無教会全国集会2015

2015年度 無教会全国集会ブログ

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表紙

2016-01-29 12:16:16 | 表紙

無教会全国集会2015
「生けるキリスト」




記録集

2015年10月17日(土)~18日(日) 千葉県市川市 山崎製パン企業年金会館サンシティ


ご参考                           
 無教会全国集会2014     については こちら
 無教会全国集会2013     については こちら
 無教会全国集会2012・沖縄 については こちら
 無教会全国集会2011     については こちら



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プログラム

2016-01-29 12:15:53 | プログラム







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開会挨拶

2016-01-29 12:12:44 | 開会挨拶

無教会全国集会準備委員会
                  議長 坂 内 宗 男

  ご参集の皆さん、今年も又このようにして祈りを共にし、共通の課題に対して共に語り合う機会を与えて下さった主のお恵みに心から感謝いたします。
 今年の無教会全国集会は、1987年に開催以来29回目を迎え、来年は30回という節目に当たります。この間、様ざまな時代の変遷のなかで、私たち無教会キリスト者は、ただ「イエス・キリストのみ」に従って、組織やセクトにくみせず、世俗の荒波のなかで、主を証しして今日に至り来たのであります。

 その生き方をどう見るかはただ主のなさることではありますが、キリスト信仰とともに世間の評価はいかなるものか、地の塩としての生はいかなるものであるのか、絶えず検証が求められることも当然のことでありましょう。
思うに、共に相集い天に召された多くのお一人おひとりを想起するにつけ、かかる先人達が、2000年のキリスト教歴史の歩みと厚みに連なり、与えられた馳場を無教会信仰に立って全うされたことは事実であり、私たちはその重みを鑑(かがみ)として、聖書の指し示す真理を己がものと受止め、先人の御後に従って歩みたく切に願うのであります。

 今年は、特に戦後70年の節目にあって、わが国の右傾化の波は最も激しくあり、重大な岐路に立たされている今にあって、神の与え給うたわが国の平和憲法をいかに生かし、世界平和のために寄与するか、それこそがかっての帝国主義的犯罪行為、特にアジア諸国に対するそれにあって、謝罪の証しとして、絶対非武装平和の道を世界に示し、堅持することは、加害者たる私たちの責務と心得るのであります。

 そして今日、このような重大な節目にあって、ここに同じ同信の主に在る韓国の兄弟姉妹10数名を初めてお迎えしたことは、奇しき神の御摂理と受止めているのであります。最も過酷な日帝植民地支配の犠牲者にあられる皆様が、主にあって赦してくださり、共に祈る出会いは、キリストが中心におられなくしてはあり得ない出来事なのであります。しかも、かって、あの厳しい日本の圧政下にあって、東都に留学した朝鮮人学生が、奇しくも敵国日本においてキリストの福音に触れ、更に内村鑑三の今井館聖書集会の最前列に座した金教臣始め6人の青年を、内村をして「(感話に感じ)信仰のことに就いては大に朝鮮人に学ばざるを得ない」「愛国を語りまする時に、手に汗を握って聞く者は朝鮮の学生でありまして」と言わしめ、帰国するや「I for Korea、…」と朝鮮人魂をもって民族主義を超えたこの世のキリストの支配を信じて、迫害や投獄のなかで堅く信仰に立って無教会の群れを形成し、その流れにあるのが今日ここに立っている方々なのであることをあらためてかみしめたく思うのであります。しかも、キリスト教大国韓国にあって、韓国無教会はわが国と異なり、むしろ今持って異端視されている現況にある中で、純福音に立って真の福音の純化と個の精神的形成のために日夜努めておられる皆様が、わざわざこの集会に合わせてお出で下さったキリストにある愛に対して、心からの敬意と感謝を捧げる次第なのであります。

 まさに「生けるキリスト」が為せる業のもとに参集された皆さん!、ともに祈りまた学びを通して、恵みを分かち合い、与えられた場を大切にして今後にも生かしてくださいますよう願わずにはおられません。
最後に、韓国の方、初参加の方、お年寄り、若者へのお心遣いをよろしくお願いします。



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自分を離れて生きる

2016-01-29 12:09:48 | 主題講演

成澤 光

<主題:生けるキリスト>
はじめに
 本日の主題を確認しておきましょう。
 ガラテヤ書2章19~20節
 「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
 これと関連して、ロマ書14章7,8節を読みましょう。
 「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいない。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。

 わたし自身は、これらのパウロの言葉を自分の現実とはかけ離れたこととして受け止めてきました。わたしは「キリストがわたしの内に生きておられる」などとはとうてい考えられないのです。「生きているのはもはやわたしではない」などと確信もって言うこともできません。パウロのように言い切るためには、あまりにもわたしは自分中心であって、キリスト中心ではないからです。わたしはこの主題について講演する資格はないと思って、一度はお断りしたのですが、ふと、パウロのような信仰がないわたしの惨憺たる現実を、「自分を離れて生きる」ことの難しさとしてお話ししたいと思い直し、お引き受けした次第です。

