私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。 どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しくテレビ局へ応募
タイガーマスクの四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの元愛読者の彼

【非売品】 UWA世界ミドル級チャンピオンベルト 本物

2017年11月02日 15時41分11秒 | プロレスグッズ


キンタナ製 第2代・第7代・第10代王者グラン浜田が所有していた本物

全長約1,050mm。

重量約0.8kg。

ストラップベルベット素材。

収納袋無。

刻印無

ユニバーサル・レスリング・アソシエーション

ユニバーサル・レスリング・アソシエーションUniversal Wrestling Association)は、メキシコプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称であり本国メキシコではルチャ・リブレ・インターナショナルLucha Libre Internaciónal)で呼ばれることが多い。略称はLLI

歴史

1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサフランシスコ・フローレスベンジャミン・モーラらによって設立されて1月29日パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げしたナウカルパンエル・トレオを拠点にしていた。

日本では新日本プロレスユニバーサル・プロレスリング全日本女子プロレスジャパン女子プロレスアメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり日本とアメリカの選手が参戦。

旗揚げ当初はEMLL(現:CMLL)から人気選手のアニバルドクトル・ワグナーらを大量に引き抜いて一時はメキシコマット界で大人気を誇ったが、その引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより世代交代が充分に行えず、その後メキシコ国内で禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ずEMLLに大きく遅れをとることになってしまう。

1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷して1994年、社運をかけてAAAと対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになり1995年、ほぼすべての選手がAAAに移籍する大事件が起こり一気に弱小プロモーション団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けたが1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり身の代金を工面するためアレナ・メッサを売却することとなり常設会場を失い約22年の歴史に幕を下ろした。現在、UWA王座は日本とメキシコで定着しておりUWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。

2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた。

UWA世界ミドル級王座

UWA世界ミドル級王座は、UWAが管理していた王座である。

歴史

1975年、メキシコのLLIが創設。LLI解散後も王座のみ存続してWAR格闘探偵団バトラーツ新日本プロレスを渡り2002年、PABLOKAIENTAI DOJOに持ち込んでからはK-DOJO管理下に置かれている。

グラン浜田(グランはまだ、1950年11月27日 - )は、日本男性プロレスラー。本名は濱田 廣秋(はまだ ひろあき)。群馬県前橋市出身。身長167cm、体重90kg。その軽量な体を生かしてルチャリブレを活動の中心としている。また最も著名な日本人ルチャドールの1人とされ、日本およびメキシコにおいて顕著な活躍を残している。

娘のソチ浜田浜田文子もプロレスラーである(正確には、ソチ浜田は夫人の連れ子であり、浜田文子とは異父姉妹となる)。

身長も小さく、ルチャでの活躍とスタイルからシュート系の強さと無縁と思われがちだが、浜田自身は柔道ミュンヘンオリンピック候補選手であり、その気の強さも相まって昭和新日本プロレスの中でも有数の猛者であった。治安の悪いメキシコで成功した理由に、プロレスセンスの良さとシュートの強さが比例していた背景がある。

 

来歴

樹徳高校中央大学河合楽器製作所において柔道の選手として活動。1972年、友人の関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入団志願に向かう際に付き添いで同行し、関川とともに柔道での実績を買われて浜田も入団することとなる。

1972年3月6日大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目ともいわれた(190cm以上のキラー・カーンにも勝っている)。若手時代のちゃんこ番の際にカツ丼ラーメンなど出前をとった。

1975年メキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコでは、LLIを中心に活動し、1976年にはLLI参戦の最優秀外国人にも選ばれている。メキシコでのプロレス修行は1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。この時期既にメキシコに家族を持っていた浜田は、1995年まで日本とメキシコを往復する生活となる。メキシコに行った当時はスペイン語が喋れない、水質が悪い等、日常生活でも苦労したが、努力によりトップに立ち、4階級制覇という偉業を達成した。この浜田の活躍により日本とメキシコのルートができ、日本にルチャリブレが輸入され、現在に至る。

