私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。 どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しくテレビ局へ応募
タイガーマスクの四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの元愛読者の彼

【非売品】 カネック 本人使用

2017年11月18日 14時35分27秒 | マスクコレクション

旧プエブラ(アレハンドロ・ロドリゲス)製 本人使用済みです。

 ピンクサテン、黄緑本革。

昭和55年(1982年)製作、本人使用。

直筆サイン入り。

同仕様のマスクをミル・マスカラス、ドスカラスも同時期に使用しています。

カネックCanek、本名:Felipe Estrada1952年6月19日 - )は、メキシコ 出身の覆面レスラータバスコ州フロンテーラ出身。日本では「仮面の魔豹」「盗賊仮面」などの異名で呼ばれた。主にマヤ・アステカ等メキシコ古代文明の文様をモチーフとしたマスクが特徴。

リングネームの「カネック」は、スペインによる支配に反乱を起こしたマヤ系インディオの指導者ハシント・カネック(Jacinto Canek)にあやかったものである。日本では「エル・カネックEl Canek)」と表記・呼称される場合があるが、"Canek" は固有名詞であるため、スペイン語圏であるメキシコのリングネーム表記は定冠詞の "El" が付かない。

1970年代後半から1980年代にかけてが全盛期で、当時メキシコマット界の第一人者として活躍、ミル・マスカラス最大のライバルとも謳われた。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア

来歴

ボディビルで体を鍛えた後、1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスールPríncipe Azul)の名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。

1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ワー・クラウドと組み、ミル・マスカラスエル・ソリタリオレイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレス(後のスペル・マキナ)から北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。

1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。以降、テムヒン・エル・モンゴルストロング小林ブファロ・アレン(バッファロー・アレン)ビル・ロビンソンタイガー・ジェット・シンパット・パターソン藤波辰巳長州力スタン・ハンセンなどの強豪を相手に防衛戦を展開。「UWAの帝王」として活躍した。

デビュー以来、主にルードのポジションで活動し、ミル・マスカラス、ドス・カラスエンリケ・ベラティニエブラスなどのテクニコと抗争を展開していたが、上記の挑戦者群など、アメリカやカナダ、日本などから参戦してくる外敵を迎撃する役割も担った。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木NWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場し、8月24日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。

1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた(結果はドロー)。

1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代グレート・コキーナブルー・ブレイザーバンピーロ・カサノバヤマトブラック・マジックミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。

日本での活躍

1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズ第2回大会に出場、予選トーナメントで藤原喜明に2勝して決勝リーグに進出した。1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。年末に開催されていたタッグリーグ戦には、1981年にスペル・マキナ、1982年ペロ・アグアヨ1985年ドス・カラスと組んで出場した。

1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。

2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦し、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。

敵前逃亡事件

カネックは1978年3月の初来日時、いわゆる「敵前逃亡事件」を起こしている。これは、3月30日に予定されていた蔵前国技館での藤波辰巳とのWWFジュニアヘビー級王座戦への出場を当日になって急遽キャンセル、そのまま独断で帰国してしまったものである。やむなくタイトルマッチは中止となり、当日、藤波はイワン・コロフとのシングルマッチを行った(コロフは当日、2試合に出場した)。

前代未聞の敵前逃亡として話題になったが、カネックは来日中、3月18日の藤原喜明戦および翌19日の木戸修戦で勝利したものの膝を負傷し、その後の6大会を欠場するほどの怪我を負っていた。また、この事件の背景には、新日本サイドがカネックの覆面と藤波のWWFジュニア王座を賭けて戦うコントラ・マッチを直前になって一方的に通告してきたこと、さらに、同じシリーズに参戦していた一部のアメリカ人レスラーが、メキシコ人に対する差別意識から、タイトルマッチ直前の28日深夜に宿泊先のホテルでカネックに暴行を加えていたことなどが発覚している(首謀者はロン・スターとされる)。

これらの諸事情が判明したことから、翌1979年4月にカネックは再来日を果たし、藤波のWWFジュニア王座に2回挑戦。以降も常連外国人選手として活躍するなど、敵前逃亡の汚名を返上した。

Wikipediaより

同配色のマスクを着用している参考写真。

同配色のマスクを手に持つドスカラス。


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【非売品】 スペル・ディルフィン 本人使用

2017年11月18日 14時06分27秒 | マスクコレクション

CACAO製 スペル・ディルフィン 本人使用済みです。

平成10年(1998年)8月13日 福島・只見町雨堤体育館 みちのくプロレス 覆面ワールドリーグ戦選考会

ハヤブサ、ザ・グレート・サスケ、スペル・ディルフィン組対四代目タイガーマスク、薬師寺正人、星川尚浩組戦で本人使用。

タグ付き、直筆サイン入り。

スペル・デルフィンSuper Delfin1967年9月22日 - )は、日本覆面レスラー大阪府和泉市議会議員。本名:脇田 洋人(わきた ひろと)。妻はタレントの早坂好恵

ウルティモ・ドラゴンザ・グレート・サスケと並びジャパニーズ・ルチャの立役者の1人。

来歴

デビュー

プロレス入り前にはサンボを経験している。父親は土地家屋調査士で、若い頃、父の測量現場の仕事なども手伝っていた。デビュー戦は、1989年3月19日オランダアムステルダムのエイデンホールにおける対ブルドッグKT(現:外道)。その後、たけしプロレス軍団FMWを経て、ユニバーサル・プロレスリングに参加。

FMW所属時代、日本国外の試合に出るため乗った飛行機がエアポケットに入って強い揺れに見舞われて散々な目にあって以来、大の飛行機嫌いとなる。

ユニバーサル時代の初期には前座として「モンキーマジック・ワキタ」のリングネームで、MASAみちのく(現:ザ・グレート・サスケ)と組み、ブルドッグKT&クーリーSZ(現:邪道)と主に対戦。その後、MASAみちのくと共にメキシコに渡った。