1 個人的な経験から
 わたしの母は、11年前に91歳で亡くなりましたが、80代になったころから徐々にアルツハイマー型認知症が進行しました。次第に記憶障害、見当識障害(いま何月何日か、どこにいるのか分からなくなる症状)が顕著になり、徘徊して交番のお世話になったり、徐々に足腰が弱って寡黙になり、話しかけても無反応になるなど病状が進行していきまして、最後は寝たきりになりました。家族だけの介護には限界があり、老人病院や特別養護老人施設のお世話になりました。
 当時わたしは、母の見舞いに行ってもどう接していいのか分からず、言葉をかけても何の反応も示さない人の見舞いに、どのような積極的な意味があるのか分かりませんでした。ことばを交わせない、表情も動かない人を愛し続ける方法が分からなかったのです。
 しかし、亡くなってから10年以上経ったいまは、少しばかり人生経験や介護知識も増えて、あのときこうすればよかった、ああすればよかったと自責の念にかられています。ときどき母の遺影の前に立つとき、また、母が入居していた施設の職員から「お母様はいつも息子さんが来ると言って、門のところに長い間じっと立っておられました」と言われていたのを想い出すたびに、重い悔いが胸に迫ってわたしを苦しめます。
 結局のところ、当時のわたしには、聖書が教えているような、人に対する「無償の愛」が分からなかったのです。言葉を発することができなくても、あるいは、わたしの心づくしに対して何も感謝のことばを発しなくても、あるいは微笑一つ返せなくても、母を愛し続ける。それが十分にできなかった。最も身近な存在であり、長年愛し続けていたはずの母に対してすらそうなったのですから、そのほかの他人に対して無条件で心を開くことが、本当のところわたしには出来ていなかったのでした。

2 他人を愛することの難しさ
 こうした個人的な経験から考えましたのは、「人は本当に人を愛することができるのか。イエスが教えたように無償で(何の見返りもなしに)人は人を愛することができるのか」という根本的疑問です。「キリストがわたしのうちに生きる」ことなどほとんどあり得ない人間の悲惨について悩むようになりました。
 イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ。自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。兄弟だけに挨拶をしたからとて、何のすぐれたことをしているだろうか」(マタイによる福音書5章44、46、47節)と、驚くべきことを言われました。「自分を愛してくれる人を愛する」。「愛し、愛される」というのが普通の人間関係でしょう。しかし、イエスは「そうしたからといって何の報いがあるのか」と、われわれに鋭く問いかけています。イエスが教えていることは、「愛は一切の見返りを求めてはならない」と言い換えることができるでしょう。
 アメリカの精神科医、エリザベス•キューブラー•ロスもこう書いています。
「ほとんどの人は無条件の愛を望んでいる。しかし、哀しいことに、人は相手がその相手であるという理由だけで愛することに困難を感じるのだ」(『ライフレッスン』)と。
 つまり、ほとんどの人は人を愛する時、相手が何かを自分に返してくれることを期待しています。こちらの期待する通りに反応してくれない相手を、いつまでも愛し続けることはできないのです。まして自分に害を加える敵までも愛する、などということはとうていできないでしょう。イエスの教えは人間にはとうてい不可能なことなのです。
 ではなぜイエスは「敵を愛せよ」とまで教えられたのでしょうか。
 それは第一に、他人を愛せない人間の本質的な悲惨に気付かせるためではないかと思います。そしてさらに、それほど罪深いにも拘らず、イエスは人間を愛し続けて下さった、罪を赦して下さったということです。
 イエスが十字架に付けられたとき。弟子たちは一人の例外もなくイエスを見捨てました。しかし、イエスは十字架で死なれた後、復活した姿を弟子たちに見せられたとき、弟子たちに何と言われたか。自分を裏切った弟子たちを一言も責めることがなかったのです。「おまえたちはなぜわたしを見捨てたのだ」とは一言も言われませんでした。それどころかヨハネ福音書によれば、イエスはこう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ20章22~23節)と。イエスは弟子たちの裏切りを責めなかっただけではなく、逆に「赦す」ことを教えられたのです。
 マタイによれば、イエスは自分を官憲に引き渡そうとしたユダに対してすら「友よ」と呼びかけられています(マタイ26章50節)。イエスはその生涯を通して、「その友のために自分の命を捨てる、これより大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と言われ、真実の愛を教えられていたのです。それにもかかわらず、イエスの生前にだれも、「愛するとはどういうことか」理解しなかった。なぜでしょうか。