1980年代初頭、初代タイガーマスクの候補として名前が挙がりかけたが、新間寿によると「あいつはガニマタだからすぐにばれる」と実現には至らなかった。

1984年4月に第一次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。1986年ジャパン女子プロレスコーチに就任とともに、一時現役を引退する。1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生。その際に、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰する。

1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。1992年11月27日ザ・グレート・サスケみちのくプロレスを旗揚げした際に、浜田のみがユニバーサル・プロレスリングに残った。所属選手の大半がいなくなったユニバーサル・プロレスリングはその後FULLと改名したが自然消滅。浜田自身も1994年8月から古巣の新日本プロレスに登場するようになる。ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍の動きは、柔道経験者として似た経歴を持っていることから若手時代に目をかけてくれて、メキシコへの道を開いてくれた新間寿に対する義理を優先したものとされ、浜田自身、プロレス雑誌等でそのことを公言していた。

1995年、みちのくプロレスに入団。みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグでの試合が実現している。また2000年11月25日には、娘の浜田文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの旦那のペンタゴン組とのタッグ戦も実現している。

2001年にフリーとなり、再度新日本プロレスに登場。また大阪プロレスなど多くの団体にも出場するようになり、全日本プロレスではラブマシンズの一員として「リトル・ラブ・マシン」のリングネームで活動した。

2006年娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場した。入場曲とコスチュームは天才バカボン

2007年には久々にメキシコマットに登場、ペンタゴンとの遺恨を復活させた。同時に文子とのタッグも結成。

日本では、藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦している(所属選手と共にチケットに並んで似顔絵が描かれているほど)他、2008年にはアイスリボンにも不定期参戦。

2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利した。

2009年4月15日、大阪でプロレス団体「MWF(メキシコ・レスリング・フェデレーション)」の旗揚げ戦を開催。

2011年11月27日、DDTプロレスリング後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定。

2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。セミファイナルで華名とシングルマッチを行い、勝利。

2017年、キラー・カーンとの対談で前立腺癌の手術をしたことを明かした。

 

Wikipediaより

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【非売品】 UWA世界ヘビー級チャンピオンベルト 本物

2017年11月02日 15時40分46秒 | プロレスグッズ

メキシコ製メーカー不明 第11代・第15代・第23代王者ドスカラスが所有していた本物

全長約1,210mm。

重量約2.8kg。

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無

ユニバーサル・レスリング・アソシエーション

ユニバーサル・レスリング・アソシエーションUniversal Wrestling Association)は、メキシコプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称であり本国メキシコではルチャ・リブレ・インターナショナルLucha Libre Internaciónal)で呼ばれることが多い。略称はLLI

歴史

1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサフランシスコ・フローレスベンジャミン・モーラらによって設立されて1月29日パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げしたナウカルパンエル・トレオを拠点にしていた。

日本では新日本プロレスユニバーサル・プロレスリング全日本女子プロレスジャパン女子プロレスアメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり日本とアメリカの選手が参戦。

旗揚げ当初はEMLL(現:CMLL)から人気選手のアニバルドクトル・ワグナーらを大量に引き抜いて一時はメキシコマット界で大人気を誇ったが、その引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより世代交代が充分に行えず、その後メキシコ国内で禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ずEMLLに大きく遅れをとることになってしまう。

1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷して1994年、社運をかけてAAAと対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになり1995年、ほぼすべての選手がAAAに移籍する大事件が起こり一気に弱小プロモーション団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けたが1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり身の代金を工面するためアレナ・メッサを売却することとなり常設会場を失い約22年の歴史に幕を下ろした。現在、UWA王座は日本とメキシコで定着しておりUWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。

2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた。

UWA世界ヘビー級王座

UWA世界ヘビー級王座は、UWAが管理していた王座である。

1977年、メキシコのLLIが創設。1975年、LLI旗揚げ戦でミル・マスカラスと引き分け試合を演じたルー・テーズを初代王座に認定。

LLIが新日本プロレスと友好関係にあった時代にはアントニオ猪木らも王座を奪取しており新日本の興行でも選手権試合が行われていた。

1995年、LLI解散後は王座のみ存続がしてCMLL管理下で選手権試合が行われていたがドクトル・ワグナー・ジュニアが王座を保持したままCMLLからAAAに移籍して長きに渡り防衛戦を行っている。

