眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『おみおくりの作法』

2015-06-08 09:28:08 | 映画・本

この記事は映画の結末に触れています。未見の方はどうぞご注意下さるようお願いします。



予告編を見たときは、日本映画の『おくりびと』みたいな作品かな・・・と思った。でも実際は、もうちょっと違う雰囲気・内容の映画だったと思う。

原題は ”STILL LIFE”。「静かな生活」?とか思ってしまったけれど、「静物画」のことらしい。確かに、映画は冒頭、静物画を思わせる主人公の日常描写から始まる・・・

ロンドン市ケニントン地区(なんだか地方都市みたいな街並~)の民生係、ジョン・メイは、ひとりきりで亡くなった人を弔うのが仕事だ。事務的に処理することもできるこの仕事を、20年間、彼は誠意を持って一つ一つ丁寧に行ってきた。

遺品から情報を得て遺族を探し、連絡が取れれば葬儀への参加を勧める。だが、これまではほとんど、葬儀に来た遺族は無かった。さまざまな事情から、人は長年遠ざかっていた身内の葬儀に、わざわざ行こうとまではしないものなのだ。

ジョン・メイは、遺品から得たささやかな情報をふくらませて、牧師や神父の読む弔辞を書き、葬儀で流す音楽を選ぶ。そのための数多くのCDが、彼の家の本棚に並んでいる。そして弔いが終わると、亡くなった人の小さな写真を持ち帰り、夜、専用のアルバムに貼っていく。それが「仕事」の仕上げ・・・というように。

このジョン・メイという人の設定が面白い。

毎日同じ服を着て、同じメニューの食事を取り、道路を横切る時は、車が全く見当たらなくても左右を必ず確認し、身辺はいつも整理整頓され・・・と、万事規則正しく、「きちんと」している(ちょっとし過ぎ?の気がするくらい(^^;)。

「孤独死」した人たちの魂が、品位ある方法で弔われ、安らかに眠りにつくよう取り計らう・・・という彼の仕事のやり方と共に、そんな決まりきった日常を、ジョン・メイは気に入っているらしかった。独身で、自身身寄りのない彼は、死者と近しく付き合い、「他人の人生を調べる」この仕事に、満足していたのだと思う。

ところが・・・

効率を追求する時代の流れで、ある日彼は上司から、人員整理の対象と知らされる。今の仕事と生活を、人生の最後まで続けられると疑わなかった彼にとっては、驚天動地の出来事だった。

最後に担当することになったのが、自分の住む団地?の真向かいの部屋の人だったことにショックを受けてもいた彼は、辞めるまでの3日間を使って、その男性の人生の軌跡を訪ねる旅に出る。それはイングランド中を駆け回るような、おそらくは彼がこれまでにしたこともないような旅だったのだが、その間に、亡くなった男性は、ジョンとは正反対のような、ドラマチックな人生を送った人だったことが判ってくる・・・


この映画は、あまり言葉多く説明しようとせず、ただじっと見ているだけで、さまざまなことが判る(感じ取れる)ような作り方をしている。テンポもゆっくりとしているので、アタマがよく回っていない私のような観客には、安心して観ていられる、近頃珍しい?ような作品だ。

「静物画」を思わせる主人公の日常、生者よりは死者との距離が近い?ような主人公の人物設定にも、世の中から離れて暮らしている私は、どこかで親近感?を感じたりした。

何より、演出にユーモアが漂っていることもあって、このジョン・メイという40代の善良な男性は、どこか、とても可愛らしいのだ(^^)。(彼を演じたエディ・マーサンという俳優さんの個性と演技力が絶妙~)

だからだろう・・・物語が進むうちに、私は最初の頃に薄々自分でも予想していたラスト(映画の作り手は、あのラストを見せたいがために、この映画を作ったのだと思う)を、だんだん思い出さなくなっていった。

亡くなった男性の娘さんと、少しずつ心が通い合っていくうちに、ジョンは髪型も若くなり、身に着ける服の色合いも明るくなって、表情も豊かになり・・・と、画面全体が、明るく生き生きとしてくる。

ああ、この人は「生きている」幸せを感じ始めたんだな・・・と思い、こちらにも微笑みが浮かびそうになった瞬間・・・映画の作り手はバッサリ!「神の手」で物語を変えてしまう。


・・・・・確かに、映画において監督(この映画では脚本も書いている)というのは、「神サマ」みたいな存在かもしれない。

でも・・・それでも・・・私は一瞬、本気で腹が立った。現実では、こういう出来事も珍しくはないかもしれない。それでも、大声で「神サマの意地悪~~~!」と言いたくなるくらい、私はクヤシかった。