3 人間の自己中心性、自己保存性
  3.1 罪の原型 
 なぜ人間は無償で人を愛することができないのか。ささいなことで人を「赦せない」と思い込むのか。聖書は「無条件に神を畏れ、人を愛せよ」と教えているのですから、その教えに反して、神を畏れず、無償で人を愛せないということは、人間の根本的な「罪」です。しかし、そもそも「罪」とは何でしょうか。分かっているようで本当は分かりにくい言葉です。
 そこで、「罪」の一つの特徴を人間の「自己中心性と自己保存性」だととらえてみます。そうすると、ますます少し難しく聞こえるかも知れませんから、創世記から具体的に考えてみましょう。
 創世記には、最初に神が創造した人間アダムとイブが神の命令に背いて木の実を食べた話しを記しています。二人は神から「この木の実だけは食べるな」と命じられたにもかかわらず、神の言葉に従うよりも自分の五感と理性による判断を優先したのです。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と書かれています。最初にそう判断したのは女でした。女が男をそそのかしたと読むこともできますが、女は自分でよく考えて食べたのですからまだましだとも言えます。男は黙って妻に従っただけです。男には自分独自の判断がなかったとも読めるでしょう。夫は寡黙で、いつも妻の考えに従って生きる。いまでもよくあるパターンです。しかし、結果的に二人とも神の戒めを破って、神中心から離れ自己中心に行動してしまいました。
 神の命令に反して自分の判断を優先する。これが人間の「自己中心性」です。自分中心であって、神中心ではないのです。
 そしてさらに、この物語では、神に問いただされたアダムがこう言っています。「あなたがわたしとともにいるようにして下さった女がくれたので食べました」と。またイブは「蛇がだましたので」と言い訳をした。これを「自己保存性」とわたしは言いたい。悪いことをしたとは思ってもなお、自分の正当性を主張したい。自分を徹底的に否定的に見ることを避けたい、少しでも自分を弁護したいと思う。「正しい人はいない。一人もいない」と教えられているにもかかわらず、自分だけは例外だと思いたい。自分が悪いことをしたのは、他の誰かが悪かったからだ。アダムは「神様、あなたがあの女をわたしのそばにおかれたのでしょう」と、神にそもそも責任があると言わんばかりです。
 こうした「自己中心性」と「自己保存性」こそ人間の罪の特徴であり、人間の悲惨だといえるでしょう。自己中心性から脱しない限り、人は無償で人を愛することは出来ない。自分を離れて生きることができない。「キリストがわが内に生きる」などとはとうてい言えません。
 17世紀フランスの哲学者パスカルは『パンセ』(B586)の中で、こう言っています。「自分の悲惨を知らずに神を知ることは危険である」と。多くの人が自分の悲惨、自分中心で人を愛せないことに涙を流さず、惨憺たる自分の闇に苦しまずに、無意識に信仰を続けようとして、結局は神中心ではなく自己中心から抜け出せない。これは自己満足的な信仰生活であり、きわめて危険だと言えます。
 3.2 赦すこと
 自己中心のもう一つの特徴は、人を赦せないという罪です。自分や自分の家族に対して害を及ぼしたり傷つけた人を赦せないと感じ、さらに進めばその人を憎むようになる。「目には目を」という同害報復の原理は、こうした憎しみに支えられた思想でしょう。
 しかし、イエスは言われました。「敵を愛し憎むものに親切にせよ」(ルカ6章27節)。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は偽り者である」(ヨハネ第一の手紙、4章20節)と。しかし、生来の人間には敵を赦す力がない。エフェソ書はこう言っています「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4章31節)。 たいていの人は、そうできない。自分に害を加えた人を赦さないことによって、その人を罰しようとしています。「報復は神に任せよ」と教えられながら、それが実行出来ない。
 2007年12月韓国のSBSテレビがクリスマス特集番組として放映し、その後映画化されたドキュメンタリーがあります。「赦し―—その遥かなる道」という題名をご記憶の方もおられるかと思います。無惨な犯罪者によって家族を殺された遺族の一人が、周囲の猛反発に遭いながら、加害者を赦すことによって憎しみから解放されることを求める過程を描いた傑作です。
 この映画の監督チョウ・ウクフィはこう言っています。「このドキュメンタリー映画は、愛する自分の家族を殺害した殺人者を赦そうと、悶え苦しむひとりの人間の凄絶な物語です。(中略)しかし、この映画はまた、父母とその子どもたち、兄弟、夫婦、職場の同僚など、些細な事柄にもお互いを赦すことができず、そのためにしばしば苦しいときを過ごすことになる、私たち自身に関する話でもあります。(中略)この世界は、これからますます、人が生きていくのが苦しい社会になっていくのかも知れません。しかし、その中には、自分に過ちを犯した人を赦そうとして悶え苦しむ、弱く、そして偉大なる人間も共に生きているのです。そのような人々が作り上げていく社会は、やはり生きる価値のある世界でありましょう」(日本語版DVD解説)と。
 赦すことは憎しみを手放すこと、自分自身を苦しめる憎しみから自分を解放することですが、この映画の題名のように、赦しに至るには遥かに遠い道のりがあります。「自分を離れてキリストに生きる」ようになれるためには、さらに困難な長い道程が必要でしょう。

4「同族主義」の危険
 こうした「自己中心性」は創世記のむかしから今日まで、あらゆる地域の人間に見られて、歴史上さまざまな悲惨な事件を引き起こしてきました。さらにいまでも地球上のあちこちでその傾向を強めています。ここで少し視野を変えて、現代世界において、ますますその規模を拡大している戦争や紛争について考えてみましょう。
 例えば、ISに代表されるようなイスラム過激派は、「自分たちと同じ考え方でなければ、だれでも抹殺して当然だ」と主張し残忍な殺戮を繰返しています。イスラーム本来の教えは「寛容」でした。オスマントルコの支配していたパレスチナでは、ムスリムもユダヤ人もキリスト教徒も長い間平和共存することが出来ていました。いまでも多くのイスラーム教徒は、「過激派はムハンマドの教えを無視している、クルアーンを読んだこともないのではないか」と批判しています。
 一方、イスラエルの右派政権も、「正しいのは自分達であり、パレスチナ側がすべて間違っている」との立場を譲りません。ユダヤ教の正統派は「神が自分たちにパレスチナの支配を約束されたのだ、律法にそう書いてある」と時代錯誤的な主張を続けて、一切の批判を受け付けません。イスラエルを支持するアメリカのキリスト教原理主義も、対話、共存、寛容といった考え方とは無縁です。アメリカ共和党右派、さらに日本の保守派、反動派も同じです。自分達の正しさに固執し、批判に耳を貸そうとしません。
 いずれも敵と味方をはっきりと分け、同じ考え方の人間同士がかたまっている。自分たちと同質の人々でなければ敵であって、憎しみと抹殺の対象でしかない。現代世界を特徴付けるこれらの自己中心的な考え方をわたしは「同族主義」あるいは「同類主義」と呼びたい。同じ信念に凝り固まって、外からの批判を一切受け付けない人々だからです。
 同族主義はネット社会によってますます強固になっています。と言いますのは、最近の若者は本も新聞も読まない、テレビを見ない、情報源はスマホで見るネットとSNSだけ。気の合う仲間だけで寄り集まって、「いいね、いいね」と言い合っている時間が長い。その結果恐ろしく視野が狭く、異質な人々に無関心あるいは冷淡になるか、匿名で誹謗中傷を平気で投げつけています。情報があふれている世界の中で、いわば心理的な自己防衛のために、自分に不快な情報を無意識に遮断しているかのようです。 
 情報社会化によって、自己中心、自己保存の傾向はますます強まっています。その結果、社会全体としては、小さなグループごとにばらばらになっていき、公共的な問題を議論する習慣がますます失われていっています。