Wikipediaより

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【非売品】 CMLL世界ヘビー級チャンピオンベルト 本物

2017年11月02日 15時40分19秒 | プロレスグッズ

メキシコ製メーカー不明 第14代王者ドスカラス・ジュニアが所有していた本物

全長約1,170mm。

重量約3.6kg。

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無

CMLL

CMLLConsejo Mundial de Lucha Libre)は、メキシコプロレス団体

概要

CMLLの活動中心はメキシコシティアレナ・メヒコでの定期興行が有名である。かつてはEMLLEmpresa Mexicana de la Lucha Libre)と呼ばれていた。今日現存するプロレス団体において世界最古の歴史を持つことが特徴である。

1933年、EMLLとして設立。9月21日、アレナ・メヒコにて興行が開催されたのが団体の興りである。旗揚げ戦にはヤキ・ジョージ、ボビー・サンプソン、シクロン・マケイ、レオン・チン・アチウが参加。しばらくはアメリカから選手を呼び寄せて興行を行っていたが地元選手の育成が急務と判断したサルバドールは柔術の心得のある友人のゴンザレス・アベンダーニョ・アギーラルを呼び寄せてアレナ・メヒコでルチャリブレ教室を開校して、これが後のルチャリブレの基盤となっているという。

1931年サルバトール・ルタ・ゴンザレスがアメリカとメキシコの国境にあるエルパソでプロレス興行を見たことからメキシコでのプロレス興行を企画してメキシコシティの廃墟同然のボクシング会場「アレナ・モデロ」と賃貸契約を結び会場を修復して会場名を「アレナ・メヒコ」に変更。

1934年、アベンターニョの教え子たちがデビューして純国産のルチャドールが誕生。ほどなく観衆は増えて500人ほどのキャパシティしかない初代アレナ・メヒコは手狭でボクシング会場「アレナ・ナショナル」や闘牛会場「レオ・デ・コンデザ」にも進出している。

1940年、後にWWWA世界女子王座の創設者であるミル・レッドバーグも来墨している。

1938年、サルバドールが個人的に買った宝くじに当選して、その当選金を自社所有会場の建設に着手。

1943年、自社所有会場「アレナ・コリセオ」が完成。

1954年10月、アレナ・メヒコの改築工事にも着手(1956年に完成)。この時期にタルサン・ロペスが台頭すると1942年にデビューしたエル・サントを始め、カベルナリオ・ガリントゴリー・ゲレロブルー・デモンブラック・シャドーなども台頭して1940年代から1950年代にかけて最初の黄金期を迎えることとなる[1]。この頃はメキシコにはEMLL(CMLL)しか団体が存在しなかったため、ルチャリブレといえばEMLL、EMLLといえばアレナ・メヒコであったため、大衆からはルチャリブレやEMLLではなく「アレナ・メヒコ」と呼ばれることが普通だった。また、同時期にはNWAにも属してNWA加盟時に管理、運営を任されていたNWA王座のライトヘビー級王座、ミドル級王座、ウエルター級王座を一任された。

1975年UWAが旗揚げされてEMLLの独裁状態に嫌気が差した選手達が大量離脱したため、大打撃を受けた。1980年代はUWAの影に隠れるような停滞期に突入していた。

1990年、メキシコでは禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁となり、地元テレビ局テレビサによるEMLLの中継番組の放送が開始された[1]。テレビ放送開始にあわせて企画部長のアントニオ・ペーニャによってマスカラ・サクラダミステリオッソボラドールなどの新キャラクターが誕生して入場演出を豪華にするなど改革を行い、ルチャリブレはテレビを通して爆発的なブームとなった。同年、CMLL女子部を立ち上げた。

