眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『ずっとあなたを愛してる』

2010-05-27 12:55:26 | 映画・本
(この記事は、映画の結末に触れています。未見の方はご注意下さい。)




「静謐」という言葉が浮かぶくらい、静かで美しい映画だった。

この映画で描かれているのは、心に深い傷を負ったひとりの女性が、長い時間をかけてほんの僅かずつ、それでも「癒されて」いく過程・・・ということになるのだろうか。それは本当に僅かずつの変化であって、映画はそれをきめ細やかに丁寧に、言葉の説明ではなく人々の日常のエピソードを重ねることで描いていく。


あらすじを少しだけ。

15年の刑期を終えて出所した姉を、年の離れた妹は自宅に引き取ることを申し出る。姉の逮捕後、両親は妹に姉のことは忘れるよう命じ、2人はその後会うことも手紙のやりとりをすることも無かった。それでも、妹は姉との家族としての絆を確かめたいと思い、姉は姉で幼かった妹の顔を思い出して、予想もしていなかった申し出を受ける決心をする。

彼らの父親は既に亡く、妹の元に身を寄せた母親は、その後認知症を発症して施設に入所し、今は娘の顔も判別できない。妹の夫は、姉との同居に心から賛成しているわけではなく、ベトナム出身の幼い養女2人にも姉の事情は告げていない。同居している夫の父親は、病気の後遺症で話すことができず、いつも書斎で本を読んでいる。

姉は2週間に1度警察に出頭し、担当官の警部と会わなければならない。また、地元の大学に職を得ている妹の同僚は、出会った最初から姉に興味を持つ・・・。


「あらすじを少し」と言いながら、無味乾燥な設定説明を長々と書いたのは、このささやかな物語の登場人物たちの背景の多彩さを、少し整理したくなったからだ。しかし、書いているうちにそれが結構難しいことがわかってきた。

たとえば2人の両親は、片方(たぶん母親)はイギリス、片方はフランスの出身で、姉妹も幼い頃はイギリスに暮らしていたらしい。姉が逮捕された後、妹はフランスの大学に進み、結局そこで就職・結婚する。現在の自宅はロレーヌ地方の街にあり、夫は地元出身で、ドイツ・フランス両方の血を引いており、養女たちも実の姉妹ではない(あちこち記憶違いだったらゴメンナサイ)・・・といった説明が、映画の冒頭にされていたと思う。

地理的・文化的多彩さだけでなく、各人の過去についても、ひとりひとりさまざまな背景がある。

警部は別れた妻に娘との面会を許してもらえず、「孤独は人間にとって良くない。」と、姉に自分の境遇を語る。妹の同僚は、かつて刑務所の教官だった時期があり、「それ以来ものの見方が変わってしまった」と話す。

母親が入所している施設のシーンでは、病いを抱えたさまざまな人々の姿が垣間見られ、映画の終盤街路を歩く姉たちの傍を、車椅子の若い人たちが競うように走っていく・・・といった具合だ。


家庭の中でも外でも、これほど多様な人々がそれぞれの「過去」を抱えたまま、偏見や摩擦がありながらも、それなりに「淡々と日を重ねる」ことができる・・・という現実自体が、私の眼に染みた。

自分と異なるモノを受け入れて、同じ場所で共に暮らすということ。刑期を終えた人の就職の仕方一つを取っても、社会の成熟度が違うというなら、確かにそうなのだろう。

もちろん人が抱える孤独は、そういったことだけでは解決はつかない。「多彩な背景」はそのまま「孤独」に繋がるものだとも思う。


実は、私は終盤、姉ジュリエットがなぜ6歳の息子を殺したのかが明らかになってから、曰く言い難い微妙な感情が消えなかった。


ジュリエットは元々は医師(研究職の?)だという。息子は重病(末期がん?)で、助かる可能性は無いのが明らかだったという。

苦しむ子どもを見るに見かねて、彼女は病院から別荘へと許可無く連れ出す。

「静かな時間を2人で過ごした」後、息子を安楽死?させたのだと妹に告げるシーンが、この映画の山場になっている。それまでジュリエットは、裁判においてさえ、息子を殺した理由を口にすることがなかったのだ。

