オンライン家庭教師 仙台新生会

あの3.11の壊滅的被災と、復興に水をさすコロナ禍にオンライン家庭教師として立ち向かう発信です。

悲劇的不運

2011年05月28日 | 3.11大震災

かれは、S地区の消防団員だった。3.11の大地震のあと、消防団員として避難誘導をしていた。

海岸と平行にはしる県道を走行中の車を、海岸から遠ざかるように誘導していた。おかげで、何人もの人がその命を救われたであろう。

しかし、せっぱつまって避難した消防団の車が、後日、横倒しになって発見され、彼は不明になった。

我が家の土地にも、がれきが多数流された。消防が、警察が、自衛隊が何度もそのがれきの中を捜索していた。

震災から三週間もたったころであろうか。捜索中の自衛隊が、多数集まり遺体を収容した。畑に置いていた農機具の陰から発見されたのである。

W君、31歳、独身。発見された車から数㎞も津波に流されてきたのであろう。駆けつけた両親と、私も涙しながら線香をあげた。

人を助けようとし、自らの命を落とす。何という悲劇であろうか。ご冥福を心からお祈りします。

このような、ことが毎日、毎日続いた日々。幸運にも、生き残った者は、流れ去った命の分まで力強く生きていかねばならないのだろう。

 

 

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奇跡的幸運と、悲劇的不運

2011年05月25日 | 3.11大震災

がれきに挟まれた道を、中年夫婦が歩いてきた。

「どうしたの」と聞く私に、こう言う。「あの先の木が私たちの恩人なのです。」「お礼に来たのです。」

津波に追われながら、車で必死に逃げたそうだ。いつのまにか、ハンドルがきかない。津波に流されている。

もう、だめだと思ったとき、車が木にひっかかり、停まった。そして、奇跡的に、ドアが開いたというのだ。そして、あの木につかまって一晩すごしたのですと言う。地上3~4メートルの木のてっぺんに雪の降る中、頑張ったのだ。

手を合わせて、100mほど先の木を眺める夫婦。振り返ると、そこに二人の車があったのだ。歓声をあげる夫婦。

奇跡的な幸運である。私も、夫婦とともに、その幸運に感謝し、感動、涙した。

 一方、悲劇的不運も数多くある。筆が重いので、次回に書こう。

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極限状況での、キーワード「ほどほどにね」

2011年05月25日 | 3.11大震災

この大震災の過程で、家族からよく言われた言葉がある。「お父さん、ほどほどにね」

信じられないような激震のあと、大津波がくると頭上でヘリが叫んだ。すぐに逃げろ。

私は、隣近所に情報を伝えに走った。三軒目まで行くが、反応が鈍い。まさかと思うのか、ショックでどうしたらいいのか判断がたたないのか。大声で避難を叫ぶ私に、妻が言った。「お父さん、ほどほどにして」の声に、車に飛び乗ったのだ。

もうひと押し強く避難を叫べばよかった。その三軒は、みな逃げ遅れて、二階に逃げたり、津波に流されて必死に柱にしがみついたり。幸いなことに、全員翌日に、自衛隊に救出されたのだが。

3.11から二日目のことである。避難所に、津波警報が出たから、校舎3階まですぐに避難と連絡が入った。全員必死に移動が始まった。ふと見ると、寝たきりのおばあちゃんがいる。介護の女性が必死でたたせようとしている。それでは、間に合わない。

私は、そのおばあちゃんを背負った。力を振り絞って、3階に到達。しばらくして、警報解除。また背負って1階まで。もうすでに、膝ががくがくしている。もともと膝は弱い。妻が心配している。

しばらくして、また津波警報とのこと。さっきのおばあちゃんをまた背負って3階まで。解除で下まで背負う。そのとき、妻が言った。「お父さん、ほどほどにね」「若い人がいっぱいいるんだから」

それからの長期の避難生活のなかで、「ほどほどに」が私のキーワードになった。無理をせず、できないことは人にまかせて。

 

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行政の混乱

2011年05月22日 | 3.11大震災

大勢の避難者、増えたり、減ったりの流動しているなか、衣食住を確保し、提供する最高責任者は仙台市であろう。しかし、実際に避難者が接するのは、中学の教師、生徒、避難者の中からのボランティアであった。

直後から、新潟県、兵庫県などと腕章をまいた自治体職員がかいがいしく動き回ってくれているのに、仙台市の腕章をまいた職員は見えないのである。

仙台市の責任者は、2~3日ずつの交代のようであった。100%の確率で、先の宮城県地震クラスの地震がくるからと、防災準備を声高に唱えていた行政じしんが、避難所運営のノウハウ、マニュアルが脆弱だったのである。

この行政の無能力さは、最後の最後まで解消されてはいない。広範囲、甚大被災で市職員も被災者であるという点は理解できるが、被災者の中から先頭にたって活動してくれているボランティアに比較して、あまりにもお粗末であった。

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避難所の生活スタート

2011年05月20日 | 3.11大震災

3.11の夜の、余震に揺れながらの寒さに震えた時間がトラウマになっている。

津波から体一つで避難してきた人と、自宅では不安だから避難してきた人とでは、大きな差があったのだ。自宅から毛布、着替え、食料などを準備して避難所にきた人は寒い体育館でも、暮らせる。犬を連れ、体一つの被災者は、結局車での生活にならざるをえなくなった。スタートから大きなハンディを背負うことになる。

体育館とグランドでの車上生活者に、大きく分かれている現実に、行政の対応は全くなっていなかった。いや、仙台市職員の顔がみえないのである。直後から兵庫県とか腕章をまいた支援の自治体職員が多数来てくれた中、仙台市の職員がどこにいるのか。いろいろな行政からの情報が、適確に伝わらない。要望を誰に言えばいいのか。混乱の避難生活でスタートした。

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