メキシコでの活動

メキシコで漫画『THE MOMOTAROH』をモチーフにした覆面レスラー「モモタロウ」なる覆面レスラーとなり、スコルピオ・ジュニアやアンヘル・モルタルらと共にルードとして活躍する。なお、このマスクは帰国後に著作権の関係もあり使用できなくなったが、当作品の原作者であるにわのまことは、モモタロウという名前のレスラーが実現したことを喜んでおり、その旨のコメントと自身のイラスト入りのハガキを週刊プロレスに投稿し、同誌読者欄に掲載された。

1991年、スペル・エストレージャ'91というシリーズにてアカプルコ出身の謎の覆面レスラー「スペル・デルフィン(当時のマスクは、顎まで覆うタイプ)」として一度帰国するも正体は明かさなかった。デルフィンはしばらくしてリンピオからルードに転向し、シリーズ後に再度メキシコに遠征する。

帰国

1992年、スペル・エストレージャ'92というシリーズにて再度帰国。モモタロウのマスクを被り、モンキーマジック・ワキタのリングネームで試合に登場したが、三本勝負での二本目でスペル・デルフィンのマスクの上に被っていたモモタロウのマスクを脱ぎ捨て、以降はスペル・デルフィンとして活動することを表明した。

みちのくプロレス参加

ユニバーサルにて、ブラックマンマスカラ・コントラ・マスカラで破ったり、セレスティアルを破りUWFウェルター級王座に就くなどして活躍するが、経営難によるギャラの不払いに端を発し、1993年ザ・グレート・サスケみちのくプロレス旗揚げに参加。ルード集団のデルフィン軍団を率い、サスケのライバルとして一時代を築いた。

1994年新日本プロレス主催の第1回「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」では、優勝決定戦まで進出。この試合では半分がライガーのコスチューム(通称:デルイガー)で登場する。

この頃、前述した飛行機嫌いゆえ、大阪の自宅から新幹線で岩手まで通っていた。

股くぐり事件

1995年ディック東郷が率いるユニット「平成海援隊」(後にユニット名を「海援隊DX」に変更)と抗争状態になるが、この頃から試合での不甲斐なさが目立ち、他のデルフィン軍団が奮闘する中デルフィン一人がダウンしている事も多くなった。マスクも破られたり、剥ぎ取られて素顔を晒して制裁を受ける事も度々だった。見かねたサスケが率いる正規軍とも共闘する(この時点でデルフィン軍団は正規軍に吸収されたといえる)が状況は変わらず、頂上決戦となった浪江町での大会におけるデルフィン対ディック東郷戦において、デルフィンが東郷の猛攻で戦意喪失、「俺の股をくぐれば許してやる!」と東郷のマイクアピールを受けて、言われるがまま四つん這いで股をくぐる。

東郷のアピールは嘗て覆面剥ぎマッチや髪切りマッチなどで連敗した高く厚い壁であったデルフィンのあまりの不甲斐なさに業を煮やして、そこまで言われれば発奮するだろうと思っての事だったが、本当にくぐった事で海援隊メンバーは激怒、逆にそれまで以上の制裁を受け、マスクを破られコスチュームを切り裂かれ、着色スプレーで背中に「バカ」と書かれるという事件が発生。怒った観客は暴動を起こし、デルフィンはシリーズ途中で失踪してしまう。その後、試合会場に素顔にサングラス姿のデルフィンが現れ、試合後のサスケが檄を飛ばし、デルフィンは復帰を宣言。

デルフィンは新たに「大阪臨海アッパー」なる技を習得して復活。肉体改造にも成功して、復帰戦となった両国国技館「竹脇」大会の6人タッグでは上半身裸のコスチュームで以前との筋肉の違いを見せつけ、観客からは感嘆の声も上がった。試合の最後で東郷に「大阪臨海アッパー」を決めてKO、雪辱を果たした。

大阪プロレス旗揚げ

海援隊DXがWWF(現:WWE)参加のため離脱。デルフィンは今後の団体運営に対する考え方で、サスケと対立するようになる。

1999年薬師寺正人星川尚浩、瀬野優(大王QUALLT)、練習生の木川勇人(現:怪人・ハブ男)、レフェリー松井幸則らとともにみちのくプロレスを退団。大阪プロレスを旗揚げする。以降サスケとは絶縁状態が続いた。

2003年、サスケが議員になったことにより、みちのくプロレス社長となった新崎人生のブッキングによって、みちのく10周年大記念会にて、サスケvsデルフィン戦が実現し、デルフィンが勝利する。また、この頃に大阪プロレスの事務局長も務めていた元タレントの夫人と二度目の離婚(初婚は一般女性)。

えべっさん(現・菊タロー)の紹介で、2003年12月24日タレントの早坂好恵との再婚を果たした。大阪プロレス名物六人タッグでは、えべっさんから「誰が嫁さん紹介したんや〜!」としばしネタにされ観客の笑いを誘い、会場は微笑ましい空気に包まれた。

大阪プロレスでは2006年2月26日、ギミック上の弟であるスーパードルフィンをデルフィンスペシャル0号で破り、大阪プロレス王者となった。4月16日松下IMPホールでは、新崎人生と初のシングルマッチを行い勝利。5月21日、大阪プロレスIMPホールにて南野たけしと大阪プロレス王者&東北ジュニアヘビー級ダブルタイトルマッチを行い、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利し二冠王になる。6月10日には、7年半ぶりにみちのくプロレスへ参戦し、気仙沼二郎に勝利して初防衛に成功した。