4 信仰と無信仰
 こうした自己中心的傾向はキリスト教信仰の世界でも形を変えて浸透しています。原理主義的な人々だけでなく、ごく普通の信徒たちも、自己中心、自己保存に陥っていないでしょうか。特に無教会は、小さな集会ごとに信仰理解にかなり違いがあるまま、それぞれ自分自身の聖書解釈に基づく信仰を自ら無条件に肯定して、「自分には堅い信仰がある」と自信を持っている人が多いように見受けます。
 こうした傾向はプロテスタント教会内部には以前からあり、それに気付いていた先駆者たちもいました。例えば。カール・バルトは『ローマ書講解』(小川圭治ほか訳、平凡社ライブラリー)においてこう強調しています。「人間は自分自身の主人になっている」、「信仰は何らかの意味で空洞以上のものであろうとするかぎり不信仰である」、「キリストはどのような意味においても正しい者たちの間には住まない」。「人間の義は、信仰があたかも人間の業であるかのように、それを鼻にかけるが、まさにそれと共に、信仰の中に働く神の業は休止し、信仰もまた、地上のすべてのものが無価値で滅ぶべきものであるという法則に服する」と。信仰を人間の業と考える人、信仰を持っていることを誇っている人は、神の業の働きを止めてしまって、結果として信仰は滅びてしまうのだ、と批判しています。
 また、塚本虎二先生は、『キリスト教十講』において、こう書いておられます。
 「真に自分の不信仰に気付いた人だけが、心から「信じます」と言うことが出来る。ここに絶対の不信仰と絶対の信仰とが接触する」(「癲癇をなおす マルコ福音書九章14−29節」)と。
 関根正雄先生は信仰に自信のある人を「宗教的熱心」だと批判し、むしろ「自分の信仰のなさに泣いている人」、「十字架にすがりつく以外になすすべのないほど弱い人」にこそ、恵みとしての「信仰」が与えられると言われています(無信仰の信仰)。

5 自分を離れて生きる
 以上さまざまな視点から、自己中心性を脱却することがいかに難しいか見てきました。今回の全国集会が掲げた「キリストに生きる」という主題は、まさに「人が自己を離れて生きる」ことの勧めでしょう。しかし、自己を離れて「キリストに生きる」ことほど難しいことはありません。生来の人間にはとうてい不可能なことだと言ってもいいでしょう。「自分は信仰があるから、キリストに生きている」と自信を持って言う人がいるとしたら、それこそ自己中心の罪から免れていないのです。人に信仰があるかないか、決めるのは神であって、自分で決めるべきではありません。
 聖書の中心思想である「神を愛し、人を愛せよ」という教えは、人間が自己中心性を離れて、神中心に生きること、自分を離れて隣人中心に生きることの勧めです。たとえ自分を愛してくれない人であっても、その人のために自分の時間とエネルギーを惜しげもなく捧げること。「まず神が人間を愛して下さった、だから人を愛しなさい」と言えば難しく聞こえるかもしれません。本当に苦しんでいる人の見舞いに行っても、介護しようとして出かけても、自分には何も出来ないことに気付くことがよくあります。しかし、苦しんでいる人のすぐ側にいること、その方の話しを聴くことこそ愛の基本なのではないかと思うことがあります。
 きょうのお話の最初に亡き母に対するわたしの愛のなさについて、自分の恥をお話ししました。聖書との対話を繰り返しながら示されたことは、介護する者の愛は無償の愛であるべきこと。たとえ何の反応もなくても、それでもその人の傍らに居続けることが愛であるという教えです。母は自分が無力になって、自分では何もできなくなって、感謝の心すら表現できなくなって、愛の無償性について、イエスの教える本当の愛について、わたしが気付くよう導いてくれていたのでした。
 どうすれば自分を離れてキリストに生きることができるか。「悔い改めなさい、そうすれば救われる」という言葉が聞こえてきます。しかし、生来の人間には悔い改める力もない。あると思い込んでいる人は、自分の力に自信を持つ自己中心を免れていません。
 人間の力で悔い改めることはできない。悔い改めは努力ではなく、ただ恵みに気付くことです。自分の惨憺たる自己中心と思い上がりにもかかわらず、他人に対して心を開けない冷たい人間であるにもかかわらず、思いもかけないときに、神からあふれるばかりの恵みが与えられることがある。それに気付いて、心の深い所を揺り動かされ涙が止まらないことがある。イエスがすべての人間の罪を負われたことによって、神は人間の罪を無償で赦された。そのことによって人間は、過去の自分に対する悔いや自己嫌悪もなく、未来に対する不安も消えて、ただいま生きていることに限りない喜びに満たされる。その涙その喜びこそが悔い改めです。そのとき、人間は初めて「自分を離れてキリストに生きる」ことを実感あるいは体感できるのではないかと思います。




