天瀬町出口に、出口神社?があるという情報を頼りに神木を探しに行ったのですが、この神社はグーグルの地図情報には載っていません。どうもグーグル地図にも地域格差が見受けられる?人里が寂しいところは無表示です。存在していても、表示してなければ存在しないのか?その事実の有無に挑戦した気まぐれな道中でした。
しかし、流石に林業の日田です。山間に入って行きますと、ものすごい杉の木が道路の左右を挟んで整然と列を成し、杉の木トンネルを作っています。まさに車まるごと森林浴をしながらのドライブです。
そこで、休憩の一息ということで天瀬の川沿いにうなぎの寝床みたいに作られた旅館に入って露天風呂に浸かりました。この露天風呂からは滝がすぐそこに迫って見えていて自然との同居といった感じです。でも自然に接するには、努力が要ります。旅館の受付から露天風呂までの階段や渡り廊下のを辿った道程の遠いこと!
天瀬の旅館を出発する前に、旅館のフロントでこの『出口神社』?を知らないか?と聞きましたところ、どうもそうしたへんぴな神社まで行ったことが無いみたいで『?』でした。仕方なくまた直感を頼りに、山道を走りました。『出口』というのは地名ですから、近くまで行けば地域の人に聞けばわかるだろうと思っていましたが、道中誰に合うことなく車は進みます。本当に、僻地は無人の里ですね。
やっと石材加工店が店を開けていたので、そこで聞くことにしました。しかし、人影はありません。代わりに灯篭やらお地蔵さんやらがいっぱい転がっています。中に入って声を掛けても誰も出てきません。墓石は要りませんから、たくさんあるお地蔵さんのひとつでも記念に頂いて帰ろうかと余程思いましたが、罰が当たってはたまりませんから、あきらめて仕方なくまた車を進めました。
そして丁度お腹も空いてきましたのでレストランはないかと思って走りましたが、こんなところにレストランなんてあるはずもありません。すると前方に『田舎料理』みたいなお店が右側にあるという案内板がありましたので、そこで食事と道案内をお願いすればよいと思ってハンドルを右に切って入ったところ、なんとすぐ正面に神社があるではありませんか!そしてその名は『老松神社』と掲示してありました。神社の造りは大変古風で、小さな建築物ではありますが大変古く威厳がありました。そしてすぐそばに大きな杉の木が天高し、と言わんばかりに天に沿って伸びていました。直感で、ここだ!と思いました。恐らく出口神社は地名から表現された代名詞で、本当はこの『老松神社』がそれであると!
神社の正面には、竜の木版レリーフが飾ってあって、思わず「むむっ・・・」と想わされる出来栄えです。そして、肝心のご神木をよく見ますと雷の被害防止に避雷針が装備されていて、この神木に対する地域の人の心遣いが伺われます。狭い境内なのですが地域にふさわしい大変立派な神社です。
インターネットの情報では、避雷針が神木に付いているとの情報があったので、もう疑う余地はありません。早速、この神木に触れてツーショットを撮りました。なんと今日はついているのだろうと思いながら、そろそろお腹のご機嫌をとらねばと、すぐそこにある民家を改造したような『田舎料理』のお店にいったところ、窓が暗いので休業かな?と思って友人に聞きに行ってもらったところ、なんとご病気でお店をお休みにしているとのこと。おかげで昼ご飯は当分ご縁がなくなりました。
帰りに、日田駅前にある寶屋という料理店に入って、昼食とも夕食ともつかない感じで川魚料理を頂きました。川魚を食べながら今日の神木との出会いについて語りました。無名の神木に出会うよさとは回りに観光客のいないことです。それはせっかくの神木との出会いですから、俗っぽさがあっては興ざめがします。雑念があっては神木に、はるかな時の流れを訊きだすことはできません。
神木にとっての時の流れとは、その生命体の歴史であり、すなわちその存在です。その神木に時の流れを訊きだすとは、自己が発する問いかけを自己が受け止める作業となります。ですから、神木の発する無言の答えは、問いを発した者への『存在』へと巡るのでしょう。
風と共にそよぐ木の葉と、こもれびによる響き、それはあまりにも複雑になりすぎた世間すなわち人類への神木からの無言歌ではないでしょうか?