8月26日にビリーケン・キッドに敗れ、大阪プロレス王座を失う。10月8日にはザ・グレート・サスケとの防衛戦でジャーマン・スープレックスで敗れ、東北ジュニアヘビー級王座も失った。

2007年2月5日、浪人中の中村紀洋堺浜野球場で行なった架空キャンプに、球拾いなどの手伝いで参加。

沖縄プロレス旗揚げ

2006年、夫人の故郷でもある沖縄県産業振興公社「沖縄ベンチャービジネスサポート事業」に応募。2007年5月、沖縄プロレスが「2007年度沖縄ベンチャービジネスサポート事業」に採択される。沖縄プロレスの経営に専念することを決意し、2007年8月「大阪プロレス」を売却[2]

2008年2月、大阪プロレスの取締役社長を解任される。同年5月に沖縄プロレス株式会社を設立し、7月に旗揚げ興行を開催。

2008年9月を最後に、大阪プロレスの興行には参戦していない(沖縄所属選手の参戦も2008年10月が最後、ただし大阪プロレス所属選手の自主興行には参戦する場合もある)。みちのくプロレス15周年ノスタルジックツアーシリーズ参戦。

再び大阪へ

2012年、事業契約満了に伴い、沖縄プロレスの拠点であるデルフィンアリーナ国際通りを8月25日をもって閉鎖。団体の拠点を本土へ移して、出身地である大阪府和泉市の市議会選挙への出馬を発表。9月9日投開票の市議選(定数24)で3,552票(2位)を獲得し、初当選を果たす。「覆面をかぶっている方が注目され市の知名度が上がる」と議場でも覆面を着用する意向を示し、議会でも着用が認められた。

2015年7月22日、記者会見を行い堺市を基盤とした「海鮮プロレス」を旗揚げすることを発表した。

2016年9月11日の和泉市議選では2,661票(8位)を獲得し再選。

Wikipediaより

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【非売品】 復活初代タイガーマスク 本人使用

2017年11月07日 14時27分30秒 | マスクコレクション

ヒロ&マニア館 小林製  復活初代タイガーマスク 本人使用済みです。 
平成8年(1996年)12月26日 みちのくプロレス&格闘探偵団バトラーツ合同興行 ターザン山本追悼興行 クラブチッタ川崎 対獅龍で本人使用。
直筆サイン入り。

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【非売品】 タイガー・キング 本人使用

2017年11月07日 14時27分13秒 | マスクコレクション

ヒロ&マニア館 小林製 タイガーキング 本人使用済みです。
平成9年(1997年)11月2日 新日プロ「FINAL POWER HALL in FUKUOKA DOME」福岡ドーム タイガーキング、獣神サンダー・ライガー組対金本浩二、高岩竜一組戦で本人使用
タグ、直筆サイン入り。

タイガーマスクは、日本覆面レスラーである。

元はアニメタイガーマスク二世」のタイアップ企画として誕生したがアニメ終了後も高い人気を誇りアニメとは離れたプロレスラーとして存在を確立して現在まで引き継がれている。

イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山が新日本の意向を受けて極秘帰国してタイガーマスクに扮して1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博して一大プロレスブームを巻き起こした。タイガーマスクの権利者だった梶原一騎は漫画「プロレススーパースター列伝」の原作者として作品に現実のタイガーマスクを登場させて一部にフィクションを織り交ぜながらタイガーマスクの人気に拍車をかけた。

しかし人気絶頂期だった1983年8月10日、佐山は突如として新日本へ契約の解除を一方的に申し入れて引退(正確には引退はせず退団)を表明。

UWF参戦時はマスクとコスチュームのデザインを一新てザ・タイガースーパータイガーのリングネームで活動していた。

その後、タイガーキングザ・マスク・オブ・タイガーなどのリングネームを使用している。

1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチに参加した。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、UWFインターナショナルみちのくプロレス東京プロレス、SAプロレス等に参戦した。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。

その年の5月に掣圏真陰流設立、再びプロレスから離れる。

Wikipediaより

 

 

 FINAL POWERHALL in FUKUOKADOME

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【非売品】 初代タイガーマスク 本人使用

2017年11月07日 14時26分34秒 | マスクコレクション

ファーストタイガー製 本人使用済みです。
平成16年(2004年)10月24日 「ウルティモ・ドラゴン The Final Challenge」後楽園ホール 初代タイガーマスク、三代目タイガーマスク、四代目タイガーマスク組対獣神サンダー・ライガー 、ウルティモ・ドラゴン、ザ・グレートサスケ組戦でオーバーマスクとして本人使用
直筆サイン入り(ザ・マスク・オブ・タイガーと初代タイガーマスクと二ヶ所)。

タイガーマスクは、日本覆面レスラーである。

元はアニメタイガーマスク二世」のタイアップ企画として誕生したがアニメ終了後も高い人気を誇りアニメとは離れたプロレスラーとして存在を確立して現在まで引き継がれている。

イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山が新日本の意向を受けて極秘帰国してタイガーマスクに扮して1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博して一大プロレスブームを巻き起こした。タイガーマスクの権利者だった梶原一騎は漫画「プロレススーパースター列伝」の原作者として作品に現実のタイガーマスクを登場させて一部にフィクションを織り交ぜながらタイガーマスクの人気に拍車をかけた。

しかし人気絶頂期だった1983年8月10日、佐山は突如として新日本へ契約の解除を一方的に申し入れて引退(正確には引退はせず退団)を表明。

UWF参戦時はマスクとコスチュームのデザインを一新てザ・タイガースーパータイガーのリングネームで活動していた。

その後、タイガーキングザ・マスク・オブ・タイガーなどのリングネームを使用している。

2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名で復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

Wikipediaより






 