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韓国における無教会の歴史と現状

2016-01-28 22:59:07 |  1 韓国における無教・・

吉 廣雄(韓国・仁川集会)

プロフィール
(出生と職歴)
1944年10月4日、全羅北道鎭安郡龍潭面月溪里で生まれる。小学校教師として定年まで勤務。退職後は、平生学習館で韓国語講師として韓国語を指導(外国人を含む)し、現在に至る。
(信仰歴)
3、4歳の頃、祖母と母親がキリスト教に改宗し、その時からキリスト教を信じるようになった。大学時代に回心を体験し、元敬善先生に3年間師事。1969年から1979年まで京畿道甕津郡長峯のプルン学園で教師として勤務しているときに、宋斗用先生に10年間師事した。
宋文鎬先生の主宰する仁川集会に出席。2004年に石鎭祐先生が加わり、集会名を仁川聖書集会に改めた。2015年6月から集会場所を拙宅に移転した。「聖書信仰」という信仰雑誌を隔月で発行し、現在58号になる。韓国聖書信友会会長。

フィリピの信徒への手紙(3章20~21)
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っています。
3:21 キリストは、万物の支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
この聖書から引用した一節の旨は、今日この場に集められた我々は日本あるいは韓国の国籍を持っている国民ではなく、天という共通の国籍を持つ天の市民であるということである。
 
Ⅰ.韓国のキリスト教
 これから韓国におけるキリスト教の伝来についてお話しさせていただきたいと思う。韓国におけるキリスト教の伝来は、中国や日本に比べると200年あるいは300年ほど遅れた。
 まず、カトリックの伝来について。1582年に起きた壬辰倭乱の際、豊臣秀吉の日本軍に従ってきた宣教師によって伝播されたという説や丁若などの実学派の学者によって伝来したなど様々な説があるが、1783年李承薫が北京で受洗し、1784年から始まったとのを基準とするのが定説である。
 韓国のカトリック(天主教)は宗教的な理由より、当時の朝鮮王朝の儒教国家体制の下における儒教の伝統精神とぶつかるという点と政争が絡んで、しばしば激しい弾圧と迫害が起こった。代表的なこととして、1785年の乙巳教難や1801年の辛酉教獄、1866年の丙寅教難などしばしば迫害が行われた。
 こうした迫害にもかかわらず、韓国カトリック教会が成長したのは、1836年金大健という人がマカオ神学校に行って朝鮮で最初の神父になり、帰国して民の中に身を隠しながら宣教活動を行うことによって、信者が増加し続いた。
 1895年に朝鮮王朝による赦免令が発表された際、1866年に迫害を受けた人々はほとんど含まれなかった。しかし、この赦免令は信仰の自由を公認するための事前措置と見なされた。1905年には日本との乙巳条約により朝鮮の外交権が剥奪され、1910年には日韓併合により日本帝国主義の統治下に置かれたのである。したがって、カトリックも沈滞期に入ることになった。
 日帝の統治からの解放後、韓国は宗教の自由が保障されるようになった。しかし、1950年6月25日から3年間、朝鮮戦争が続いた際には、カトリックは共産主義のせいで多少沈滞したが、その教勢は増加し続いた。こうした苦難の中でも2005年の統計で、韓国カトリック教会の信者数は5,146,147人に達したのである。
 韓国のプロテスタントの公式的韓国への伝来は、1884年に米北メソジスト教会の宣教師であるアレン(H. N. Allen)の派遣が最初である。1885年には長老教のアンダーウッド(H.G.Underwood)宣教師が入国し、プロテスタントの教派が韓国の宣教に関心を持ち始め、上記二派以外に聖潔(ホーリネス)教会、浸礼(バプテスト)教、救世軍、ルター教、聖公会、安息(セブンスデー)教などが入朝した。
 日本帝国主義によって国権が奪われて行く中で、1907年大復興会(リバイバル)運動が起こり、信者数が急増した。1910年日韓併合され、日本帝国主義の統治期にはプロテスタントに対する弾圧が甚だしかった。1919年3・1独立運動が起こるが、その時の宣言文を作成する際、民族代表として33人が署名したが、その構成は、天道教(韓国の民族宗教)15人、プロテスタント16人、仏教2人であった。3・1独立運動が始まった際の韓国のプロテスタントの教勢は微々たるものであった。ところが、民族代表の33人の中半分程度である16人が署名したことは、韓国のプロテスタント信者の信仰の中で愛国心が強かったことが窺える。その後にも神社参拝拒否や皇国臣民誓詞などに抵抗し、数多いプロテスタント信者が投獄されたり、弾圧されたりした。
 その代表的な事例が堤岩里教会焼打事件である。この事件は、カナダ宣教師であるスコフィールド博士によって西洋諸国に知らされたのであった。1964年には、謝罪旅行として訪韓された政池仁先生が、1967年から始まった堤岩里焼打事件謝罪委員会を立ち上げ、2年間募金運動をして、堤岩里教会を再建してくださったこともあったのである。
 韓国のプロテスタント信者数は、2005年時点で8,616,438人に集計されている。

