朝鮮について知りたい

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なぜ「朝鮮」なのか

2016年02月21日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
順序を守れ

先日、わたしは朝鮮問題を論じるにあたっての常套手段として用いられるのは、「物語の起点をずらす」ことである、と述べた。なるほど、その「物語」は「事実」を語っている。朝鮮は、ミサイル実験、核実験を行った。朝鮮は怒っている。これは、事実であろう。ゆえに自信満々である。

では確認しよう。とくに2013年以来の「朝鮮の怒り」という「物語の起点」はどこにあるのか?


「ミサイルと称された人工衛星」(2012年12月12日、光明星3号2号機、報道では「人工衛星と称されたミサイル」と繰り返された)に対する非難である。
これまで、「反帝国主義」という旗を降ろすことがなかったがゆえに、朝鮮は所謂「国際社会」から異端視され続けてきた。「異端視」は暴力と弊害しか生み出さなかった。
朝鮮は、日本帝国主義によって36年ものあいだ、植民地となった。しかも36年という年月は、実際に「韓国合併条約」からのことであって、実際に暴力はそれ以前から続いており、それは今も継続している。暴力でもって人々の生活を破壊し、生存すら脅かす植民地主義、そして性暴力、略奪、虐殺を本懐とする帝国主義に抵抗しているものが「異端」と呼ばれるのならば、喜んで「異端」となろう。これが朝鮮の本音ではなかろうか。朝鮮民族受難の100年史(植民地半世紀、分断半世紀)を、「記憶するもの」として、「抵抗」は至極当然の結果である。問題は「異端」を生み出した「原因」を忘れるな、ということである。

朝鮮は反帝国主義、反植民地主義闘争の過程で多くの犠牲を甘受した。われわれ日本に生きているものには想像すらできない苦難、犠牲であったろう。「社会主義富貴栄華」のため苦難の中、自身の力で、最先端技術を考案開発し、その結晶としてやっと打ち上げ成功に至った「人工衛星―光明星3号2号機」。
朝鮮の自主・発展の象徴、この「血と汗と涙の結晶」に対する「国際社会」の反応は「違法」であった。世界各国で6000回以上打ち上げられた人工衛星は、朝鮮に限ってのみ「違法」なのである。

朝鮮は自国の自主権・発展権・生存権すら認めない行為として、これを断罪糾弾した。度重なる忠告も無視し、「定例訓練」という名の下、2013年にはアメリカ・韓国を含む「列強」たちが、核兵器を投下することのできるステレス機(飛行機)、潜水艦(SLBM)、大陸間弾道ミサイル(ICBM)まで動員するに至った。ちなみに2014年には沖縄米軍基地から22機ものオスプレイが東海(トンへ)へと飛んでいった。
 現在のこの「戦争」は、「記憶を保持するもの」と「記憶を抹消しようとするもの」との闘争である。にもかかわらず日本の厚顔無恥な言論は、「北朝鮮」という標語に言うに耐えない罵詈雑言を託しながら、「朝鮮という国がわけもわからず怒っている」、「危ない」と言っているのだ。朝鮮だけではない。わたしも怒っている。
 わたしは、このような状況に異を唱えるために、多くの言葉を必要としない。一言でいい。「順序を守れ」。

「朝鮮」という問題で誰が得をする?

 よくよく考えてみると、「朝鮮問題」で誰が得をするのだろうか?
「北朝鮮」で盛り上がる日本社会では、集団的自衛権の解釈をめぐり議論が本格化してきた。新ガイドライン法の改定にも今年、踏み込むだろう。憲法9条が踏みにじられ、日本が悠々自適に「戦争できる軍事大国」となる未来しかはじき出せないのは、わたしだけではないと思う。憲法に関する議論でも問題は多々あると思われるが、ここでは割愛する。

日本が戦争できる国になる、ということをアジアおよび世界の被害者たち、とりわけ「従軍慰安婦」のハルモ二たちや朝鮮に生きる人々は、どのように受け取るのだろうか。わたしは、主義主張で人々を区別し分類することをあまり得意としない。ただ、一つはっきり言えることは、「被害者の声」に耳を傾けない人をわたしは軽蔑する、ということだ。
日本は、これまで「北朝鮮」問題だけを取り上げてきたわけでは決してない。「歴史の証人」として名乗り出たハルモニたちに対して「証拠がない」「金ほしさ」「売春婦」というセカンドレイプを幾重にも重ねてきたのが日本当局である(もちろんすべての「日本人」ではない)。「植民地がなかったら朝鮮は近代化できないでいた」、「関東大震災」で虐殺された朝鮮人は「殺されて然るべき存在だった」、と。馬鹿げている。しかし、このような論理が根を深く張り、脈々と生きているのが、日本というわれわれの立地条件なのだ。