ウルティモ・ドラゴン The Final Challenge

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【非売品】 初代スーパータイガー 本人着用

2017年11月07日 14時25分37秒 | マスクコレクション

YN製初代スーパータイガー ファースト・モデル マスターグレード・エディション特別仕様 本人着用済みです。

平成26年(2014年)5月 本人着用

タグ、着用生写真 直筆サイン入り。

タイガーマスクは、日本覆面レスラーである。

元はアニメタイガーマスク二世」のタイアップ企画として誕生したがアニメ終了後も高い人気を誇りアニメとは離れたプロレスラーとして存在を確立して現在まで引き継がれている。

イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山が新日本の意向を受けて極秘帰国してタイガーマスクに扮して1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博して一大プロレスブームを巻き起こした。タイガーマスクの権利者だった梶原一騎は漫画「プロレススーパースター列伝」の原作者として作品に現実のタイガーマスクを登場させて一部にフィクションを織り交ぜながらタイガーマスクの人気に拍車をかけた。

しかし人気絶頂期だった1983年8月10日、佐山は突如として新日本へ契約の解除を一方的に申し入れて引退(正確には引退はせず退団)を表明。

UWF参戦時はマスクとコスチュームのデザインを一新てザ・タイガースーパータイガーのリングネームで活動していた。

その後、タイガーキングザ・マスク・オブ・タイガーなどのリングネームを使用している。

Wikipediaより

 

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【非売品】 三代目タイガーマスク 本人着用

2017年11月07日 14時24分09秒 | マスクコレクション

IMAI製 三代目タイガーマスク 銀ラメ、逆ヤギリ 本人着用済みです。 

詳細な使用日時、場所は不明です。

タグ、着用写真、直筆サイン入り。

 

タイガーマスク (プロレスラー)

3代目

1991年、タイガーマスクに酷似した覆面レスラー「キング・リー」と名乗ってメキシコ遠征中だった金本が、新日本の意向を受けて極秘帰国。1992年3月1日、新日本プロレス横浜アリーナ大会で、新日本プロレス設立20周年大会の企画として3代目タイガーマスクがデビュー。当初は記念試合として1回限りの企画の予定だったが、好評なため数度の単発登場を経て、1993年5月3日の福岡ドーム大会で、獣神サンダー・ライガーを相手に正式デビュー。

しかし自らが得意とする(あるいは理想とする)ファイトスタイルと、タイガーマスクとして求められるファイトスタイルの差に苦しみ、思うような結果が出せず、1994年1月4日の東京ドーム大会で、ライガー戦後にマスクを脱ぎ捨てた。

2016年11月24日、超戦闘プロレスFMW後楽園ホール大会に、3代目タイガーマスク・ティグレ・エン・マスカラードのリングネームで参戦。正体が金本については不明。

Wikipediaより


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【非売品】 四代目タイガーマスク 本人着用

2017年11月07日 14時23分49秒 | マスクコレクション

YN製 四代目タイガーマスク MZタイプ白糸 本人着用済みです。 

平成17年(2005年)5月10日、本人着用

JUNFAN工房スタンプ&YNタグ、着用写真、直筆サイン入り。


タイガーマスク (プロレスラー)


 

4代目

 

 

初代タイガーマスクの佐山聡の指導を受けた、唯一のタイガーマスク。2代目と3代目が最初は素顔でデビューしたのに対し、最初からマスクをかぶってデビューし、一貫して「タイガーマスク」を名乗っている。

 

1995年7月15日、後楽園ホールで開催された「'95格闘技の祭典」で、ザ・グレート・サスケを相手にデビュー。当初はフリーだったが、後にみちのくプロレスに入団。

 

2002年2月から新日本プロレスのシリーズに1年間帯同し、同年12月16日、新日本に円満移籍。

Wikipediaより

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【非売品】 ミル・マスカラス 本人使用

2017年11月07日 14時23分30秒 | マスクコレクション

ウンベルト製 オーバーマスク 本人使用済みです。

平成11年(1999年)8月10日 「SKY HIGH LEGEND '99」CMLLクラブチッタ川崎大会 ミル・マスカラス、ミステル・二エブラ組対ウルティモ・ゲレーロ、グラン・マルクスJr組で本人が着用後、リング上から観客席に投げたオーバーマスクです。

直筆サイン入り。

SKY HIGH LEGEND '99

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【非売品】 ミル・マスカラス 本人使用

2017年11月07日 14時22分46秒 | マスクコレクション

CACAO製 ミル・マスカラス 本人使用済みです。

平成12年(2000年)カカオプランニング著の「ミル・マスカラス写真集」撮影で本人使用

タグ付き、直筆サイン入り。

ミル・マスカラスMil Máscaras、本名:Aaron Rodríguez Arellano1942年7月15日 - )は、メキシコプロレスラーサン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。

ルチャリブレを代表するヘビー級ルチャドールの1人、そして世界で最も著名な覆面レスラーの1人として、華麗な空中殺法でアメリカ合衆国や日本でも人気を博した。日本では「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持ち、ジグソーの『スカイ・ハイ』が入場テーマ曲に用いられた。

来歴

学生時代からレスリングボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1964年4月の仮デビュー後、大キャンペーンを経て、1965年7月16日にメキシコの大会場アレナ・メヒコにてデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。

1968年から1971年にかけてはアメリカNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチンザ・シークジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得[2]1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。同地区ではアーニー・ラッドブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラチェーン・デスマッチにまで発展している。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた。

1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。同地区のトップ・ヒールだったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・カール・コックスグレート・マレンコマイケル・シクルナキラー・コワルスキートール・タナカらと対戦し、タッグではワフー・マクダニエルとのコンビで活躍した。

