発題 無教会と若者
倉井香矛哉
文学研究者、音楽家。西南学院大学国際文化学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。日本学術振興会特別研究員DC1を経て、現在は独立系研究者。学問と芸術の運動体イクトゥス・プロジェクト、白十字キリスト教社会主義研究会を主催するほか、無教会全国集会準備委員、『内村鑑三研究』編集委員会事務局、NPO法人今井館教友会事務局(管理人)を兼務。 ※性別違和(gender dysphoria)により筆名。
・はじめに
今日は、「無教会と若者」と題して話しますが、その前に、自分自身の信仰的な来歴を少しだけ話しておきたいと思います。
初めて無教会の全国集会に参加したのは、二〇〇七(平成一九)年一〇月、青山学院大学のガウチャー記念礼拝堂で開催された年でした。ちょうど福岡県にある西南学院大学から早稲田大学の大学院へ進学した一年目に当たります。正直なところ、異常なほど頭の良い人がキャンパス内に大勢生息していて、「ついていけずに目が回っていた」というのが実情でした。また、上京して半年ほどで、研究室の人間関係にも疲れてしまいました。そんな僕が信仰に至ったのは、ちょうどその年、大学院一年目の一二月のことです。当時、大学院の同期たちでつくる研究誌の編集長の役割を引き受けて、家庭教師のアルバイトをこなしながら何とか生活していましたが、福音に強められる実感の中で乗り越えることができました。煩雑な研究誌の印刷作業も、自分が編集長として頭を下げ、責任を取ればいい、という思いで乗り切りました。「自己を棄てて、他者のために尽くす」こと。当時は、「それがキリスト者の生き方である」と本気で思っていました。
しかしながら、「自己を犠牲にして、他者のために尽くすこと」は、場合によっては「謙遜な傲慢さ」の現われです。どんなに頭を下げたところで、印刷所に迷惑をかけたことは帳消しにはなりません。また、そのような生き方は、自分自身にも無理を強いることになります。先述のように、大学院一年目、福音に強められる実感の中で、さまざまな困難を乗り越えました。しかしながら、その翌年、まるで反動のように、一気に精神的な空虚さに飲み込まれる経験をしました。結局、大学院の修士課程二年間では修士論文が仕上がらず、在籍年数を一年延ばして、さらにその後、研究室移動を経験するに至ります。……先ほど、野々瀬真司さんの発題のなかで、抑うつ状態の学生が増えている、という問題提起がありました。他でもなく、現在、僕は双極性障害(いわゆる躁鬱病)の疑いで、二週間に一回通院しながら人生を送っています。また、振り返ってみますと、大学院生活の後半三年間は長期的な抑うつ状態で、日本学術振興会の特別研究員として研究費を支給されていながら、大きな成果をほとんど上げないままアカデミアを去っていった、というのが実際のところです。その後、二〇一三(平成二五)年四月に大学院を退学し、「独立系研究者」を名乗るようになりました。現在、無所属研究者、在野研究者、独立系研究者、といった大学等の研究機関に所属しない個人研究者が増えているようですが、僕の場合は、「他に名乗りようがないから、そう名乗っていただけ」で、特に積極的な意味はありません。
なぜ、大学院を退学することになったか? 一言でいえば、「無理をしすぎた」からです。言い換えると、「自分自身の内なる声に耳を傾けなかったから」です。退学当初、夏目漱石がイギリス留学中、精神的な苦悩のなかで見出したという「自己本位」という言葉をしばしば連想しました。漱石は、「この自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」と語っています。のみならず、彼は、「その四字から新たに出立した」といいます(※発題者註:以上、カッコ内の文章は、夏目漱石『私の個人主義』を引用)。しかしながら、僕自身がこの「自己本位」という言葉を理解するまでには、さらに数年かかりました。二〇一三(平成二五)年、大学院を退学したときに、「無理をしないこと」、「自己自身の声に耳を傾けること」を最優先するつもりでいました。しかし、これは双極性障害(躁鬱病)の特徴ですが、いわゆる“躁状態”のスイッチが入ると、周囲の逆風に立ち向かってでも大事業をはじめてしまうわけです。もはや大学に籍はないのに研究発表の予定を入れて、首都圏にとどまらず、京都大学や福島県のいわき明星大学に行き、拙い発表をくり返しました。また一方、音楽家としてアイドルグループに楽曲提供をして、北海道から沖縄まで、旅費のことも考えずに旅をしました。さらに二〇一五(平成二七)年には、民主党政権下で農林水産大臣を務められた山田正彦先生(カトリック信徒)のもとで、代々木公園の野外ステージや新宿駅アルタ前で開催された社会運動の事務局長を担当しました。いずれも、大事業といえば聞こえは良いでしょう。しかしながら、アカデミアの研究の場や、音楽市場、あるいは労働団体の参加する運動の中に、何だかよくわからない所属不明の奴が一人で混じっている。ハタからみれば大迷惑でしょう。いま思えば、地に足のついていないままに、精神が彷徨っていただけのように思います。それぞれ貴重な体験でしたが、周囲にも迷惑をかけたでしょうし、自分自身も疲弊した部分がありました。
昨年、二〇一六(平成二八)年に一旦「活動休止」を宣言して、ほとんど何もしない一年間を過ごしました。必要に迫られること以外、ほんとうに何もしない時間でした。夜遅くに映画を観に行ったり、ふらっと秩父のあたりまで日帰りで旅行したりしました。いま振り返ってみても、とても貴重な一年間であったように思います。また、現在は白十字の会(正式名称:白十字キリスト教社会主義研究会)という小さな集まりを主催しています。ほんとうに小さな集まりです。昨年一二月から毎月A3用紙一枚の機関誌『基督教友愛新聞』(略称:友愛新聞、フレンドニュース)を発行し、また、半年ほど定期読書会を開催してきました。読書会は一旦休止中なので、現在は紙媒体(友愛新聞)の刊行が主たる活動となっていますが、「自分で編集し、自分で印刷する」ことを基本に、必要最低限の自己負担だけで活動を継続することが可能です。これまでの数年間にわたる失敗をふまえた、「無理をしないこと」の実践例です。