それに加担する朝鮮人も多々いることを忘れてはならないが、そのような「歴史の忘却」と「北朝鮮問題」、そしてヘイトスピーチや教育問題などを筆頭とする在日朝鮮人迫害問題は、連綿と連なっている、といっても差し支えないように思える。
日本が過去を清算しえず、「いつか来た道」をまた進まんとするとき、「被害者」はどのようなトラウマにさらされるだろうか。このことを想像できずにいて、「朝鮮問題」を論ずるものが出口を見出せない迷路に突入するのは火を見るより明らかであろう。

なぜ「朝鮮」なのか-「わたし」は誰だ

 最後に、「なぜ『朝鮮』なのか」について触れておきたい。
 
まず、在日朝鮮人の歴史が、「暴力」を「暴力」と糾弾し、それに抗ってきた歴史である、という認識が不可欠であろう。

暴力は人々の考え方、生き方を捻じ曲げる作用をする。「4.24教育闘争」で記憶される抵抗運動の発端となった「朝鮮人設立学校の取扱について(1948.1.24)」も、「高校無償化」も本質的には、「民族教育を学校として認めない」という趣旨で一貫されている。一言で、「反日教育」をしている学校は学校ではないということが日本の国是である。民族教育は日本の「国益」にそぐわない。よって認定すべきではない。日本国家からすると、「当たり前のこと」なのである。

軍事大国化を目指す日本にとって「歴史教育」は一番のハードル。そのハードルをやっと達成できるほどの「民意」を掴んだ(「北朝鮮問題」大活躍!)。ふと見てみると、それに抵抗する輩がいる。朝鮮学校だ!「歴史の忘却」によってのみ、先に進むことのできる日本にとって、朝鮮学校は「邪魔者」以外のなにものでもない。朝鮮学校は「反日教育」をやっている。だから排除。論理は至ってシンプルである。

この状況を見ながら、われらが「産経新聞」と「朝日新聞」は大いに論争した。産経新聞は一貫して、「朝鮮学校は反日教育をやっている、だから排除だ」と主張する。朝日新聞が対抗する。「朝鮮学校は日本の学校と変わらない」、「過去には『反日』だったが、『今』は違う!」と。論争しながら、われわれに問いかける。「本音のところどっちですか?」と。

日本が植民地支配責任を認めず、過去を清算しない限り(したとしても)、われわれは、「民族受難の100年史」を教えるだろう。日本が過去の清算をうやむやにしながら、「いつか来た道」を歩まんとする今、われわれ在日朝鮮人の民族教育は「反日」とならざるをえない。

それを「支援金」という懐柔(アメ)と、「排除」という暴力(ムチ)でもって、捻じ曲げようとしているのが現在の「高校無償化」問題であろう。

このような徹底された暴力の中、在日朝鮮人社会にもある「変化」が少しずつ現れる。「自分たちもそろそろ変わったほうがいいのかも」、と。これまで団結の力で抵抗していた集団が真二つに分断される。

これから垣間見ることができるのは、われわれがいつも暴力の中に晒され続けたということ。その暴力によって、今われわれが「原点」を失いかけているということ。

新しい時代が開かれるにつれ、われわれの運動もまた変わらざるを得ないだろう。しかし、それと民族教育を「変質」させることとはわけが違う。

「今なぜ『朝鮮』を問うのか」、と投げかける前に、「なぜこれまで朝鮮を問うてきたのか」という問題意識を持つ必要もあると思う。

1945年8月15日、朝鮮民族は「解放」された、と現代史には記されている。が、朝鮮民族にとってのこの日は、「真の独立」の始まりであったに過ぎなかったのではないだろうか。この観点から「わたし」を診断するとき、「解放」のための本拠地として、希望の灯台として崇めた「祖国」とは何だったのだろうか。真の独立統一に向けて、「実践したわたし=(在日朝鮮人)」が頼った集団はどこだったのだろうか。

わたしは、これこそ、朝鮮民主主義人民共和国だと思っている。
だから、「朝鮮」を問うのである。今も、そして、これからも。












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