こもれびの日々

人生、経験することにおいてはどんなものでも無駄はないといいます。
無駄な日々はこもれびのようなものでしょうか?大藪光政

2007/09/19 神木をたずねて・・・その2/2 (杉の木)

2007年09月23日 | Weblog
天瀬町出口に、出口神社?があるという情報を頼りに神木を探しに行ったのですが、この神社はグーグルの地図情報には載っていません。どうもグーグル地図にも地域格差が見受けられる?人里が寂しいところは無表示です。存在していても、表示してなければ存在しないのか?その事実の有無に挑戦した気まぐれな道中でした。

しかし、流石に林業の日田です。山間に入って行きますと、ものすごい杉の木が道路の左右を挟んで整然と列を成し、杉の木トンネルを作っています。まさに車まるごと森林浴をしながらのドライブです。
そこで、休憩の一息ということで天瀬の川沿いにうなぎの寝床みたいに作られた旅館に入って露天風呂に浸かりました。この露天風呂からは滝がすぐそこに迫って見えていて自然との同居といった感じです。でも自然に接するには、努力が要ります。旅館の受付から露天風呂までの階段や渡り廊下のを辿った道程の遠いこと!

天瀬の旅館を出発する前に、旅館のフロントでこの『出口神社』?を知らないか?と聞きましたところ、どうもそうしたへんぴな神社まで行ったことが無いみたいで『?』でした。仕方なくまた直感を頼りに、山道を走りました。『出口』というのは地名ですから、近くまで行けば地域の人に聞けばわかるだろうと思っていましたが、道中誰に合うことなく車は進みます。本当に、僻地は無人の里ですね。

やっと石材加工店が店を開けていたので、そこで聞くことにしました。しかし、人影はありません。代わりに灯篭やらお地蔵さんやらがいっぱい転がっています。中に入って声を掛けても誰も出てきません。墓石は要りませんから、たくさんあるお地蔵さんのひとつでも記念に頂いて帰ろうかと余程思いましたが、罰が当たってはたまりませんから、あきらめて仕方なくまた車を進めました。

そして丁度お腹も空いてきましたのでレストランはないかと思って走りましたが、こんなところにレストランなんてあるはずもありません。すると前方に『田舎料理』みたいなお店が右側にあるという案内板がありましたので、そこで食事と道案内をお願いすればよいと思ってハンドルを右に切って入ったところ、なんとすぐ正面に神社があるではありませんか!そしてその名は『老松神社』と掲示してありました。神社の造りは大変古風で、小さな建築物ではありますが大変古く威厳がありました。そしてすぐそばに大きな杉の木が天高し、と言わんばかりに天に沿って伸びていました。直感で、ここだ!と思いました。恐らく出口神社は地名から表現された代名詞で、本当はこの『老松神社』がそれであると!

神社の正面には、竜の木版レリーフが飾ってあって、思わず「むむっ・・・」と想わされる出来栄えです。そして、肝心のご神木をよく見ますと雷の被害防止に避雷針が装備されていて、この神木に対する地域の人の心遣いが伺われます。狭い境内なのですが地域にふさわしい大変立派な神社です。

インターネットの情報では、避雷針が神木に付いているとの情報があったので、もう疑う余地はありません。早速、この神木に触れてツーショットを撮りました。なんと今日はついているのだろうと思いながら、そろそろお腹のご機嫌をとらねばと、すぐそこにある民家を改造したような『田舎料理』のお店にいったところ、窓が暗いので休業かな?と思って友人に聞きに行ってもらったところ、なんとご病気でお店をお休みにしているとのこと。おかげで昼ご飯は当分ご縁がなくなりました。

帰りに、日田駅前にある寶屋という料理店に入って、昼食とも夕食ともつかない感じで川魚料理を頂きました。川魚を食べながら今日の神木との出会いについて語りました。無名の神木に出会うよさとは回りに観光客のいないことです。それはせっかくの神木との出会いですから、俗っぽさがあっては興ざめがします。雑念があっては神木に、はるかな時の流れを訊きだすことはできません。

神木にとっての時の流れとは、その生命体の歴史であり、すなわちその存在です。その神木に時の流れを訊きだすとは、自己が発する問いかけを自己が受け止める作業となります。ですから、神木の発する無言の答えは、問いを発した者への『存在』へと巡るのでしょう。

風と共にそよぐ木の葉と、こもれびによる響き、それはあまりにも複雑になりすぎた世間すなわち人類への神木からの無言歌ではないでしょうか?

by 大藪光政

神木をたずねて・・・その1(イチイガシの木)

2007年09月19日 | Weblog
この間の日曜日に、日田の方へ神木を見に行きました。本当は、祝日の月曜日の予定でしたが、台風接近の影響で雨がひどくなるのではとの心配から、日にちを変更したのです。一応事前に下調べをインターネットでしていたのですが、いまひとつ場所が明確でなかったので、見つかるかな?とは思っていました。そのへんは、気まぐれ性格でどうでもいいや・・・といった感じです。グーグル地図もあまりあてにならないのと役に立たないことから開き直って出かけました。