このように、「無理をしないこと」、「自己本位」に生きること、そんな誰もが当たり前にやっていることに気がつくまでに、思えば一〇年の時間を費やしてきたわけです。
・「無教会と若者」について
さて、そのような自己自身の来歴をふまえた上で、本題に入りたいと思います。まず、「無教会と若者」という発題に関してです。これは全国集会の実行委員会の内部でいただいた発題ですが、そもそもの大前提として、「若者」を総称して語ることはできない、ということは何度でも強調しておきたいと思います。このことを間違えてしまえば、若者をめぐる取り組みはことごとく失敗に終わるでしょう。「若者と呼ばれる一人ひとりは、独立した内面を持った個人である」という当然の前提を充分に理解した上で、今後の異世代連携を考えていく必要があると思います。
さて、その上で、無教会における「若者」をどう考えるか。一一月下旬刊行の研究論文(発題者註:「現代日本人と「心の闇」の構造-〈神〉の不在の「近代」における「虚無主義(ニヒリズム)の克服」の可能性」、『アレ』Vol.3に掲載)のなかで、近代日本において内面、自我、個人といった概念が獲得され、その後、ポストモダンの時代にそれらの概念が解体されていく過程を考察しました。思うに、明治期に内村鑑三という卓越した伝道者が現われたのは、云わば、「時代が彼のような存在を必要としていたから」でしょう。一方、現在の21世紀は、ソーシャルメディアの普及が一つの画期をなしているように、「群衆による協同の時代」です。そうであれば、独立した伝道者という特権的な主体がエクレシアを率いる、というあり方は、もしかすると今後は難しくなっていくのかもしれません。この点でいえば、各地の家庭集会で行われている平信徒伝道という無教会の集会のあり方には、今日的な意義が充分にありうると思います。
ただし、もう一つの問題があります。それは、家庭内での信仰の継承が難しい、という声が時折聞こえてくることに関連します。他でもなく、僕自身が現在キリスト者として生きている事実は、家族の前では基本的に内緒にしています。僕がキリスト者として生きていくためには、家族との距離を適切に取りながら生きていくしかありません。また実際、そういった事情を抱えている方は多いと思います。しかしそうなれば、家庭集会というかたちで信仰を守っていく平信徒伝道というあり方にも、暗雲が立ちこめることになります。信仰を継承する友人はおろか、家族すら持たない一人ひとりはどのように生きるべきか。今後はむしろ、一人ひとりの信徒が、信仰を持たない圧倒的多数の群衆に向けて、いかに語るか、いかにして共に生きるか、それこそが問われる時代といえるのかもしれません。
とはいえ、これはけっして絶望的な状況であるとは限りません。最近気づいたことですが、僕は、三歳の時にオスカー・ワイルドの児童文学に導かれて、内面的にはキリスト教徒になりました。これを文字上の幼児洗礼と呼んでいます。以後、無宗教、世俗主義の家庭ではありましたが、振り返ってみると、基本的にはずっとキリスト者として生きてきた、という実感があります。大学院一年目に無教会の全国集会に参加するまでの約二〇年間、キリスト教の集会に参加することはほとんどありませんでしたが、それでもキリスト者として生きることはできました。求める心さえあれば、たった一人でも信仰を守ることは可能です。今後、社会の状況が変化するに連れて、これまでの信仰共同体は形を変え、やがては消えていくでしょう。しかし、僕はそれでよいと思います。これはけっして悲観的な予測ではなくて、未来の世代の新しい可能性に賭ける選択肢です。ソーシャルメディアが普及して、日本中、あるいは、世界中どこにいても、人々が互いにコミュニケーションを取ることができる。このような現状は、明治期、内村鑑三の時代からすれば、思いもよらないことでしょう。社会が変われば、信仰共同体もまた、これまでとはまったく異なる思いもよらない形態をとるかもしれない、ということは、充分に予測可能なことです。また、それは歓迎すべきことでしょう。
・まとめ
あらためて強調しておきたいことは、「無教会と若者」を考えるときに、その「若者」とは、独立した内面、自我、心を持った一人ひとりの個人である、ということです。なぜ、若者が集会に集まらないのか。それは、彼らの個別の内情を聞かなければ判断することはできませんが、少なくとも、「若者」には「若者自身の人生」があり、彼らなりの理由があるはずです。
ここでは示唆にとどめますが、非正規雇用が常態化し、尚且、奨学金の返済にも追われる中で、一部の恵まれた例を除いて、現在の若年層の生活は破綻していると言えます。場合によっては、土曜日、日曜日、それも深夜に至るまで仕事が入っていることもあるでしょう。そのような中で、毎週日曜日に礼拝を守ることは難しいことかもしれません。これは、若者自身の抱えている「個人的な事情」ですが、その背景にあるのは「社会の問題」です。現在の若者が生活の安定を主張することは、この世的な富や名声を求めているわけではなく、日本国憲法第二五条に規定されている「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利を主張しているだけです。「無教会と若者」を問うにあたり、我々は、現在の「若者」自身が直面している社会的な課題とどれほど真剣に向き合い、理解できているでしょうか。この一点を踏まえることをなくして、今後の信仰の継承、エクレシアの再建はあり得ないと思います。……以上で発題を終わります。