初来日は1971年2月19日に日本プロレスで行われたダイナミック・ビッグ・シリーズの開幕戦。このシリーズは3月10日まで行われ、全13戦の短いシリーズであったが、日本にミル・マスカラスの名前を大きく刻み付けた。スパイロス・アリオンと組んでジャイアント馬場&アントニオ猪木インターナショナル・タッグ王座に挑戦し、猪木とのシングルマッチも行われた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田ザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

また、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおける「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という理不尽な縛りを、1972年12月18日に素顔のザ・スポイラーとの対戦にて解禁し、初めて覆面を被ったままMSGに登場した人物である。WWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦。同年1月23日のMSG定期戦で行われたタイトルマッチでは、ボブ・バックランドがマスカラスのセコンドを務めている。3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラミスター・フジプロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。この試合は、当時WWFと提携していた新日本プロレスの放送局であるテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』においても中継された。

1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、アメリカでの主戦場だったカリフォルニア中西部地区のビッグイベントを中心に出場。同年6月15日にはセントルイスキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル第10回大会)にも出場した。

アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツ(当時)のミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄ローラン・ボックと対戦した(吉田には勝利し、ボックには敗退。トーナメントの戦績は7勝3敗1分の第4位)。

1986年6月の全日本プロレス参戦を最後に日本マットへの登場は途絶えていたが、1990年代W★INGFMWWARみちのくプロレスに来日(1993年9月12日にはWARと新日本プロレスの合同興行において、ウルティモ・ドラゴンをパートナーに獣神サンダー・ライガー&エル・サムライと対戦)。2000年2月にはバトラーツ2001年1月と2002年7月には全日本プロレスへ久々に参戦し、2006年9月には大阪プロレスに登場した。その後も2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。2013年4月には、女子プロレス団体のスターダムが開催した『STARDOM MASK FIESTA』に出場した。

俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 "Mil Mascaras Versus The Aztec Mummy" (『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』)が製作・公開された。

2011年10月16日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。

2016年11月28日、東京愚連隊後楽園ホール大会に来日。NOSAWA論外を挑戦者に、1975年以来保持しているIWA世界ヘビー級王座の防衛に成功した。

「千の顔を持つ男」

試合毎にマスクを変えることから "千の顔を持つ男" と呼ばれた。リングネームはスペイン語で「千の仮面(マスク)」という意味である。日本では入場時に、試合用マスクの上から別のマスク(オーバーマスク)を更に被り、試合前にそのオーバーマスクを客席に投げてファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。また、全日本プロレス中継の視聴者プレゼント用にマスクを提供することもあった。別のマスクを被る時は顔を隠しながらアゴのあたりからスルッと(2枚のマスクで頭を包むようにして)被り直す特技もあり、絶対に素顔を晒さなかった。

親族

実弟に同じくプロレスラーのドス・カラスエル・シコデリコ(エル・サイコデリコ)がおり、ドス・カラスとは兄弟での来日も多い。

甥のドス・カラス・ジュニアシコデリコ・ジュニア(サイコデリコ・ジュニア)は共にプロレスラーとなっており、ドス・カラス・ジュニアは総合格闘技を経て、アルベルト・デル・リオのリングネームでWWEにて活躍した。

Wikipediaより

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【非売品】 ドスカラス 本人使用

2017年11月07日 14時22分12秒 | マスクコレクション

CACAO製 ドスカラス 本人使用済みです。

平成12年(2000年)発売 カカオプランニングの「SKY HIGH 2000 ドスミル PART2」VHS表紙の撮影で本人使用。

平成12年(2000年)5月4日 東京・後楽園ホール SKY HIGH 2000 ミル・マスカラス、ドスカラス組vsグラン・マルクスjr、ピラタ・モルガン組戦で本人使用したマスクと同一仕様。

タグ付き、着用写真付き。

ドス・カラスDos Caras1951年2月20日 - )は、メキシコ覆面レスラーサン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。本名はホセ・ルイス・ロドリゲス・アレジャーノJosé Luis Rodríguez Arellano)、愛称はペペPepe)。

同じく覆面レスラーとして活躍したミル・マスカラスエル・シコデリコの実弟。息子のアルベルト・ロドリゲスギジェルモ・ロドリゲスプロレスラーである。

来歴

少年時代よりボディビルに打ち込み、16歳でミスター・オリンピアの新人賞を獲得。兄のアロン(ミル・マスカラス)やパブロ(エル・シコデリコ)に続いてミスター・サン・ルイス・ポトシにも戴冠した。その後、ボディビルのインストラクターを務めながら1968年よりゴリー・メディナのもとでルチャのトレーニングを積み、1970年1月にデビュー。リングネームを付けるにあたってプロモーターからいくつかの名前のリストを提示されたところ、人間の二面性(喜びと怒り)を自身のキャラクターに表現すべく、「2つの顔」を意味するドス・カラスを選んだ。

デビュー当時の覆面も怒顔や笑顔をデザインしたものを被っていたが、これは不評だったという。そこで1971年夏、兄マスカラスが2回目の日本遠征から帰国した際、日本の専門誌『月刊ゴング』が企画したマスカラスのマスクデザイン・コンクールに寄せられた読者のハガキの束をドス・カラスに渡し、その中から気に入ったものを選ぶよう助言。ドス・カラスはそこから双頭の鷲がデザインされた覆面を選び出し、以降自身のマスクとした。彼はそのハガキを、現在でも大切に保管しているという。

1970年代前半は、マスカラスのアメリカでの主戦場でもあったテキサス州サンアントニオに遠征し、ホセ・ロザリオとのタッグで活動。1975年からは、EMLLを脱退したフランシスコ・フローレスが旗揚げしたLLIに参戦。以降メキシコでの主戦場をLLIに移し、1978年6月20日、カネックを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得した。