Ⅱ.韓国無教会の歴史
[1]無教会信仰の特徴。
内村鑑三先生は「無教会」を次のように語られた。「無教会というと、無政府あるいは虚無党のように言うようであり、何か破壊主義の書物のように考えられるが、決してそのようなものではない。“無教会”は教会の無い者の教会であります。すなわち、家の無い者の合宿所であると言えます。すなわち、心霊上の養育院あるいは孤児院のようなものであります。無教会の“無”という字は“ない”という意味で、“無くすあるいは無視する”という意味ではありません。」
 韓国に無教会の信仰を伝えた金教臣、宋斗用先生も上述の信仰からはずれたことがないのみならず、徹底的にその信仰に基づいた生涯であったと考えます。『聖書朝鮮』が刊行した初期に、金教臣先生は教会、無教会を問わず「我々を利用する」という文章を載せ、教会の破壊分子ではないことを明らかにしたのである。金教臣先生は、「我々が内村先生の下で無教会を専攻した者であると言われているが、それは大変な誤解である。我々が10年にわたって内村先生から学んだのは、無教会主義ではなく『聖書』であった。『福音』であった。たとえ、内村の心の中には無教会主義ということを建設・鼓吹しようとするつもりであったといえども、私が学んだのは無教会主義ではなく聖書の真理であった。」と述べています。