1992年、アントニオ・ペーニャが独立してAAAを設立して業界のトップに躍進。しばらくはアレナ・メヒコの集客が閑古鳥が鳴くほど悲惨な状態となるがテレビ中継による放映権料と自前の会場による最低限の経費でこの危機を乗り切り、1995年、AAAを離脱したルードにターンしたエル・イホ・デル・サントを獲得してネグロ・カサスの抗争で人気を博した。

2005年ミスティコ(初代)がデビューし大人気となり、ドクトル・ワグナー・ジュニアらを加えたメンバーにより団体は人気を取り戻してアレナ・メヒコに大観衆が詰めかけるようになった[1]。そして、この頃に団体名をCMLLに統一。

現在の社長はゴンザレスの孫であるパコ・アロンソ1980年に就任。

CMLL世界ヘビー級王座

CMLL世界ヘビー級王座は、メキシコプロレス団体であるCMLLが管理する王座である。

Wikipediaより

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【非売品】 GHCタッグチャンピオンベルト(初代)本物

2017年11月02日 15時39分57秒 | プロレスグッズ

レジー・パークス製GHCタッグベルト(初代・本物)。

期間は短命でしたがベルト誕生当初の授賞式で取り扱われたもの。

小橋建太(第6代・第12代)、佐々木健介(第18代)、高山善廣(第3代・第21代)、永田裕志(第7代)、秋山準(第5代・第14代・第23代)、丸藤正道(第10代・第16代・第27代・第34代・第39代)、KENTA(第25代)、杉浦貴(第16代・第27代・第31代・第38代)、潮崎豪(第26代・第36代・第40代)、マイバッハ谷口(第25代・第30代・第36代・第39代)歴代王者10名の直筆サイン入り。

全長約1,260mm。

重量約2.7~kg

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無

 21世紀に誕生した新たなる王者、それがGLOBAL HONORED CROWN(通称GHC)である。直訳すれば"地球規模の崇高なる王位"。ただ強さだけを追い求めるのではなく、レスラーとして、1人の人間としてより完成された王者を目指し、己を磨き上げていく。つまり向上心なきものはその座に値しない、まさしく崇高なる王位なのである。ベルトのデザインは文字通り地球を中心のシンボルとして配置し、下の部分にはプロレスリングNOAHのイメージともいえる荒波、上部の左右に2匹の一角獣が見守り、中央に王冠が位置されている。この一角獣は中世ヨーロッパの物語に出てくる想像上の生き物であり、大変誇り高く、かつ荒々しく獰猛といわれ、この王座を狙う屈強なるレスラーの面々に例えればピタリとはまるかも知れない。いずれにせよ、真の王者を目指して繰り広げられる今後の防衛活動に男たちは苦闘の連続を強いられることとなるだろう。しかしそんな戦いを経験してこそ、王座の権威というものは高まっていく。そして権威が高まっていけばそれと同時に、王者としても心身共により自分を磨き上げていかなければならない。

プロレスリング・ノア公式サイトより

GHCタッグ王座

 

GHCタッグ王座は、日本プロレス団体であるプロレスリング・ノアが管理するタッグ王座(タイトル)。

 

グローバル・オナード・クラウン

 

グローバル・オナード・クラウンGlobal Honored Crown)は、プロレスリング・ノアが管理するチャンピオンベルトの名称。略称はGHC

 

ノアに存在していたチャンピオンベルトは他に秋山準が管理委員長を務めていたグローバル・ハードコア・クラウンがある。

 

概要

 

2001年4月15日、グローバル・オナード・クラウンを創立。GHC管理委員長にはジョー樋口が就任していたが2010年11月8日に死去したため、GHC管理委員だったハーリー・レイスがGHC管理委員長に就任。樋口の入院中はGHC管理委員を務める永源遙が認定証を読み上げた。2012年1月15日にケビン・フォン・エリック、7月23日に力皇猛がGHC管理委員に就任。

 

直訳すれば「地球規模の崇高なる王位」の意味で、ただ強さだけを追求するのではなく、繰り広げられる激闘の中でプロレスラーとして1人の人間として誇り高い王者の権威の完成を目指している。

 

