書いているうちに、なぜか止まらなくなった「ひとこと感想」その15。
上映主宰の方は「200回記念上映会にはこの作品を・・・と、以前から思っていた」とか。私は以前、原作小説(日本語タイトル「殺人容疑」)を単なる外国のミステリーと思って読んで、第2次大戦時の日系人収容所の話が出てきて驚いたことがある。(本の原題が「ヒマラヤ杉に降る雪」とそのとき知って、内容的にはその方がずっと相応しいと感じ、どうしてそのままのタイトルにしなかったのか不思議だった)
今回はデジタル上映で、主宰者が「フィルムだったら・・・」と残念がっておられたけれど、私はスクリーンで観る機会があっただけでも良かったと思った。
映画化されたこの作品を、TV画面で一度観たことがある私が、「いつか(できればスクリーンで)もう一度観たい」と思っていたのは、ハツエ(工藤夕貴)が初恋の相手(イーサン・ホーク)に、「私は貴方を心から愛していました。でも、愛してはいなかったのです」と告げる、その意味を確かめたかったからだ。その言葉の裏側にある、さまざまな事柄(当時の日系人差別、戦争が勃発し強制収容所送りになること、家族が決して2人の交際を望んではいないこと・・・等々)は私なりに多少は想像できても、告げる彼女の思いつめた表情、眼差しの強さは、それ以上のことを語っていると、以前観たとき感じたのだと思う。
結局・・・今となっても、私はハツエの気持ちがよくは解っていないのかもしれない。わかるけれど、わかると言ってはいけないような気持ちは、今回観ても変わらなかった。
むしろ今回自分の中に残ったのは、「赦すことで人は解放されるんだな・・・」という感慨のようなものだった。安堵の気持ち・・・かもしれない。ハツエより相手のイシュマエル(イーサン・ホーク)の苦しみ(怒り)の方が、見ていて辛い気がしたのかも。
白人が亡くなり日系人がその犯人と疑われた場合、当時はどれほど「偏見」だけでコトが決まっていくのかを描く描写が恐ろしい。(知的エリートのはずの検事さえ、証拠も何も無いような発言を繰り返し、判事に窘められるシーンもある) 一方、被告である日本人(ハツエの夫)は石のような無表情で、自分の無実を本気で訴えているようには見えない。
この夫の無表情は、多分「士族」の出だからだ・・・と気づいたとき、私は当時の白人と日系人との摩擦の一端を見たような気がした。必要以上に自分を弁護しようとすることは、「武士としては恥ずかしい」行為だった筈。老弁護士はそのあたりの機微を解っている人だったのだろう。「人は罪によって裁かれるのであって、人種によって裁かれるのではない」というのはそういう意味も含めてのことのような気がした。
この弁護士(マックス・フォン・シドー)の他、判事(ジェームズ・クロムウェル)や、自身記者でもある地元新聞社主(サム・シェパード)など、「良きアメリカ人」を体現するような人々を見ていると、こういうアメリカの良さがこの先も失われずにいくといいな・・・などと思ってしまった。(その昔の「よき日本人」についても事情は同じ?なのだけれど)
映画の中に登場する日系人や収容所の様子がとても自然に見えるのに感心していたら、エキストラの人たちの中に多数、1940年代の収容所経験者がおられたことが関係していると知った。日系人への敬意を感じさせる描き方は、監督さんがオーストラリア出身ということもあったのかもしれない。
報告とお礼がすっかり遅くなりましたが、過日の拙サイトの更新で、こちらの頁をいつもの直リンクに拝借しております。
拙日誌に「アメリカン・スピリッツの非常に良き部分だと思うが、近年とんでもなく後退してきている気がする」と記したものと呼応するように「こういうアメリカの良さがこの先も失われずにいくといいな・・・などと思ってしまった」とお書きのところに思わず頷きました。
でもって、「その昔の「よき日本人」についても事情は同じ?なのだけれど」と付言しておいでのところに感心しました。
どうもありがとうございました。
「良き○○人」なんて言葉はもう死語?で
今の時代、その方が自然なのかもしれませんが
それでもそのことを残念に思う自分がいます。
それくらいこの映画の「弁護士」「判事」「新聞社主」は
大切にしたくなる人たちでした。
いい映画でしたね。
工藤夕貴さんも、彼女の良さが生かされてる
映画だったと思います。