[2]韓国無教会の始まり
(1)金教臣以前の韓国無教会
 韓国無教会の信仰の始まりは、金教臣を含む内村鑑三先生の聖書研究会に参加した学生6人から始まったと言われる。ところが、それ以前にも既に1916年から韓国には無教会信仰はあったといえる。その中でも、安鶴洙先生が有名である。
 安鶴洙先生は、1920年に京城医学専門学校時代、修学旅行で東京に行った際、ある書店で内村鑑三の『聖書之研究』を読んで以降、定期読者になり霊的な交流がはじまったのである。1926年9月に京城において『聖書之研究』読者会が開かれ、そこに安鶴洙先生が出席していた。もちろん、『聖書朝鮮』が創刊されて以来、安鶴洙先生は読者として金教臣先生と交流が継続したのである。しかし、1930年代の終わりごろは、当時の朝鮮総督府は、朝鮮全国で刊行している全ての刊行物に「皇国臣民誓詞」を載せる政策を推し進めた。その問題をめぐって、『聖書朝鮮』を廃刊するか、あるいは総督府の命令に従って「皇国臣民誓詞」を載せるかについて議論があったのである。結局、金教臣先生は廃刊よりは雑誌を刊行し続けるために総督府の政策に従うことになった。しかし、安鶴洙先生は剛直な人であったので、その時から『聖書朝鮮』誌の購読をやめた。それで、1942年3月、独立運動の嫌疑を受けた「聖書朝鮮事件」の際、安鶴洙先生は読者ではなかったため、拘束されなかったのである。
 安鶴洙先生の信仰は、もっぱら神様一人だけに向いたものであった。安先生は隣に住んでいた張氏という人を「霊文会」の弟子にした。ところが、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した後、北朝鮮軍の侵攻におびえ、安先生を訪ねて「先生も聖書を燃やさなければ、先生の命のみならず、自分も危険にさらされるので、聖書と全てのプロテスタント関連の書籍を燃やしてください」と強要した。安先生は聖書を燃やすなら自分が死ぬ方がいいと思って、聖書を守るために年6月28日に奥さんと共に自決(殉教)したのである。
 安先生は1950年まで宋斗用、盧平久先生と密接な交流をし続け、塚本虎二先生は1951年6月『聖書知識』(第254号)に安先生への追悼の書を載せたのである。
(2)『聖書朝鮮』と韓国無教会
 1927年に東京高等師範学校を卒業した金教臣を含む咸錫憲などが帰国した。内村鑑三先生の聖書研究会に参加した6人の朝鮮学生も朝鮮に帰って1927年7月に『聖書朝鮮』を創刊した。1930年5月の第16号までは、鄭相勳氏が発行者として、1930年6月第17号からは金教臣先生が編集兼発行者になり、第158号まで先生個人の責任のもとで『聖書朝鮮』が刊行されたのである。
 最終号になった1942年2月の第158号に乗せた「弔蛙」(蛙を弔う)という短い文章で、独立思想を鼓吹したという嫌疑で『聖書朝鮮』の読者が全国で逮捕された、いわゆる「聖書朝鮮事件」が起きた。しかし、1943年3月、検察の不起訴処分で最後まで逮捕された13人が釈放されたのである。
 韓国無教会において『聖書朝鮮』の役割は多大なるものであり、『聖書朝鮮』は韓国無教会を形成する中心的働きを為した信仰雑誌であった。
(3)韓国無教会略史
 韓国無教会の歴史は約90年であり、時代的に3期に分類することができると思われる。これは私自身が分類したものである。
第1期:胎動及び定着期(1927年~1945年)
『聖書朝鮮』の創刊から金教臣先生の召天、政治的には日本帝国主義の統治下の朝鮮から解放(独立)まで。
1927年、内村鑑三先生のもとで聖書とプロテスタントの真理を学んだ金教臣先生を始め6人が朝鮮に帰国して『聖書朝鮮』を創刊するによって純粋に福音伝道を始まるようになった。これを韓国無教会の発端とみなす。
 韓国無教会の集会は、家庭集会を中心に発展し、ソウルなどの首都圏においては金教臣先生が、1931年以降には宋斗用先生がソウル近郊の梧柳洞に居を移した以降、集会の中心になった。現在北朝鮮の平安北道には咸錫憲先生が五山学校を拠点に聖書集会を指導した。こうした形が1945年まで続いたのである。1933年12月30日からは『聖書朝鮮』の読者を中心とした冬期聖書講習会が始まり、それが現在の韓国無教会の夏季・冬季聖書集会の始まりで続いてきているのである。
第2期:中興・発展期(1946年~1999年)
宋斗用先生の『霊断』誌の創刊、盧平久先生の日本から帰国し、『聖書研究』創刊から終刊(1999年、第500号)まで。
1.概観
 第2期の終わりを1999年にしたのは、盧平久先生の『聖書研究』誌が第500号で終刊した年であったためである。 
1945年4月25日、金教臣先生の召天
 1945年8月15日、朝鮮(韓国)解放(独立)
 1948年8月15日、大韓民国政府の樹立
 1950年6月25日、朝鮮戦争の勃発
この時期は、解放後、南北に二つの国家が成立し、朝鮮戦争によって分断が固定化し、この間、韓国は前半は、李承晩、朴正煕による独裁政治、後半は民主化が実現するという、韓国の国内情勢が激変した時期でもある。
こうした政治的混乱の中に信仰を堅持するのは、大変難しいことであったことは言うまでのない。しかし、第2期は、韓国無教会の陣営は長足の発展をとげ、信仰の定着をなした点で、中興期であったと思われる。また、この時期には、『金教臣全集』7卷、『聖書朝鮮』の復刻版、そして『盧平久全集』16卷が刊行されて、李瑨求先生は『宋斗用先生信仰著作集』6卷を刊行したのである。
2.聖書集会の現況
 盧平久、宋斗用二人の先生が集会を続けた結果、ソウルのみならず、大田、大邱、釜山、光州、全州、洪城など、無教会聖書集会が13ヶ所にいたるようになった。特に1958年には、韓国の忠清南道洪城郡にプルム学園が無教会信仰を土台とする教育機関として開校したのである。それで盧平久、宋斗用二人の先生の主催で韓国無教会の夏季・冬季聖書集会がプルム学園を会場に開催され、現在に至るようになったのである。1986年に宋斗用先生が、2003年には盧平久先生が召天されたため相当難渋したが、諸先輩や諸先生が信仰をよく堅持してくれたのである。
第3期:2000年~現在まで
1.概観
 2000年までは、盧平久先生がまだ生存されていたが、YMCA聖書講義と「聖書研究」誌の発行。1999年12月誌齢500号を最後に、全てを整理していた時期である。そのため、2000年からは韓国無教会に新たな転機が始まったと見るべきである。この時には劉熙世、李瑨求、宋文鎬、石鎮祐先生などが集会を維持するために大きな役割を果たした。
集会の形態が少し変わったところもあったが、若木集会指導者らの奮発で新たに跳躍してきた。
2.集会現況(2015年現在)
 韓国無教会の聖書集会と聖書研究会は、地域的にその数が増加した。ソウルと仁川を含めて首都圏域だけでも小規模ではあるが、梧柳洞、大方洞、仁川、鍾路、光明洞、利川、水原などに集会があり、毎週日曜日に定期的に聖書集会をし、一心会館(故崔泰士先生記念館)の一心会も毎週聖書集会をしている。
仁川聖書集会では石鎮祐先生主管で2006年から毎週水曜日に聖書読書会を始め、関根正雄先生著作集(日本語原文)の中で『ロマ書講解』上下巻と『創世紀講解』を教材として読書会をしたが、石鎮祐先生の健康の問題で2011年に中断された。
地方の場合、大田、大邱、釜山、光州、全州、洪城などで聖書集会を続けている。
また、聖書原語であるギリシャ語とヘブライ語の講座は、隔週(1回の時間は2時間以内)、田俊徳先生のもと2011年以降、一心会館講堂で続けられている。

Ⅲ. 日韓無教会交流
1.概観
 日本キリスト教双書『無教会史II』339ページをみると、劉熙世先生は「韓国では韓国無教会史が存在する。しかし、これは日本キリスト教双書の項目には編入されない。また『無教会史I』の序文で“無教会と言うのは、内村鑑三によって創始された福音的キリスト教の日本的展開である”と定義されているが、これは日本的展開である。韓国関係がここに包含される余地はない」と述べているが、これに全く同意する。
しかし、内村先生が新たな純粋福音による信仰だけの救いを主張したこと、つまり、このような働きかけが必要とされた時期になされられたというのは確かな事実である。おそらく、内村先生も一つの宗派を考えていた訳ではないし、また、日本の皆様も同じ考えであると思われる。「無教会」というのは、先人の先生たちの定義からも分かるように、教派ではない。そうであれば、無教会を“福音的キリスト教の日本的展開である”と限定するのは、日本以外の地域に適用するのに無理があると思われる。それより“福音的キリスト教の全地球的、全宇宙的展開”と呼ぶのがもっと妥当ではないかと思われる。これは内村先生の“初夢”という文書によく表れていると考えられる。
しかし、無教会信仰の中で日韓関係は切っても切れない緊密な関係であることは否定できない。また信仰にあって和解と赦し、一つになるのは主の前では非常に重要であると思われる。