しかし、「その一瞬」を過ぎた後、スクリーンに大きく映るジョンの顔には特に驚きの表情もなく、やがてごく微かな笑み?のようなものさえ浮かんでくる・・・ように見える。

やっぱりこの人は、「静物画」(死の支配するような空間)の中の、小さな黄色い林檎みたいな人だったのかなあ。ふとしたことがきっかけで、絵から転がり出た彼は、やっぱり早々に、静物画に戻っちゃったんだろうか・・・

割り切れない・・・でも、なぜか涙が出てきてしまうラスト・シーン。

それでも、もしもジョンがこれでいいと思っているのなら、こういう人生もありなのかなあ・・・と思ったりして、私はなんとなくシオシオとぼとぼ、小さな古い映画館を後にした。

そして数日後、ジョンのあの「ごく微かな微笑み」をどうしても確かめたくて、もう一度この映画を観に行った。2回目に観るこの映画は、まさに「静物画」の世界に見えた。そして・・・

なぜか、わからないなりにこの結末、このラスト・シーンに納得する気持ちになった。それでもやっぱり、自然に涙が出てきたけれど。


 

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4 コメント

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同じく (お茶屋)
2015-07-02 21:28:38
ジョン・メイが死んだとき、「酷すぎる」と私も思いましたよ~。そのままだったら、救いのない後味の悪い映画だったと思います。ところが、お迎えがあったので、それですっかり救われました。一気に後味が良くなちゃった。

神さま(作り手)は、ジョン・メイの命を奪い、生き方を祝福したと私は単純に思っていたのですが、ムーマさんの感想を読んで、いろいろ考えましたよ~。

「お迎え」(ムーマさんの場合はジョン・メイの死にぎわの微かな笑顔?)というイマジネーションを差し挟むだけで、理不尽に思われた死の印象がコロリと変わる。「ものは考えよう」ということを描いたのかもしれない・・・ってことから始まって(笑)。
可愛らしい人だったので、つい・・・ (ムーマ)
2015-07-03 18:35:07
お茶屋さ~ん、

「お迎え」って、いい言葉ですね~。
『かぐや姫の物語』の「お迎え」の音楽が浮かびます(^^)。

お茶屋さんの「神さま(作り手)は、ジョン・メイの命を奪い、生き方を祝福した」という言葉を見て
なるほど・・・と思いました。
そうかあ、ひと言で言ったらそういうことなのか・・・と。

私はいつのまにか、主人公に相当感情移入して観てたみたい。
あのジョン・メイっていう人の可愛らしさ(としか言いようがない(^^;)に
つい、釣られちゃった?んだと思います。
(あの俳優さんはタイヘンな名優だったんだ・・・って初めて知りました)
「現世で幸せになってもらいたい」って
つい本気で思っちゃった。

でも、仰るとおり後味は悪くなかったです。
神サマにも見送った人々にも「祝福される」っていうのは
ああいうことなんだろうな・・・って。
そういう意味では納得のいくラストだったと、今は思っています。
報告とお礼に参上しました。 (ヤマ)
2015-10-10 23:29:25
ムーマさん、こんにちは。

 先月末の拙サイトの更新で、こちらの頁をいつもの直リンクに拝借したまま、報告とお礼に参上するのがすっかり遅れてしまっておりました。申し訳ありません。

 僕も「最後の場面は、おみおくりではなく、おむかえ」だと感じていたので、お茶屋さんとのコメント、共感とともに読みました。

 「それでも・・・私は一瞬、本気で腹が立った」との弁、いいですね。死をどのように扱い、死はどのように扱われるべきか、いろいろ触発してくれる作品だったことが実に率直に語られているところに、大いに感心しました。

 どうもありがとうございました。
ありがとうございます(^^) (ムーマ)
2015-10-11 13:25:36
ヤマさ~ん、

いつもリンクとご報告、本当にありがとうございます。(遅くなったなんて言われると恐縮してしまいます。かえって申し訳ないです(^^;)

>死をどのように扱い、死はどのように扱われるべきか、いろいろ触発してくれる作品だった

ほんと、そうでしたね~。
そのために、あのジョン・メイのような「死の世界」に近しい(親和性が高い?)ヒトが必要だったんだろな~なんて、あとからしみじみ思いました。

「本気で腹が立った」のを褒めて下さって嬉しかったデス。なんかすーっとしました(^^)。

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