政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

初めてのストと団体交渉

2007年06月12日 | Weblog
 又市征治は富山高校に通えることが嬉しくてならなかった。新聞配達に家庭教師とアルバイトをかけもちして自分で学費を稼ぐことも苦ではなかった。
 富山高校は、昭和19年生まれの又市征治が75回生という歴史と伝統のある学校であり、進学校ながらも「バンカラ」「硬派」の気風が残る学校だと言われていた。征治はそこに魅力を感じていた。

 しかし外で聞くのと、内から見るのとでは大きく違っていた。
 一学期末、同級生が先生から、成績が下がったことを理由に部活動をやめるよう言われたことがあった。これを聞いた征治は「やめろとは何事か」と先生にくってかかる。勉強はもちろん大事だが、その友人が本当にその部活動に真剣に取り組んでいたことを知っていた征治は、成績至上主義によって友人の大切なものが取り上げられようとしている、このことを黙って見過ごすことができなかったのだ。

 それ以来、しだいに征治に同調する生徒が増え、一年で生徒会副会長、二年で生徒会長に推された。高校でも、征治のリーダーシップを周囲が放っておかなかったのだ。

 さらに「バンカラ」「硬派」の気風が残っていないのなら、自分たちで作れば良い。又市征治は応援団にも所属し、それを実践していった。写真はその当時のものである。
 
 それでも成績至上主義や、高校の「予備校」化は目に見えて進んでいった。 
 ついに高校三年秋の体育大会、白団の団長となった征治をはじめ、四人の団長と実行委員長の五人による準備委員会は、学校側の姿勢を改めさせるためのストライキ実行委員会へと変わっていったという。
 征治は高校時代、当時盛んに行われていた弁論大会を総なめにするほどの弁舌の持ち主だった。この計画の中心的存在、そして生徒の代弁者として学校側との交渉にあたった。これが自身初のストライキと団体交渉だった。

 そのとき学校側に突きつけた抗議文には、教育基本法の理念が高らかに述べられていた。いつの間にか又市征治は法律の知識まで身に付けていたのだった。
(敬称略)


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