刑務所にいた間、彼女は「毎日、ただただ歩いていた。」と言う。誰にも心を許さず、あの「拒絶」のオーラを纏って、室内を、廊下を、時に屋外を歩く彼女の姿が目に浮かぶ。それは映画の冒頭、出所して空港のロビーで妹の迎えを待つ彼女の表情に、そのまま現れていたものだ。

そんな彼女が、彼女を尊重しようとする人々の間でそっと見守られながら日を重ねるうちに、外側から人為的にではなく、彼女の内側から少しずつ変化していく・・・。

そして、妹の家族に本当に受け入れられ、理解者も現れ、やがて新しい仕事や住居も整い、自分が本当に「居てもいい場所」が、自分の外側と内側の両面から形作られ、整っていく・・・。

映画の一番良い部分は、そういうジュリエットと彼女を取り巻く人々の「現在」にあるというのに、私は彼女の「過去」について、どうしても消えない苦味を感じていた。

その苦味、先に「曰く言い難い微妙な感情」と表現したものについて、もう少し書いてみる。


息子の手紙を見たとき、私はその子の顔が見える気がした。6歳の、年齢より早熟で頭の良い男の子の顔だ。

現実の私は、我が子の重病の経験も無く、自分自身子ども時代に身体が弱かったとはいえ、余命が取り沙汰されるような病気になったこともない。

だからこれから書くことは、私のまったくの想像だ。


私は、ジュリエットの息子が母親に向かって、「こんなに苦しいのはもうイヤだ。」と訴えることはあったとしても、「もう死にたい!」或いは「ママ、僕を死なせて!」とは、言わなかったと思う。

映画では、過去の事情にはあまり触れておらず、実際にどういう状況だったのか、ジュリエットが何をどう思ったかは、あまり語られない。それは、意図的にそうなされているのだと私も思う。

それでも・・・私は子どもが死を、それも母親の手による死を望んだとはどうしても思えないのだ。


私の想像が続く。


ジュリエットは、愛する息子の苦しむ姿を傍でただ見ているだけという、「自分の苦しみ」に耐えられなかったのだと思う。

なぜ息子を殺すほどにまで彼女が追い詰められたのか・・・というのも、なんだか目の前に見えるようだ。

彼女は「一緒に苦しんでくれる」そして彼女の「特別な苦しみ」を少しでも理解してくれる人が、身近に居なかったのだと私は思う。

「特別の苦しみ」というのは、1つは彼女が医者だということだ。医療に従事する者(研究者ならむしろそれ故に)として、彼女は自分の無力を痛切に感じただろう。

もう1つは、息子は彼女のほとんど唯一の「家族」だったのかもしれないということだ。(彼女と夫との関係も、離婚前からどこか微妙なモノを感じさせる。)


ジュリエットや妹のレアが育ったのが、暖かい家庭だったとは到底思えない。

彼女が殺人罪で逮捕された後、レアに、姉はいなかったと思うよう命ずる両親。刑務所にいる15年間、手紙のやりとりもさせず、自分たちも面会にも行かない・・・そういう人たちが、本当の意味で子どものことを大事に思っていたとは、私には思えない。

ジュリエットに対してだけでなく、レナに対しても、それは残酷な仕打ちだったと思う。(実際、レナが負った傷の深さも、私にはちょっとオソロシイものがある、)

なぜそういうことができるのか・・・それほど「体面を重んじる」ことが重要だったのか、或いは「孫を殺された」ことに腹を立てたのか、それとも「上出来の、誇りに思っていた娘」に「(期待を)裏切られた」という怒りに燃えたのか・・・。

