なんでにゃ?なんでこんなところに、横山やすし師匠の銅像があるのにゃ?
こういうのを、何ていうんだっけ。あるはずのないものが、そこにある。女子寮なのになぜかコンドームが備えつけてある、的な。そうだ、オーパーツだ。
奥多摩の闇は、深いのにゃ。
「ごらん。落ち葉が川面いっぱいに、流れていく。ちょっといい眺めだよ」。
「それだけなのに、不思議にゃ」。
・・・・・萩尾望都先生、ごめんなさいですにゃ。遊歩道も終わり。一般道へ上がっていくと・・・・・。
・・・ったく、人がせっかく自然の神秘に浸っているのに。いったいだれが、こんなヒワイなオブジェを。山奥だから構わない、とでも思ったのだろうか。
いや、待てよ。「山の神」って、確か女性だったよね。これって、意外と神聖なシンボルなのかもしれない。そんなわけで、あえてモザイクはかけませんでしたにゃ。
白丸ダムに着く。
にゃあ!19日の写真と比べると、違いは歴然にゃ。もし晴れていたら、スイスのレ・マン湖にも劣らない、青く輝く水を拝めたはずにゃ。
1年前に男性的、と書いたが、今回は生命を生み出す母なる水、という感じがする。これが本来の姿だよね。自然の復元力のすごさが、満腔に伝わって来るにゃ。来た甲斐があったのにゃ。
目的を果たして、帰りの汽車に乗るべく、奥多摩駅を目指すと・・・・・。
あれはちょうど、去年の今ごろ。ワシは多摩川沿いの鳩の巣渓谷を旅したのだった。そこで見た白丸ダムのダム湖(多摩川)の色。今ご覧の写真とともに、「カルピスのように白濁していて、実に男性的にゃ」という記事をアップしたが、それに対する反応は(未公開だが)、「ヘンタイ」、「子供に説明するのに苦労した」、等々、散々なものだった。
気持ちはわかる。だが、ジャーナリストとして事実をありのままに、かつヴィヴィッドに伝えようとした結果が、あの表現だったのだ。今でも後悔していない。だが・・・・・。
このままでは、川とダムがかわいそうではないか、という思いが、どうしても消えなかった。それに、今年は台風が一度も日本本土に上陸していない。去年とまったく違う眺めが見られるのではないか。もう一度、あの場所を見てみたくなった。
ザ・フーを観に行く。
「アイ・キャント・エクスプレイン」で始まって、「ウォント・ゲット・フールド・アゲイン」で終わり。アンコールが「トミー」のダイジェスト。トータル2時間。
リンゴ・スターのせがれがどうもいけない。いちいち指摘するのもアレだが、キース・ムーンとの比較の対象にはならない。
キースの後任をオーディションで幅広く探すという試みが、今からでもいい、徹底的になされるべきではないだろうか。フロントの2人が元気なだけに、そう思えてならない。
「モーセと一神教」を読む。ジークムント・フロイト著。ちくま学芸文庫。「魔女とキリスト教」からのリンク。
読んでいて、牽強付会、という言葉を思い出した。どこまでまじめにこの本とつきあうべきなのか。
これほど読みづらいのはどうしてか。本の内容よりも、表現の小難しさが印象に残ってしまう。二重否定(三重否定?)がやたらと多い。自分の主張に自信がないからこうなるのか。昔読んだ「幻想の未来」とは大違いだ。
ただ、「どんなに強く神を信じても、自分たちを取り巻く厳しい現実に何の変わりもない。だからユダヤ人は、自分たちが作った戒律を守ることそれ自体の中に、満足感や幸福感を見出した」、という記述には、説得力を感じた。このことは、かつての連合赤軍に当てはまるし、似たような例を現代のわれわれの学校生活、会社生活の中に見出すことは、容易ではないだろうか。