ヘビー・タッグ・ジュニアヘビー・ジュニアタッグの王座それぞれにテーマ曲が設けられており、選手権の選手入場前には各王座のテーマ曲が流れる。これを実施している団体は当初はノアだけだったが近年、新日本プロレス全日本プロレスでもヘビー級王座前にはテーマ曲が流れている。

 

GHC選手権ルール

 

  • 試合時間は60分1本勝負。
  • 試合の決着はフォール、ギブアップ、KO、TKO、レフェリーストップ、リングアウト、試合放棄、反則で決まる。いずれの場合も挑戦者が勝利した場合は王座が移動する。
  • 引き分けは時間切れのみ。両者リングアウト、両者KO、両者反則、無効試合で終了した場合は即日再試合を行う。いずれも対戦者同士の合意があればルールを変更することができる。

 

GHC王座

 

 

封印された王座

 

Wikipediaより

 

 

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【非売品】 NWA世界ヘビー級チャンピオンベルト(Ten Pounds of Goldハーリー・レイスモデル)レプリカ

2017年11月02日 15時39分29秒 | プロレスグッズ

メーカー メキシコ製 メーカー不明。

全長約1,260mm。

重量約3.3kg。

ストラップ本革編み込み。

収納袋無。

NWA世界ヘビー級王座(NWAせかいヘビーきゅうおうざ)はプロレスのチャンピオンシップである。NWA(National Wrestling Alliance)本部の直轄するベルトで、1980年代末にNWAが衰退するまでは、世界最高峰といわれたタイトルである。

1948年に設立された、新NWA(アライアンス)の初代王座にはオーヴィル・ブラウンがついた。1949年にブラウンと旧NWA(アソシエーション)の世界王者のルー・テーズによるタイトルマッチが行われるはずであったが、ブラウンが交通事故に遭い引退したため、テーズが第2代王者の認定を受けることとなった。

その後、新NWAはこの世界王座を正当化させるためにフランク・ゴッチを初代王者とし、2代目以降は適当に過去の団体の王者をつぎはぎした。そしてルー・テーズは第38代王者として認定を受けた。以後はここからNWA世界王者の代数をカウントしていくこととなる。

NWA世界ヘビー級王座は、ルー・テーズやジン・キニスキードリー・ファンク・ジュニアハーリー・レイスなどの実力あるレスラーたちの功績により、1980年代前半まで世界最高峰のベルトとして広く認知されるに至った。このタイトルを手にした者は全米各地(時には日本を初めとする海外)のNWA会員のプロモーターのテリトリーを転戦し、その地区のローカルチャンピオンと防衛戦を行わなければならず、かなりの体力と精神力が要求された。ただし、NWA王座は反則勝ち/負けでは移動せず、またオーバー・ザ・トップロープは反則というルールが存在したため、それを利用してベルトの防衛を行うこともできた。

NWA王者は各地のスターレスラーと防衛戦を行う仕組みになっているため、実力差を見せつけるような試合はせず、苦戦しながらの辛勝や引き分け・反則負けなどで防衛を重ねていく。そこで、インサイドワークに長けたテクニシャンタイプが多く、反則防衛を多用するヒール(悪役)タイプのレスラーも少なくない。

NWA世界ヘビーの銘を冠するベルトを獲得した日本人レスラーはこれまでに何人もいるが、NWA黄金期にこのタイトルを獲得したレスラーは、ジャイアント馬場(3度獲得)ただ一人である。ただし、いずれも戴冠期間は1週間以内で、NWA王者(ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス)の来日期間中に一時的に王座を貸与されていたものであり、いずれも前王者との再戦でベルトを奪還されている。

1980年代末、WWFの全米進出によってテリトリー制が崩壊し、NWA末期における最大の団体であったジム・クロケット・プロモーションズテッド・ターナーに買収されてWCWが台頭した後は、NWA王座は実質的にWCWが管理するようになり、その際はWCWの管理する一王座という扱いであった。そのため、その権威は大きく下がり、さらにWCWのNWA離脱と共にスター選手もNWAから離れたため、権威は更に大きく下落した。1990年代後半から2000年代初頭にかけてはインディー団体の一王座にまで権威は低下した。