何にせよ私の眼には、彼らの両親は「子どもより自分」を取った人たちに見える。それも、世間的な常識で身を鎧って、あたかも「当然のこと」をするかのように。


確かに普段の生活では、親が子どもより自分を優先することは珍しくないし、むしろ当然だと私は思う。その方が長い目で見て良い場合も多いはずだと。(・・・日々そればかりで暮らしてきた私がヌケヌケと口にするのは、ちょっとハズカシイけれど。)

しかし、子どもにとって本当に苦しいとき、ある種「正念場」とでもいうべき、持ちこたえなければいけない山場において、当然のように(多くは子どものためにという理由で)「子どもより自分」を優先してしまう親を、私は許せないのかもしれない。

たとえそれがジュリエットのように、「迷いに迷った揚句」(だっただろうと想像する)であろうとも。

彼らには、子どもが(どんなに幼くても)ひとりの人間であることが、全く頭に浮かばないかのように、少なくとも私には見える。子どもと自分の区別がついていないということなのかもしれない。子どもの側から言うと、ひとりの人間としての人格を、全く認めてもらえていない気がするのだ。


当時のジュリエットが「互いに支え合う家族」を持てなかったように見えるのも、私には辛い。そういう両親に、妙なモラルを押しつけられて?育った彼女は、知的な人であったが故に余計に、他者に「苦しみを打ち明ける」ことが難しい性格だったかもしれない・・・とも、思うからだ。

「理解されることを望む」こと、「苦しみを訴える」ことを最初から諦めている人の、「拒絶」のオーラは痛々しい。(今となると、私にもそれがわかる。かつては、自分も纏っていたことがある?ものだから。)


映画を観終わって、私の中に長く残った「曰く言い難い微妙な感情」は、そういったさまざまな内容を含んでいる。


要するに、ジュリエットの「罪」について、私はどうしても冷ややかに見てしまう部分があるということなのだろう。それは、彼女の「事情」を、私が「理解しようとしない」ということなのかもしれない。

私の中のコドモが、未だにそれを許そうとしないのだ。(たとえ、私自身息子たちに同じようなことをしてきたのだと、頭でわかってはいても。)

彼女が医師であることも、私を困惑させる方に働く。

素人が「安楽死」を実行に移すことは、技術的にもそもそも難しい。医療従事者であることがその敷居を下げたのだとしたら・・・私は何と言っていいのかわからない。それは医療に携わる者が、絶対にしてはならないことの1つだと思ってしまうからだ。


けれど・・・なぜだろう。ここまで書いてきて、少し気持ちが変わってきた。


「理解できない」はもちろん、「理解しようとしない」というのも、「多様性」には確実についてくるものだと思う。

実際は、さまざまな人間が同じ場所で暮らすとき、「多様性」という意味では、一人一人を見るなら、人はそれほど違っていないものなのかもしれない。

そういう場所では、強固なスタンダードなど意味がないだろう。レナの同僚が語った「囚人たちと自分は同じ人間で、いつ立場が入れ替わっても不思議じゃない。それ以来、ものの見方が変わってしまった。」というのも、そういったことだろうと思う。


人は通常、ひとりでは生きられない生き物だ。だから互いの事情を(自分にはさし当たって「理解できない」ものであっても)「尊重」しながら、ほんの少しずつでも「理解しよう」という姿勢で、互いの距離を見計らいつつ共に生きていくことが求められる。

ジュリエットの「罪」も、その中では特別なものじゃない。

それは、何もできないまま、これまでの人生が「ただ息をしてきただけ」のような自分にとっては、ごく当たり前のことでもある。(そして、ここまで執拗に書いてきたジュリエットの「罪」に対する違和感とそのこととは、私の中では矛盾しない。)


警部はこの世を旅立つよりは、実際のオリノコ川を見に行った方が良かったのに・・・と、私などは思う。それが、彼の思い描いている場所とは全く違うものだったとしても、同じ「旅立つ」ならその方がいい・・・と。

けれど、警部の死がジュリエットに与えた衝撃が、彼女のその後に影響を与えたのも本当だと思う。


こうして思いを巡らしてくると、この映画はジュリエット個人のことではなく、人が生きるということの大河のような様相を、注意深くささやかに切り取って、丁寧にそっと描いた作品のように思えてくる。

