歴代のAWA世界チャンピオンの直筆サイン。
(画像1枚目)AWAの帝王 バーン・ガニア 直筆サイン色紙2枚
(画像2枚目)ドン・レオ・ジョナサン 直筆サイン色紙1枚、原爆男 ウィルバー・スナイダー 直筆サイン色紙1枚、ドクターX 直筆サイン入写真(ビル・ミラー 直筆サイン色紙1枚)
(画像3枚目)粉砕者 クラッシャー・リソワスキー 直筆サイン色紙1枚、マッドドッグ・バション 直筆サイン色紙1枚、鉄の爪 フリッツ・フォン・エリック 直筆サイン色紙1枚、その他 エドワード・カーペンティア
その他 ディック・ザ・ブルーザー(直筆サイン色紙と直筆サイン入ポスター:ディック・ザ・ブルーザーとブルーザー・ブロディのW直筆サイン ディック・ザ・ブルーザーの妻の証明の手紙付き)/ドクターX(=ザ・デストロイヤー) 直筆サイン入ポスターとポートレート/ニック・ボックウインクル/オットー・ワンツ/ジャンボ鶴田/リック・マーテル/スタン・ハンセン/カート・ヘニング/ラリー・ズビスコ/マサ斎藤等 以上 直筆サイン色紙各1枚
アメリカン・レスリング・アソシエーション(American Wrestling Association、略称:AWA)は、1991年までアメリカ合衆国に存在したプロレス団体。
概要
1960年5月。バーン・ガニアがミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを脱退して設立。ミネアポリスを本拠に、シカゴ、ミルウォーキー、オマハ、デンバーおよびカナダのウィニペグなど、アメリカの北部地域を活動領域とした。形式上はNWA同様にアメリカ各地のプロモーターの連合体であったが、実際には一つの「団体」であり、実権はプロモーター兼プロレスラーのガニアが掌握していた。会長はスタンリー・ブラックバーンらガニア以外の人物が務めていた。
フラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座には、当時のNWA世界ヘビー級王者だったパット・オコーナーを初代王者として独自に認定、オコーナーをAWAとNWAの統一世界王者とし、ガニアとの指名試合を勧告する。しかし、オコーナー側は正式なブッキング要請がないとして対戦を拒否。これにより1960年8月、AWA世界ヘビー級王座はガニアに移動。以降、ガニアはAWAのオーナー兼世界チャンピオンとして一時代を築いた。
かつてはNWAやWWWF(後のWWF)と並ぶ全米3大メジャー団体であり、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ロード・ウォリアーズなどが最初のブレイクを果たしたのもAWAのリングだった。WWFがNWA傘下に入っていた時期は、フラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座はNWA世界ヘビー級王座と並ぶ2大世界王座とされたこともあった。
また、オーナーのバーン・ガニア自身がオリンピック出身だったこともあり、レスリング(バロン・フォン・ラシク、ラーズ・アンダーソン、クリス・テイラー、ブラッド・レイガンズ)や重量挙げ(ケン・パテラ)などのオリンピック代表または代表候補の選手を積極的にスカウトし、AWAでデビューさせている。1970年代からは「ガニア・キャンプ」と呼ばれるプロレスラー養成所を開設。団体内に自前のジムを持つことは当時のアメリカのマット界では珍しい事例であり、トレーナーにはガニア自身に加え、ビル・ロビンソンやコシロ・バジリを起用して新人選手を育成した。キャンプの出身者には、リック・フレアー、リッキー・スティムボート、サージェント・スローターなど、後にNWAやWWFの世界王者となったレスラーも少なくない。
インディアナ州インディアナポリスのWWAやテネシー州メンフィスのCWA、テキサスのサンアントニオ地区、カナダのモントリオール地区とも提携し、1982年からはソルトレイクシティやサンフランシスコに進出するなど勢力を拡大したが、1984年に始まったWWFの全米マット制圧に際し最初のターゲットにされ、ハルク・ホーガンをはじめとする主力選手やスタッフ(ブッカーのジャック・ランザ、アナウンサーのジーン・オーカーランド、マネージャーのボビー・ヒーナンなど)を次々と引き抜かれたため、一気に弱体化。WWFへの対抗手段として、NWAのジム・クロケット・プロモーションズやCWAとの合弁事業組織「プロレスリングUSA」を立ち上げ、各地で合同興行を開催したが、ジム・クロケット・ジュニアとの確執などでNWAとの共同路線も頓挫。本拠地ミネアポリスでの観客動員も激減し、団体としての活動は1991年に終了。権利関係は後年になってWWF(現:WWE)に買い取られた。そのため、近年ではWWE 24/7にてAWAの試合も放送されている。
日本との関わり
日本のプロレス団体とは、NWAが日本プロレスと提携していたため、その対抗策として1970年より国際プロレスと提携。AWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアをはじめ、AWA世界タッグ王者チームのマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションやニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス、初来日の「まだ見ぬ強豪」だったダスティ・ローデスやワフー・マクダニエルなど、AWAのスター選手が続々と国際プロレスに来日した。その一方で、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフなど、国際プロレスに参戦していたヨーロッパの選手がAWAに登場し、彼らのアメリカ進出の契機ともなった。しかし、団体のエースだったストロング小林の離脱やTBSのテレビ放送打ち切りなどで経営状態が悪化した国際プロレスは、高額なブッキング料が必要とされるAWAとの提携を1975年に解消、カルガリーに居住していた大剛鉄之助をブッカーに、カナダを外国人選手の新しい招聘ルートとした。
以降、AWAは全日本プロレスと提携を開始したが、もともと全日本プロレスは国際プロレスと友好的な関係にあったこともあり、1979年から1980年にかけては、当時のAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルが国際プロレスに再登場し、ラッシャー木村や大木金太郎を相手に防衛戦を行った。1981年の国際プロレス崩壊後は日本での提携先を全日本プロレスに絞り、1984年にはジャンボ鶴田が日本人初のAWA世界ヘビー級王者となっている。活動末期の1980年代末からは、マサ斎藤の仲介で新日本プロレスとも関係を持つようになった。女子では1980年代後半にジャパン女子プロレスと接点を持ち、AWA世界女子王者のシェリー・マーテルが来日して防衛戦を行っている。
Wikipediaより