2002年に入り、NWAとの業務提携によりTNAが王座を管理する権利を獲得(管理する期間は2014年まで)。以降実質的にTNAの王座となっていたが、2007年5月業務提携終了によりベルトの管理権を剥奪された。

以降はROHなどアメリカのインディー団体や、メキシコのCMLLでタイトル戦が行われている。2008年10月25日にはブルー・デモン・ジュニアがメキシコ人レスラー、覆面レスラーとして初のNWA世界ヘビー級王者となっている。2013年よりNWAから新日本プロレスへ挑戦表明がなされ、新日本プロレスのビッグマッチでもタイトル戦が行われるようになった。2014年1月4日東京ドーム大会で小島聡が、日本人としては橋本真也以来の王座に輝いた。

また、WWE世界ヘビー級王座は元々WCW世界ヘビー級王座を復活させたものであるが、WCWの番組内でWCWとNWAの両王座が統合された経緯を根拠に同一のものと主張、あるいは意図的に混同し、NWA、WCW、WWEに至る世界王座のDVDを販売している。

ベルトの改変

3代目はハーリー・レイスが初めて王座奪取した1973年に角ばったデザインの物を作成。このベルトは一時小橋建太に貸与されていた。

そしてNWAがインディー系組織として再始動すると、レイス時代のものを復刻し現在に至る。

Wikipediaより  

 

 

 

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【非売品】 NWA・WCW世界ヘビー級チャンピオンベルト(Big Goldリック・フレアーモデル)レプリカ

2017年11月02日 15時39分07秒 | プロレスグッズ

デュアルカラー。

メーカーFandu社中国製

全長約1,380mm。

重量約3.3Kg。

ストラップダークブラウン本革。

リック・フレアーネームプレート付き。

収納袋無。

1948年に設立された、新NWA(アライアンス)の初代王座にはオーヴィル・ブラウンがついた。1949年にブラウンと旧NWA(アソシエーション)の世界王者のルー・テーズによるタイトルマッチが行われるはずであったが、ブラウンが交通事故に遭い引退したため、テーズが第2代王者の認定を受けることとなった。

その後、新NWAはこの世界王座を正当化させるためにフランク・ゴッチを初代王者とし、2代目以降は適当に過去の団体の王者をつぎはぎした。そしてルー・テーズは第38代王者として認定を受けた。以後はここからNWA世界王者の代数をカウントしていくこととなる。

NWA世界ヘビー級王座は、ルー・テーズやジン・キニスキードリー・ファンク・ジュニアハーリー・レイスなどの実力あるレスラーたちの功績により、1980年代前半まで世界最高峰のベルトとして広く認知されるに至った。このタイトルを手にした者は全米各地(時には日本を初めとする海外)のNWA会員のプロモーターのテリトリーを転戦し、その地区のローカルチャンピオンと防衛戦を行わなければならず、かなりの体力と精神力が要求された。ただし、NWA王座は反則勝ち/負けでは移動せず、またオーバー・ザ・トップロープは反則というルールが存在したため、それを利用してベルトの防衛を行うこともできた。

NWA王者は各地のスターレスラーと防衛戦を行う仕組みになっているため、実力差を見せつけるような試合はせず、苦戦しながらの辛勝や引き分け・反則負けなどで防衛を重ねていく。そこで、インサイドワークに長けたテクニシャンタイプが多く、反則防衛を多用するヒール(悪役)タイプのレスラーも少なくない。

NWA世界ヘビーの銘を冠するベルトを獲得した日本人レスラーはこれまでに何人もいるが、NWA黄金期にこのタイトルを獲得したレスラーは、ジャイアント馬場(3度獲得)ただ一人である。ただし、いずれも戴冠期間は1週間以内で、NWA王者(ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス)の来日期間中に一時的に王座を貸与されていたものであり、いずれも前王者との再戦でベルトを奪還されている。