by 大藪光政
しかし、流石に林業の日田です。山間に入って行きますと、ものすごい杉の木が道路の左右を挟んで整然と列を成し、杉の木トンネルを作っています。まさに車まるごと森林浴をしながらのドライブです。
そこで、休憩の一息ということで天瀬の川沿いにうなぎの寝床みたいに作られた旅館に入って露天風呂に浸かりました。この露天風呂からは滝がすぐそこに迫って見えていて自然との同居といった感じです。でも自然に接するには、努力が要ります。旅館の受付から露天風呂までの階段や渡り廊下のを辿った道程の遠いこと!
天瀬の旅館を出発する前に、旅館のフロントでこの『出口神社』?を知らないか?と聞きましたところ、どうもそうしたへんぴな神社まで行ったことが無いみたいで『?』でした。仕方なくまた直感を頼りに、山道を走りました。『出口』というのは地名ですから、近くまで行けば地域の人に聞けばわかるだろうと思っていましたが、道中誰に合うことなく車は進みます。本当に、僻地は無人の里ですね。
やっと石材加工店が店を開けていたので、そこで聞くことにしました。しかし、人影はありません。代わりに灯篭やらお地蔵さんやらがいっぱい転がっています。中に入って声を掛けても誰も出てきません。墓石は要りませんから、たくさんあるお地蔵さんのひとつでも記念に頂いて帰ろうかと余程思いましたが、罰が当たってはたまりませんから、あきらめて仕方なくまた車を進めました。
そして丁度お腹も空いてきましたのでレストランはないかと思って走りましたが、こんなところにレストランなんてあるはずもありません。すると前方に『田舎料理』みたいなお店が右側にあるという案内板がありましたので、そこで食事と道案内をお願いすればよいと思ってハンドルを右に切って入ったところ、なんとすぐ正面に神社があるではありませんか!そしてその名は『老松神社』と掲示してありました。神社の造りは大変古風で、小さな建築物ではありますが大変古く威厳がありました。そしてすぐそばに大きな杉の木が天高し、と言わんばかりに天に沿って伸びていました。直感で、ここだ!と思いました。恐らく出口神社は地名から表現された代名詞で、本当はこの『老松神社』がそれであると!
神社の正面には、竜の木版レリーフが飾ってあって、思わず「むむっ・・・」と想わされる出来栄えです。そして、肝心のご神木をよく見ますと雷の被害防止に避雷針が装備されていて、この神木に対する地域の人の心遣いが伺われます。狭い境内なのですが地域にふさわしい大変立派な神社です。
インターネットの情報では、避雷針が神木に付いているとの情報があったので、もう疑う余地はありません。早速、この神木に触れてツーショットを撮りました。なんと今日はついているのだろうと思いながら、そろそろお腹のご機嫌をとらねばと、すぐそこにある民家を改造したような『田舎料理』のお店にいったところ、窓が暗いので休業かな?と思って友人に聞きに行ってもらったところ、なんとご病気でお店をお休みにしているとのこと。おかげで昼ご飯は当分ご縁がなくなりました。
帰りに、日田駅前にある寶屋という料理店に入って、昼食とも夕食ともつかない感じで川魚料理を頂きました。川魚を食べながら今日の神木との出会いについて語りました。無名の神木に出会うよさとは回りに観光客のいないことです。それはせっかくの神木との出会いですから、俗っぽさがあっては興ざめがします。雑念があっては神木に、はるかな時の流れを訊きだすことはできません。
神木にとっての時の流れとは、その生命体の歴史であり、すなわちその存在です。その神木に時の流れを訊きだすとは、自己が発する問いかけを自己が受け止める作業となります。ですから、神木の発する無言の答えは、問いを発した者への『存在』へと巡るのでしょう。
風と共にそよぐ木の葉と、こもれびによる響き、それはあまりにも複雑になりすぎた世間すなわち人類への神木からの無言歌ではないでしょうか?
by 大藪光政