こもれびの日々

人生、経験することにおいてはどんなものでも無駄はないといいます。
無駄な日々はこもれびのようなものでしょうか?大藪光政

晩秋の雷鳴で驚くショルティー・・・

2008年11月28日 | Weblog
晩秋に、昨日から雨が降ったり、雷が鳴ったりでショルティーを驚かせています。
散歩の途中で、西の空が真っ暗になってごろごろ鳴り出すと、ショルちゃんは、必死になって、公園から自宅の東方向へとロープを強く引きます。

僕も、感電死はごめんだから、急ぎ足となります。その急ぎ足が踏む小道には、落ち葉が一杯になっていました。上を見上げると、なんと、樹木が刈り取られた羊の身体みたいに、丸裸になっていました。

桜の木の葉は、早くから落ちていたけど、つい最近まで紅葉して残っていた広葉樹の木の葉が散ってしまっています。風は冷たく、冬の前触れを郵送してきます。

先日の萩、長門の旅行が過去のように過ぎ去っていくのを、風に吹かれた木の葉の秒速で知りました。残されたのは、旅行の思い出を焼き付けた印画紙だけです。

人は、何故かデジカメという科学の粋でつくられたツールで、決定的瞬間でもないのに撮り捲ります。その行為は心理的に、その刹那を失いたくない。持って置きたい。保存しておきたい。あとで楽しみたいという本能が働くのでしょうが、百舌鳥のように、その後、想い出の証拠品は眠らせてしまうでしょう。

でも、不思議なことに、カメラマンはカメラを人に渡さない限り、或いはセルフタイマーを使わない限り、自身を撮る事が少ないですね。つまり、主観である私は除外されるのです。そして、客観の世界ばかりを主に撮りまくるのです。

カメラは主観から客観に向けた視点を映し出すのであって、主観であるカメラを使っている人の姿を撮ることは決してありません。(カメラを持ったまま、自分にカメラを向けて撮ることもできますが、そうした行為はほとんどしないでしょう。)その主観が客観の世界ばかりを撮った写真には、主観の思惑が反映されていることは、事実です。

主観による描写として、対象物の選定、構図、遠近感・・・とカメラ技術の経験的度合いによって、映し出された描写はさまざまです。だから、写真を芸術として捉えている人もいます。主観をもとに撮った客観的世界には、主観的世界が盛り込まれているということになります。それが、芸術としての地位を得ている証拠というのでしょう。

しかし、科学技術の粋でつくられたツールで芸術を創るということを認めたくない人もいますね。科学と芸術分野の棲み分けも難しい。絵の具や、絵筆にしても昨今は、科学技術を基にした加工技術のもとで製造されている。

発光ダイオードが生まれた間もない頃、それを電子部品として手にした私は、これらを使ってオブジェを創ると芸術としてみとめられるのかなあ~と昔、思ったことがあります。今では、現代芸術としてやられていることですが、その当時は誰もやっていませんでした。もし、私がやっていたら先駆者でしょう。でも、したくなかった。レトロなものの方が、こころがほっとするからです。

話をもどすと、主観的に捉えた客観的世界の証拠写真を第三者が観て、「これは素晴らしい写真作品だ!」と言った時、それは、写真を観た人の主観的観察でもってその『主観の入った客観的写真』に感動するのですね。写真を観た人にとって、その写真は客観的物質ですが、主観と客観がブレンドされたものを感じ取るわけですね。それは、その人の視覚と、経験的価値でもってさらにイメージを膨らませているということになります。

世界は、主観と客観が融合したものをさらに、主観と客観の入れ子状態を繰り返すことで生成されている・・・とも思えます。

by 大藪光政