Ⅳ. 無教会信仰の将来

(1)韓国無教会と教会の関係
 初期から無教会信仰に対する韓国教会側の見解は非難と協助が共存していた。教会の長老たちの中で、無教会信仰を実践し、集会と聖書雑誌を発行した方もいた。その代表的な方が、張起呂博士(釜山集会)と李炳烈先生(『聖書世界』)です。また、韓国教会史学者の中でも代表的な人物である閔庚培(元延世大学神科大学)教授は、比較的友好的で、無教会を信仰と見なしているが、他方、長老教神大学の韓崇弘教授は初めから無教会を異端と断定し、非難していた。

(2)無教会信仰の将来 
塚本虎二先生は「無教会信仰の将来は誰も知らない。ただ、神様だけが知っておられる」と語られたことがある。このように、韓国無教会の将来は誰も知らない。しかし、一つだけ確かなのは、純粋なキリストの福音信仰を、神様は此の世が終わるまで守ってくださるということである。

Ⅴ. 金教臣先生記念事業会の発足以後の韓国無教会と「カナアン」信徒
(1)金教臣先生記念事業会の発足
 2014年8月23日(木)に創立準備委員会が開催され、2014年11月28日にソウルで創立総会が開かれた。これをもって、「金教臣記念事業会」が発足したのである。
また、2015年4月25日(土)には、金教臣先生逝去70周年記念シンポジュームが、2015年4月26日(日)には記念講演会が開催された。
今まで‘金教臣’とか‘無教会’などの言葉は、学位論文や研究論文の主題(約100編ほど)にはなっていたものの、韓国で‘金教臣’とか‘無教会’を主題として公開的にシンポジュームが開催されたのは、これが嚆矢であると考えられる。

(2)「カナアン」信徒の意味
 「カナアン」信徒というのは、聖書の言う聖徒の最終目的地、あるいはイスラエルの民がエジプトを脱出し、到着すべき最終目的地である「Canaann(カナアン)」から派生したものではなく、韓国語の‘いかない(教会に出ない)’を逆読みしたものである。
韓国牧会者協議会の研究によると、自らキリスト教徒であると答えた人たちの中で、約10%が教会に全く行っていないか、何らかの方法で礼拝をしていると答えた人たちを「カナアン」信徒と呼ぶようになったのがこの言葉の始まりである。
韓国プロテスタント全教団(長老教、監理教、聖潔教、浸礼教等)の統計から見ると、韓国のプロテスタントは約1千万人と推算される。そして、その10%であるというのは、約100万名の「カナアン」信徒が存在すると考えられる。無論、これらの人たちが皆んな無教会であると主張するつもりはない。しかし、彼らが教会に行かない理由は、制度的教会と司祭主義に対する批判的認識が潜在的に存在していることも事実である。
注意すべきことは、無教会は教派ではないという点である。彼ら個人や家庭があらゆる形態で礼拝し、ヤーベの神様を唯一の創造主として信じ、イエスがキリストであることを信じるならば、彼らは確かにキリスト信徒である。したがって、ある意味の「無教会人」である。彼らが無教会集会に参加するか否かは大きく問題視すべきではない。アメリカでも家庭教会(Home Church)という形がある。

(3)無教会に対する質問
 現在の韓国無教会に、『無教会論の軌跡』(キリスト教図書出版社)という本の中の、中沢洽樹氏の質問を引用してみる。
 1)金教臣、内村鑑三以降、無教会の本質は変化したのか。
 2)無教会主義は、教会主義に対してプロテスト(改革あるいは抵抗)するに過ぎないのか。そうでなければ、無教会の存在理由は何であるのか。
 3)無教会にとって教会(集会)形成というのは何であるのか。
 4)無教会集会のあらゆる方法に何らかの問題はないのか。
 5)各集会等で先生たち(例えば金教臣、宋斗用、盧平久など)について、毎年、記念講演会などを行っているが、無教会の歴史においてどのような意味を持つのか。
 これらの質問に明確な答えを出すのは難しいと思われる。したがって、私たちはキリストが教えられたように、兄弟と和解しながら共に生きるしかない。結論として『聖書朝鮮』の創刊辞の末尾を引用する。
『聖書朝鮮』よ。汝はまず、イスラエルの家々に行け。いわゆる既成信者の手を経るな。キリストより外人を礼拝し、聖書よりは会堂を重視する者の家には、その足をとどめるな。
『聖書朝鮮』よ、汝はいわゆる基督信者よりも朝鮮魂を持つ朝鮮人の所に行け。田舎へ行け。山里へ行け。そこに樵夫一人を慰めることを以って汝の使命とせよ。『聖書朝鮮』よ、汝にもしこのような忍耐力があるなら、汝の創刊の日付より後に生まれた朝鮮人を待って面談せよ。相論ぜよ。
同志を一世紀後に期すとも何の嘆くことがあろうか。
このような信仰的抱負が韓国の無教会の始まりからあったが、これを持って韓国無教会の役割を果たすべきであると考える。

(付記:吉廣雄先生の講演を、通訳した李必榮、金東明の留学生が翻訳原稿化したものを、「日韓青年友和の会」の森山浩二が最終的に補足・まとめたもので、その責任は私にあることを記します。)

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