同年8月、全日本プロレスに初来日。8月24日の田園コロシアム大会において、兄マスカラスとのマスカラス・ブラザーズジャイアント馬場&ジャンボ鶴田インターナショナル・タッグ王座に挑戦、好勝負を残した。翌1979年3月は単独で再来日して『第7回チャンピオン・カーニバル』に出場。同年の末にはマスカラス・ブラザーズとして『'79世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦、ザ・ファンクスアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークと熱戦を展開した。

以降も全日本プロレスの常連外国人選手となり、1980年2月の来日時は、大先輩ドクトル・ワグナーとの「UWAメキシコ・ライトヘビー級選手権」と銘打たれた架空のタイトルマッチが実現、技巧戦の末に勝利を収めた。同年8月の来日時にはマスカラスと組んでPWF杯争奪タッグトーナメントの第1回大会に出場、1回戦でクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・スタイガー、2回戦で極道コンビ、決勝でザ・デストロイヤー&ザ・クルーザーを破り、優勝を果たした。翌1981年8月に行われた第2回大会にもマスカラス・ブラザーズとして出場、決勝でリッキー・スティムボート&チャボ・ゲレロを下して2連覇を遂げた。

1983年2月25日には愛知県体育館にて、当時大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。同年11月開幕の『'83世界最強タッグ決定リーグ戦』にもマスカラスとの兄弟タッグチームで参加し、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディミラクルパワーコンビタイガー・ジェット・シン&上田馬之助の凶悪コンビとも対戦、これが昭和期の全日本プロレスへの最後の来日となった。

1984年2月26日、エンリケ・ベラからUWA世界ヘビー級王座を奪取。1985年1月20日にはUWAの総本山エル・トレオにてスタン・ハンセンとシングルマッチで対戦、テクニコに転向した宿敵カネックともタッグを組み、翌週の『UWA10周年記念興行』にてハンセン&ベビー・フェイス(ホセ・グアダルーペ・フェンテス)のチームを破った。

同年より新日本プロレスへ転出し、11月開幕の『IWGPタッグ・リーグ戦』にカネックとのコンビで参加。藤波辰巳とのシングルマッチも実現したが、リーグ戦はアントニオ猪木&坂口征二、藤波&木村健悟、ブロディ&ジミー・スヌーカディック・マードック&マスクド・スーパースターなどのチームを相手に1勝4敗2分けで参加8チーム中6位の戦績で終わった。翌1986年5月の再来日ではザ・コブラとの試合で左腕を負傷、途中帰国を余儀なくされている。

以後、しばらく来日は途絶えることとなったが、1986年はEMLLのリングにも登場し、1月28日にビジャノ3号&ビジャノ5号と組んでロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロエル・ブラソブラソ・デ・プラタ)からナショナル・トリオ王座を奪取。同年12月30日にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を再び獲得している。1989年にはWWAの世界ヘビー級王者にも認定された。

1990年代に入り、日本へはW★INGユニバーサル・プロレスリングWARなどインディー系の団体に参戦。1995年7月にはみちのくプロレスに来日、『第1回ふく面ワールドリーグ戦』でザ・グレート・サスケを破り優勝した。

1992年2月2日、カネックからUWA世界ヘビー級王座を奪取して同タイトルへの3度目の戴冠を果たすも、AAAの出現などでLLIは崩壊寸前となり、1994年10月よりCMLLに移籍。1996年3月22日にはエクトール・ガルサラ・フィエラをパートナーにCMLL世界トリオ王座を獲得した。しかし、1997年6月にAAAから選手を借り受けて単独興行を主催したことによりCMLLを解雇され、以降は準レギュラーのポジションでAAAに出場。2000年9月にデビューしたドス・カラス・ジュニアとも親子タッグを結成した。

2002年7月、全日本プロレスへの約19年ぶりの来日が実現。かつての全日本マットで「夏の風物詩」と謳われたマスカラス・ブラザーズを再結成し、武藤敬司ともタッグを組んだ。セミリタイア後の2010年5月8日には、WWEメキシコシティでの興行にスペシャルゲストとして登場、チャボ・ゲレロ・ジュニアを相手に凱旋試合を行うドス・カラス・ジュニアをリング上から紹介した。


Wikipediaより

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【非売品】 ドスカラス・ジュニア 本人使用

2017年11月07日 14時21分52秒 | マスクコレクション

セルヒオカサス製 本人使用済みです。

平成19年(2007年)9月28日 メキシコ・アレナロペスマテオス ドスカラスjr.、リスマルクjr.組vsブルーパンテル、ペロアグアーヨjr組戦で本人使用
着用写真、直筆サイン入り。

アルベルト・ロドリゲスJose Alberto Rodríguez1977年5月25日 - )はメキシコプロレスラーサン・ルイス・ポトシ出身[1]。現在はアルベルト・エル・パトロンAlberto El Patron)のリングネームでGFWに所属。

父は飛鳥仮面のニックネームで知られるドス・カラス。弟はWWE傘下のNXTに所属した経験があり、現在はIWRGなどのメキシコのインディー団体で活動しているエル・イホ・デ・ドス・カラス伯父ミル・マスカラスエル・シコデリコ従兄弟シコデリコ・ジュニアがいる。

来歴

プロレス

キャリア初期

14歳でレスリングを始め、体格に恵まれていたこともあり強豪として活躍し、2000年にはシドニーオリンピックメキシコ代表に選ばれた。同年よりプロレスラーとなるために父であるドス・カラスの下でトレーニングを開始し、5月9日にメキシコのメジャー団体であるAAAにてドス・カラスがピラタ・モルガンエル・テハノに襲撃されているところを登場して救出し、ドス・カラス・ジュニアDos Caras Jr.)としてデビューを飾った。