些末なことをあれこれ言い募った自分が、なんだか馬鹿げて見えてきた。それらはこの大河の前には、結局の所大した問題じゃない。


なんだかジュリエットに対して感じていた違和感も、どこかに行ってしまった気がする。

今となると、窓ガラスを伝う雨と「ここにいるわ」という彼女の声だけが、この映画の記憶として私の中に残るのかもしれないな・・・。










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6 コメント

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予告編見ました。 (まゆりん)
2010-05-27 15:23:00
予告編を見ました。

家族の愛と再生の日々と書いてありましたが
非常に重いテーマですね。。

主人公のクリスティン・スコット・トーマスは
「イングリッシュ・ペイシェント」にも
出演されてたんですね。
「イングリッシュ・ペイシェント」は好きな
映画の1つです。

ムーマさんの解説で見てみたくなりました。
とても美しい映画です。 (ムーマ)
2010-05-27 19:33:09
『イングリッシュ・ペイシェント』がお好きなら、この映画もいいかも・・・なんて。
クリスティン・スコット・トーマスがとてもとても印象的に演じてます。他の出演者も、胸に染みるような役柄だったりします。

まゆりんさんのおっしゃるように、非常に重いテーマなんですが、観た後、明るい何かが残るんですよ。

いつか気が向いたときにでも、ご覧になってみて下さい。なあんて言って、また『重力ピエロ』みたいに疲れさせちゃったらゴメンナサイね(笑)。

それより、こんなクダクダ長いものを読んで下さって、本当にありがとうございました。(そちらで疲れさせたんじゃないかと、ちょっと心配です。)
そんなことないですよー^^ (まゆりん)
2010-05-27 19:38:25
ムーマサンの文章、とても好きです。
自分もムーマさんみたいに知的で深い文章を
書きたいのですが、全然だめです><

いつも尊敬します^^
本当の映画評論家さんみたいですもん。
ありがとうございます(深々お辞儀) (ムーマ)
2010-05-27 20:16:09
まゆりんさ~ん、そんなに言っていただくとハズカシイです。
でも「文章が好き」と言われると、とっても嬉しいです♪ 
重ね重ね、どうもありがとうございます。

私もまゆりんさんの日記、いつも楽しみにしています。
そういえば、この映画に出てくる妹レナはちょっとまゆりんさんを思わせるような人なんですよ(本当)。
とても優しい人で、ヒロインは彼女に見守られて少しずつ生気を取り戻していくんですが・・・。
もしもご覧になったら、私がそう言ってたことも思い出して下さいね(笑)。
報告とお礼です。 (ヤマ)
2010-08-01 00:13:51
ムーマさん、こんにちは。
 今回の拙サイトの更新で、こちらの『ずっとあなたを愛してる』を例の直リンクに拝借しております。
 ジュリエットの苦しみについての考察を大変興味深く読みました。この件に限らないことですが、むしろ一般的に、誰それのためと敢えて言うときの9割がたは、自分のためだろうと僕などは常々思っているのですが、そういう点からも共感至極でした。おそらく彼女の本当の苦しみは、その後にやってきたのではないかと思っています。
 どうもありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。 (ムーマ)
2010-08-01 05:45:26
ヤマさ~ん、リンクして下さったこと、とても光栄です。ありがとうございました。

「おそらく彼女の本当の苦しみは、その後にやってきたのではないか・・・」
私もそう思いました。刑務所の中を「ただただ歩き続けた」彼女の姿を想像すると、本当に痛々しいです。

でも・・・この記事の中ではほんの少ししか触れませんでしたが、私は「警部」のことが一番ショックだったかもしれません。(彼のことを別に書こうかと思ったくらい。)

これだけ時間が経っても、いろんなことが思い出されます。
ヤマさんとこの掲示板での談義も、本当に面白くて、ワクワクしながら読んだの思い出します。

いい映画でしたね~。

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