最初は、大行事神社ですが、近くまでは来ているなという直感が働いて、道路に立っている地元の案内図を見ると、どうも場所が怪しいのです。こちらの予想とは反対方向に描いてあります。しかたなく、自分の直感を信頼して反対方向に行きました。車が一台しか通らない道です。

少し入り込んだところで、丁度人がいましたから「大行事神社はどこにありますか?」と聞きますと、おじさんは、「そこだよ・・・」と私の後ろを指しました。なんと道路の右側に神社があるではありませんか!
それで、早速入ったのですが、なにやら地元の人たちが清掃したり、物を運んだりして何かを準備していたので、何かの行事が始まるのかな?と思っていましたら、すぐに長老が寄ってきて、どこから来たの?何しにきたの?と質問攻めです。

「ご神木を見に来たのです」と答えると「ほう・・木の研究にこられたのですか?」と質問されるので、「いや、研究ではなくただ見に来たのです。」と言いますと、少し怪訝な顔をして・・・私の顔を覗き込み、それで?といった顔をしています。そこで「この神社で一番古い木はこの木ですか?」と逆に質問すると、「そうじゃろうなぁ~わしは樹齢なんぞわからんが・・・この一位樫の木が一番古かろう・・・」と答えてくれました。この樫の木は、根元から少し上が腐れたのか空洞になっていますが、その空洞にも根を下ろした二重構造の状態で長年の齢を送っているのには生命の力強さを感じました。また、近くで見上げると結構な高さがあります。

長老に、「もうひとつ地元の地図には神社があるみたいですけど、近いのですか?」と質問したら、「ああ・・・あの地図は逆になっていて、ここがその地図の神社だよ・・・」と教えてくれました。なんと、直感は当たっていて、あの地元の地図が間違っていたのです。

地元の人たちが、集まっているわけは敬老会が境内の室内で催しされるからだったのです。なんだか、地元の人と話しているうちに、先方もすっかりこちらに打ち解けて熱心に色々と地域の木に関することを教えてくれました。そうしているうちに、なんだかその酒席に同席したらさぞ楽しいだろうなと思って、友人に「一緒に一杯やりたいなあ~」といったら、「それなりな、話題を持っていないとね。」と言われてしまいました。

後で、わかったのですが大行事神社は樹齢1000年の古い大楠があるはずだったのですが、それが一位樫の木だったわけが、どうも同名の神社が日田にもあったみたいで、下調べの情報とグーグルの地図とが一致していなくて、まったく予想していないイチイガシのある『大行事神社』に来てしまったようなのです。われながらいい加減な訪問だったわけですが、最近楠木は見たばかりでしたのでそれが運命の巡り合わせで良かったと思っています。
by 大藪光政

『求めない』とは?

2007年09月14日 | Weblog
今日の朝日新聞で、面白い本の紹介が載っていました。それは『求めない』という題の本です。「求めない・・・すると心が広くなる」、「求めない・・・すると恐怖心がなくなる」、「求めない・・・するとひととの調和が起こる」と続いております。

そして、たちまち九万部突破!大増刷と見出しがあり、全国から感動の声として、色んな読者の声が掲載されています。

これも変な現象ですね。なんだか宗教や哲学めいた『求めない』という
売り文句で人を誑かせているみたいです。人の求める行為が生きる上での障害になっているとでも言いたいようですが、それはおかしいでしょう。『何』を求めないか?が欠落しています。その『何』かによって、人にとって求めたくなるもの、或いは求めて得ることが出来ても悪しきことであったり善きことであったりするはずです。『求めない』という行為だけを捉えて、どうするつもりでしょうか?

こうした『求めない』という題の本に関心を抱きこの本を『求める』行為の読者を著者も出版社もよしとしているのは何故でしょうか?

著者の直筆でしょうか?「求めない・・・するとしっかりした顔になる」と筆で書きサインをしていましたが、そうしますと私は、「常に求めています・・・だから、だらしない顔になっています」と書かなければならない。恐らく、このことを天におられる池田晶子さんに報告したら、「あら、私の作法が・・・お役に立ててうれしいわ!」というでしょう。池田流に言わせれば、求めないものがなんであるか?を隠したまま、さも教えを説くような行為は、詐欺みたいなものだ!と切って捨てるに違いありません。

著者は言うかもしれません。この本の中身も読まずにけちを付けてくれるなと。しかし、私はこう切り返します。『求めません』この本を!だから中身が読めないでしょうと!私を反省させようとしたければ、私にあなたの本を『与えてください』というだけです。

ちなみに、我が愛犬ショルティは、散歩もおやつも、そしてメス犬も・・・『求めます』、こうした素朴な動物ですら、生きる上において色んな欲求を求めます。ましてや人間はもっと求める性を持っています。求めると言う行為は生きている証ではないでしょうか?

by 大藪光政