プロレスラーとしてのキャリアが間もないながらも2000年9月29日にはPPVであるVerano De Escandalo 2000に出場し、エル・アリブリヘ & ラ・パルカ & サングレ・チカナと組んでエル・コバルデ2号 & エル・テハノ & エスペクトロ・ジュニア & ピラタ・モルガンと8人制タッグマッチを行い勝利した。

2001年1月21日、ドス・カラスとタッグを組んでメキシコナショナルタッグ王座を保持し、因縁の相手でもあるエル・テハノ & ピラタ・モルガンにキャリア初のタイトルマッチを行うが敗戦した。10月14日、格闘探偵団バトラーツの格闘ロマン2001 〜YUKI-BOM-BA-YA〜にて村上和成に4分23秒、反則勝ち。

2002年11月17日、K-1ドリームステージエンターテインメント全日本プロレス共催のイベントであるWRESTLE-1に参戦。仮面貴族の隠し兵器であるサム・グレカラスと組んでカズ・ハヤシ & 太陽ケアと対戦し、ダブル・フライング・クロスチョップを繰り出すなど観客を盛り立てて勝利した。12月15日、ZERO-ONEに参戦し、同じ2世レスラーであるジミー・スヌーカ・ジュニアと組んで横井宏考 & 佐藤耕平と対戦して勝利。

2003年7月、ZERO-ONEに再び参戦。リスマルク・ジュニアと組んでOH祭タッグトーナメントに出場。同月13日、2回戦で小川直也 & 藤井克久と対戦するが敗戦した。

2004年1月4日、ハッスルの旗揚げ戦となるハッスル1に参戦。ソラールと組んでカズ・ハヤシ & 小島聡と対戦するが敗戦した。10月23日、再びハッスルに参戦。ハッスル6にてリスマルク・ジュニアと組んで出場。高田モンスター軍の一員としてエル・ハテナ・ドスEl Hatena Dos)、リスマルク・ジュニアはエル・ハテナ・ウノとしてコミカルなキャラクターで登場し、ハッスル仮面きん & ハッスル仮面ぎんと対戦するが敗戦した。

11月、メキシコのメジャー団体であるCMLLに入団。同月5日、エレア・パーク & ショッカーと組んでラ・フリア・デル・ノルテエクトール・ガルサ & ペロ・アグアヨ・ジュニア & タルサン・ボーイ)と対戦して勝利した。CMLLデビュー後、しばらくは6人制タッグマッチを中心に出場するが2005年よりタイトル獲得のチャンスの訪れ、5月10日にはCMLL世界ヘビー級王座を保持するウニベルソ・ドスミルに挑戦するが敗戦。27日にはCMLL世界ライトヘビー級王座を保持するウルティモ・ゲレーロに挑戦するが敗戦し、いずれも戴冠するに至らなかった。

2006年3月4日、闘龍門MEXICOに参戦。ワンデイトーナメントであるヤマハカップにリスマルク・ジュニアと組んでエントリーして決勝まで進出するもチャック・パルンボ & ジョニー・スタンボリーと対戦して敗戦し、準優勝に終わった。3月31日、2世レスラーのトーナメントであるラ・コパ・ジュニア2006に出場し決勝まで進出。エクトール・ガルサと対戦して勝利し、優勝。プロレスラーとしてのキャリア初のタイトルを獲得した。

2007年7月8日、CMLL世界ヘビー級王座を保持するウニベルソ・ドスミルに挑戦して勝利し、ベルトを奪取。CMLL世界ヘビー級王者となってからは2008年12月22日にウルティモ・ゲレーロに敗戦して王座陥落するまで1年に渡りベルトを守り抜いた。CMLL世界ヘビー級王座陥落後、タイトル戦線では後一歩というところまで行くも届かない状態が続いたものの2009年にはルードに転身して大活躍し、ストーリーラインを盛り上げた。6月12日、ショッカーとの3本勝負を行って敗戦したのを最後にCMLLを退団した。

WWE
 

2010年5月、WWEのダーク・マッチハウス・ショーにて再びドス・カラス・ジュニアとして登場。7月からSmackDownにてアルベルト・デル・リオAlberto Del Rio)にリングネームを変更してプロモーションを行う。専属リングアナリカルド・ロドリゲスを従え、高級車を乗り回し、メキシコの貴族出身を自称する高慢なヒールとして登場し(スペイン王家の血を引くメキシコの大富豪とアナウンスされた)、8月20日の放送においてレイ・ミステリオから勝利を奪うという破格のデビューを飾った。翌週にミステリオを襲撃し負傷させ、アングル上で休場に追い込んだ。その後クリスチャンと抗争するが、クリスチャンが大胸筋断裂で実際に負傷したため、ミステリオ同様の負傷アングルで抗争は終決。入れ替わりに10月1日の放送局移籍記念のSmackDownにてミステリオが復帰、抗争が再開された。11月に2年ぶりに開催されたキング・オブ・ザ・リングでは、予選で専属リングアナウンサーリカルド・ロドリゲスの援護もありビッグ・ショーにカウントアウトで勝利、1回戦でダニエル・ブライアンを破るが、2回戦でミステリオの邪魔が入りジョン・モリソンに敗れた。同年12月から新人発掘番組であるNXTシーズン4では、コナー・オブライアンブローダス・クレイを指導するプロとして登場した。

2011年1月30日、Royal Rumble 2011ランブル戦で優勝し、WrestleMania XXVIIでの世界ヘビー級王座への挑戦権を獲得。4月3日、WrestleMania XXVIIにて王者であるエッジに挑戦するも敗退した。4月25日、ドラフトでRAWに移籍。6日後のExtreme Rules 2011ではエッジの引退によって空位になった世界ヘビー級王座の新王者を決定するラダー・マッチでクリスチャンと対戦し、クレイとロドリゲスを介入をさせるもエッジの援護により有利になったクリスチャンに敗戦。王座戴冠は果たせなかった。

