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No.1


去年の12月、父が肝臓ガンで入院しました。
今まで大きな病気をしたことがなくて、
風邪も引いたことがないくらい元気で、
母と一緒に店を営んでいました。

父の病気を知り、家族はみんな驚きましたが、
私は自分の仕事を暫く休んで、
両親のお店と父の看病をする事を決めました。

最初の病院では全ての治療が出来なくて、
次の病院に転院するまでの2週間、
父は私の所で療養してもらう事にしました。

一緒にごはんを食べたり、お散歩をしたり、
テレビを見て笑ったり、私が作った料理の味が母の味と一緒だと言って喜んだり、
父とこんな時間を過ごすのは私が学生の頃以来だったので、
お世話ができる事が嬉しくて、
毎日かけがえのない時間を過ごしました。

ある日、父がぽつっと
『娘夫婦がいて、孫がいて、一緒にご飯を食べて、お父さんは幸せだ。』と言いました。
まだ体の中にガンが残っているのに『幸せだ』という父の言葉を聞いて、、、、涙がでました。
悲しかった。
絶対にどんなことをしてでも治してあげたいと思いました。

再び入院して辛い治療に加え、
病院で転倒して足の指を骨折してしまって、
色々と不自由が重なって大変でしたが、
みんなで闘って無事に退院ができました。

そしてその2日後、父は店に戻って来ました。
足にはまだギブスがついたまま、、、。
家でゆっくりするよりお店に出た方が良いんだと言って仕事を始めました。

入院中にお誕生日を迎えて81歳になった父、
私のNO.1の父です。

【NO.1】を聴くと、
あの時『お父さんは幸せだ』と言った父の笑顔を思い出して涙がでます。
これからも大好きな店を、母と仲睦ましく続けてほしいです。
馬場さん、素敵な曲をありがとうございます!


[50代女性]
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No.1


馬場ソングを聞き込んでいくと、
私の中の錆びた引き出しがポンと開くようなことが度々あります。
『No. 1』もそんな曲でした。

私の父は大正生まれの九州男児だったので、
子供心にも少し遠い存在で、父の前では正座してしまう・・そんな存在でした。
大学に進むときは世界のどこに行ってもいいと言い、
結婚を決めた時にも一言も反対しませんでした。

でも本心はその逆で、
「地元にも大学はあるのに・・」と母にこぼし・・・
遠方に暮らす孫が帰ったと言っては「寂しい・・」と涙を流す人でした。

そんな父の強がりのおかげで、
私は自分が決めた道を思うように生きることができたのだと思います。
そのことを思い知ったのは、父が亡くなった後でした。

通夜の日、私はたくさんの父の友人や仕事関係の方に話しかけられました。
そして、初対面の方がほとんどなのに、
その方々が私のことをよく知っていることに驚きました。
小さいときのことや学生時代の部活のこと、
今の暮らしや私の家族のこと・・・。
父が私のことをよく話していたというのです。
特にお酒を飲むと必ず私の話をしていたと言います。
そして、皆さんが口々に「自慢の娘だったんだよ。」と言ってくださいました。
『No. 1』を聴くと、そんな父を思い出します。
互いに言葉にして伝えることはなかったけれど、
少し遠い存在だと思っていた父は、
幼い頃の「私のNo. 1」だったし・・・・
まぎれもなく私は「父のNo. 1」だったのだと思います。


[60代女性]
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No.1


亡くなった父の事を思います。
子供の頃は、毎年、夏休みには海へ連れていってくれた父。
海無し県に住んでいるので、『海』へ行くのはとても楽しみでした。
私は、思春期を引きずったまま(笑)大人になり、
父と話す事も少なかったのですが…。

