてくれた株1号の旭山桜は、青い子房を太らせ、このままいけば初めてサクランボが実るのではないか…と嬉しさに胸をどきどきさせて眺めていたのだが、その嬉しい予感もつかの間、おいしくなる予感を感じた次の日に、卒然として枝から消えた。

 姿は見ぬが、野鳥もやはり私と同じ気持ちだったのだろうと思う。

 それから我がささやかなる株2号3号4号の檸檬たちが爽やかな白い花をつけ、ジャスミンのような馥郁たる匂いをともなって、私の傷心を慰めてくれたのだった。

 さて、花に嵐の先週の荒天で、檸檬の花も子房を残してざんばらの姿、よく伸びてきた緑の葉のうちの一枚に、一昨日、黒と白のまだらの鳥の糞様の…幼虫を見つけた。
 ぉぉ! 何とうれしや、こんなささやかな植物たちをも、アゲハチョウは見逃していなかったのである。
 
 そして、また何ということでしょう!! 昨日糞だった我が宿の幼虫は、一晩を過ぎて、美しい緑色に変容していた。
 脱皮したのか、擬態したのか…すごいですねぇ、大自然の驚異たるや、日々我々を飽かすことがない。

 五月待つ花橘の香をかげば…古歌を想い出しながら、花が散ってもまだ馨しき匂いを放つ緑の枝に水をやりながら、檸檬の葉に育つ蝶は、何色の翅を拡げるのだろうと、考えていた。

 そんなわけで、ネコ派でも犬派でもなく、わたくしは虫愛でる…インセクタ派なのであります。
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ウラシマソウ

2018年05月08日 01時51分05秒 | 近況
 地球の磁極が転換した証拠ともなるチバニアンという地層が発見された、という昨年のニュースは、隠れ地学女子には胸躍るものであった。同じ関東平野の太平洋沿岸北岸には浸食された白亜紀層があり、もう60年ほど以前、地質学を学ぶ地元I大学の学生が新種の化石を発見し、新聞にも載ったことがあった。若き日の我が父である。のちに彼は理科の教師となった。
 そんなわけで、白亜紀層の海岸に白亜紀荘という旅荘が屹立しているのは、私には懐かしい風景なのだった。
 ウラシマソウは浦島草なわけだが、浦島荘という旅籠が日本のどこかの岸壁に建っているはずでもある。
 マイティー荘が、北欧のフィヨルドのどこかの断崖の上に立っていてもほしい。

 そしてまた、昔、射爆場だった跡地が整備されて海浜公園となり、瑠璃唐草という果てしなく乙女心をくすぐる和名を持つネモフィラが栽培され、海を望む丘が一面、空色の花で覆われているらしい。昔読んだ本に、つる性の青い花が海近くの村にはびこり、村全体を覆いつくして海に沈めてしまったという話があったのを想い出す。
 あれは何の物語だったのだろう。沈みゆく村とともに沈みゆく教会の鐘の音が断末魔の響きを奏でる…という幻想的な楽曲もあったはずであるが(ドビュッシーではないように思う)……。

 ウラシマソウはテンナンショウ(天南星)と漢字で表記する仲間らしい。海も浜も植物も、南澳の暗い群青色の夜空を思うとほのぼのしみじみと懐かしい。行ったことはないから前世の記憶なのかもしれない。
 ウラシマソウを見ると、どうしても深海の生物の姿を連想する。具体的に何々という名称が挙げられないのが無念である。



 さて、4月3日、早朝の公園で見かけたウラシマソウが、



 4月22日にはこのような実を結んでいてビックリした。
 
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なにかしら趣味人。

2018年05月05日 12時30分20秒 | お知らせ
 “謎のアンケート結果により日本で一番○○な…と持ち上げられ俗な狂騒の巷と化した吉祥寺の街に、風前の灯火となった文化の炎は、今でも燃えているか?”

 表題というものは、記事の内容を簡潔かつインパクトのある言葉選びで、誤解の無いよう分かりやすく表す、しかも少ない文字数で、というのが鉄則です。命名者の言葉のセンスを試される難しい作業でもあります。
 それを踏まえつつも、昭和50年代でしたでしょうか、一時の流行りと申しましょうか、やたらと長い文字数のタイトルが増えたことがありました。新しい表現を志す方々のレジスタンス活動でした。

 文化に対する採算性をやたらと現今は追求するようになりましたが、さて、この世の中にペイできる文化芸術なるものは存在するのでしょうか?
 ペイする=つまり時給換算での人件費が安い所産のものが、芸術や文化であるわけがないのです。
 
 人々の魂の浄化、感性のやすらぎ、嗜好の対象となる、見る者聴く者にある種の感動・感銘を覚えさせ、明日を生きる心の糧となるに至る世界を生み出すに、仕手はどれだけの努力と研鑽を積み、歳月を経、人生を重ねてきたことでしょうか。

 …なーんて、またまた長くなる予感を残して、明日の催し物のご案内を申し上げます。
 六日のあやめ。
 毎年、ゴールデンウィークの最終日に開催しております武蔵野市の邦楽の会です。私共杵徳社中は、「花の友」「楠公」にて参加させていただきます。

 連休疲れの皆さまのお耳とお心に、やさしく届きますれば幸甚。

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