7月17日、Money in the Bank 2011において8選手参加のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに勝利し、いつでもどこでもWWE王座に挑戦できる権利を獲得。8月14日のSummerSlam 2011ではCMパンクジョン・シナを破り統一WWE王者となったが、試合後にケビン・ナッシュが乱入しパンクを襲撃。そこへデル・リオが登場して挑戦権を行使し、パンクをフォール。メキシコ人初のWWE王者となるが、再戦権を行使したシナと9月18日のNight of Champions 2011にて対戦し敗退、王座を失った。

Wikipediaより

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【非売品】 ザ・デストロイヤー 本人使用

2017年11月02日 15時44分02秒 | マスクコレクション

ザ・デストロイヤー 本人使用済みです。

デサント製、現役時代、本人が試合で使用したマスクです。 
明確な使用日時場所等は不明です。
証明書、直筆サイン入り。

ザ・デストロイヤーThe Destroyer1930年7月11日 -)は、アメリカ合衆国の元プロレスラーニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ベイヤーRichard Beyer)、通称ディック・ベイヤーDick Beyer)。

アメリカでは、ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤーThe Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤーDick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。

日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山ジャイアント馬場と戦った他、テレビタレントとしても活躍した。

息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。

来歴

デビュー

シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始める。

北米での活躍

当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒール覆面レスラージ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤーThe Intelligent Sensational Destroyer)」に変身。ロサンゼルスWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。

NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションニック・ボックウィンクルと抗争。サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年レイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。

1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターXDr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はクラッシャー・リソワスキーマイティ・イゴール・ボディックビル・ワットらの挑戦を退けている。

NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。

以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ラリー・ヘニングラーズ・アンダーソンバロン・フォン・ラシクイワン・コロフダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、レッド・バスチェンワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。

その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダトロントモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ビル・ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。

日本での活躍

1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。

初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーミル・マスカラスなどと名勝負を残した。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田大仁田厚渕正信らが教えを受けている。

覆面世界一決定十番勝負

NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリングジ・アベンジャーザ・バラクーダカリプス・ハリケーンブルー・シャークスーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。

Wikipediaより






 

 

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【非売品】 ドクターX 本人使用

2017年11月02日 15時43分38秒 | マスクコレクション

ドクターX 本人使用済みです。

メーカー不明。

現存する5枚のうちの1枚。

平成17年(2005年)1月、水道橋のプロレスショップバトルロイヤルサイン会にて使用されバトルロイヤルオークションに出品されたドクターXの試合用マスクです。

証明書付き。

 

 

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【非売品】 ブラソ・デ・ボノ 本人使用

2017年11月02日 15時42分40秒 | マスクコレクション

ラミレス製ブラソ・デ・ボノ 黒特殊レオタード2重生地 蛍光オレンジフチ、ファスナー&ボタン式 。

平成24年(2012)11月7日『LUCHA FIESTA 2012~ウルティモ・ドラゴンデビュー25周年記念大会~』後楽園ホール大会

ブラソ・デ・プラタ(CMLL)&ブラソ・デ・ボノ組対NOSAWA論外(東京愚連隊)&MAZADA(東京愚連隊)組戦で本人使用

直筆サイン入り、着用写真付き。

曙太郎

曙 太郎(あけぼの たろう、1969年5月8日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ワイマナロ出身で東関部屋に所属していた大相撲力士。第64代横綱。のちにプロレスラー総合格闘家タレントに転向。格闘技・プロレス分野では(あけぼの)のリングネームで活動している。2016年現在、東関部屋の師範代もつとめている。

本名同じ(1996年4月22日日本国籍を取得)。旧名・米国名 : チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン(Chad George Haaheo Rowan)。ハワイ・パシフィック大学中退。日本人以外で初の横綱。

プロ野球横浜大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に所属していたジョーイ・マイヤーは従兄弟に当たる。

プロレス

経歴

フリーランス

2005年のプロレス参入後、2013年8月まで、個人事務所「曙道(旧:チーム・ヨコヅナ)」所属のフリーランス・レスラーとして、全日本プロレスハッスルなどをはじめ様々な団体・興行に参加した。

全日本プロレス

2013年9月、全日本プロレス正式入団後初の大会となる「王道トーナメント」に参戦。1回戦で優勝候補の秋山準と対戦し、新必殺技のパイルドライバーで勝利。決勝戦まで勝ち進み、対戦相手の潮崎豪にも勝利し、第1回王道トーナメント優勝を果たし初の三冠ヘビー級王者にもなる。2014年4月22日に肺炎のため入院し、その後も体調が戻らず5月30日に王座を返上した。7月27日、8月16日の後楽園ホール大会で復帰することと、全日本プロレス運営会社の取締役に就任することが明らかになった。2015年4月25日、2015チャンピオン・カーニバル諏訪魔を破り、初優勝した。

2015年11月2日付で退団し取締役も辞任。

王道

2015年12月4日、株式会社「王道」の発足を発表。自らのマネジメント事務所、並びにプロレスラーとしての所属団体。ジャイアント馬場夫人である馬場元子からの支援から「王道」を譲り受けた。また個人事務所を馬場の自宅に構えるなど異例となった。

2016年4月20日、後楽園ホールにてプロレス興行「王道 THE BEGINNING」を開催。

獲得タイトル

全日本プロレス
DRAGON GATE
DDTプロレスリング
ZERO1
その他
  • プロレス大賞 新人賞(2005年)
  • 最優秀タッグチーム賞(2009年・パートナー浜亮太)

 Wikipediaより

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