父が亡くなったあと叔母から
『あなたのお父さんはいつも、
「うちの娘は良い子だから」と言っていたのよ。』と聞かされました。

ねぇ。お父さん。
ぜんぜん私、良い子じゃなかったのに。
でも、あまり話せなかったのは、お父さんが嫌いだからじゃないよ。
本当は大好きで、照れくさかったからだよ。

父が元気でいてくれたら、一緒にこの歌を聴きたかったです。
馬場さん。素敵な歌をありがとうございます。

[女性]
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No.1


今日は父の命日、あれから3年がたちました。

私が二十歳の時に両親が離婚して、
お父さんっ子だったにも関わらず、
この何年かは父とはあまり行き来もなく、
重ねる想い出も少ないまま月日が経っていました。

そんな父が一人では暮らせない状況になったと連絡が入ったのは、
父が暮らす街の民生委員さんからでした。
引っ越し、同居、休職を経て、
私の働く施設でのデイサービスを利用することになり、
私は職場復帰しました。
24時間365日、片時も離れることのない介護の生活の中で、
過去と今と未来の空想の世界を行ったり来たりする父との暮らしは、
精神的にも肉体的にも経済的にも辛いものがありました。

それでもいつも前向きに頑張ってこれたのは、
支えてくれていた馬場さんの音楽があったからです。
誰にも言えない事も、馬場さんの曲と会話して、
凪がすことが出来たからです。

そんなある日、
マンションの駐車場で車からなかなか降りない父から
「自分の幸せを探していいんだよ。
幸せになって欲しいだから、そうしなさい」
って言われました。

「やだー、今こうしているのが幸せなんだってー」って返しましたが、
それは本来の父の姿、優しい優しい父の顔でした。
あの日の駐車場での出来事は、きっと一生忘れないと思います。

それと同時に、もっともっと早く、
こうなる前に何か出来なかったのかと悔やまれてなりません。

昨年のフェスティバルホールでこの曲を聴いた時に、
父の優しさに包まれたような、大きな愛にふれたような、
なんともいえない気持ちになって涙が止まりませんでした。

父とは子供のころに、よく近所のお堀に魚釣りにいきました。
バケツをもって手作りの竿やタモをもって、
長靴をはいて、ザリガニやフナやドジョウや、、、
大漁になったバケツの重たかったその手のぬくもりや溝水の臭さも。
さかのぼって思い出させてくれる、
ぽつんぽつんと切なかった時期もあったけど、
みんなみんなが懐かしい時間にかえてくれる、
あったかーい気持ちにさせてくれる。

馬場さんの音楽には魔法の力があるんだって、
それを一番感じさせてくれるのは、私にはこの曲です。

馬場さん、本当にありがとう。
父の曲、母の曲、息子の曲、娘の曲、友を想う曲、
自分を奮い立たせてくれる曲、
その時々を、彩らせてくれるたくさんの音楽を、本当にありがとう。


[50代女性]
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No.1


シャイな父親で、電話しても
「元気か?」「風邪ひくなよ」「仕事がんばれよ」と言ったら母に変わる父でした。
ですが、お酒が入ると面白い父でした。

そんな父が肺がんで、余命3ヶ月と分かった時はショックでした。
だって、自分の親は長生きすると思ってたから…。
ある日、母から父が私は帰って来ないのかと話してたと連絡があり、
何も知らないふりして父に電話しました。
わざとおどけて、私に会いたい?と聞くと「うん」と答える父。
更におどけて、一番かわいいからねと言うと「うん」と。
仕事があるから、そんな事を絶対に言わない父でした。
私は、その言葉で帰ることを決めました。

最後の入院になる前、明け方にボソボソと両親の話し声が聞こえました。
母が私に仕事があるから帰さないと言っても、うんと言わず無言だった事。
布団の中で泣きました。
父親にとってのNo.1は、私。
そんな話を兄弟でした事がありました。
初めてNo.1を聞いた時、電話での会話や、あの景色が思い出されて泣けました。

きっと、今も…No.1は、私。(笑)
馬場さん、素晴らしい曲をありがとうございます。


[50代女性]

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