1980年代末、WWFの全米進出によってテリトリー制が崩壊し、NWA末期における最大の団体であったジム・クロケット・プロモーションズテッド・ターナーに買収されてWCWが台頭した後は、NWA王座は実質的にWCWが管理するようになり、その際はWCWの管理する一王座という扱いであった。そのため、その権威は大きく下がり、さらにWCWのNWA離脱と共にスター選手もNWAから離れたため、権威は更に大きく下落した。1990年代後半から2000年代初頭にかけてはインディー団体の一王座にまで権威は低下した。

2002年に入り、NWAとの業務提携によりTNAが王座を管理する権利を獲得(管理する期間は2014年まで)。以降実質的にTNAの王座となっていたが、2007年5月業務提携終了によりベルトの管理権を剥奪された。

以降はROHなどアメリカのインディー団体や、メキシコのCMLLでタイトル戦が行われている。2008年10月25日にはブルー・デモン・ジュニアがメキシコ人レスラー、覆面レスラーとして初のNWA世界ヘビー級王者となっている。2013年よりNWAから新日本プロレスへ挑戦表明がなされ、新日本プロレスのビッグマッチでもタイトル戦が行われるようになった。2014年1月4日東京ドーム大会で小島聡が、日本人としては橋本真也以来の王座に輝いた。

また、WWE世界ヘビー級王座は元々WCW世界ヘビー級王座を復活させたものであるが、WCWの番組内でWCWとNWAの両王座が統合された経緯を根拠に同一のものと主張、あるいは意図的に混同し、NWA、WCW、WWEに至る世界王座のDVDを販売している。

ベルトの改変

4代目は1986年にリック・フレアーが5度目の戴冠を果たした際に黄金に輝くベルトを作成。このベルトはWCWでもそのまま使用され、NWA離脱後もWCW世界ヘビー級王座のベルトとなった。

Wikipediaより 

 

 

 

 

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【非売品】 WWWFヘビー級チャンピオンベルト(ボブ・バックランドモデル)レプリカ

2017年11月02日 15時38分45秒 | プロレスグッズ

ディヴ・ミリガン製。

全長約1,300mm

重量約5~kg。

ストラップ本革。

収納袋有。

刻印無、ディヴ・ミリガンからの送付状、国際郵便物課税通知書等有。

 

WWE・世界王座

WWE王座(The WWE Championship) は、アメリカ合衆国プロレス団体WWEにおける王座の一つである。王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。

歴史

王座創設はWWEの前身であるWWWF設立前の1963年1月25日とされる。初代王者はリオデジャネイロでのトーナメントを勝ち抜いたバディ・ロジャースで、決勝の相手はアントニオ・ロッカとされている。もっとも、このトーナメントは実際には行われていない(なお、この前日の24日にはトロントでロジャーズ対ルー・テーズNWA世界ヘビー級王座戦が行われ、ロジャースが王座転落)。その数か月後、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノがロジャースを圧倒的な試合展開で下し、以後約8年間の長きに渡り王座を保持した。

1971年よりプエルトリカンペドロ・モラレスが新王者となり、イタリア移民のサンマルチノに続くニューヨークのマイノリティのヒーローとして活躍。以後、ショーマン派のスーパースター・ビリー・グラハムやアスリート系のボブ・バックランドが戴冠した。1979年には日本でアントニオ猪木が王座を獲得したが、日本での王座移動の経緯はアメリカのファンに説明されなかった[1]。そのため、猪木の戴冠についてはWWEが認めている時期と認めていない時期があり、公式的には猪木は歴代王者にカウントされていない。しかし2010年の猪木のWWE殿堂入りを機に再び認められる可能性もある。

ビンス・マクマホン・シニアが死去し、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻がスタートした1984年からは、ハルク・ホーガンを主軸とした王座争いに移行。ランディ・サベージアルティメット・ウォリアーなども王者となり、WWFのファミリー・エンターテインメント路線を牽引した。ホーガンがWCWに移籍した1993年以降は、ニュー・ジェネレーション路線としてブレット・ハートショーン・マイケルズが王座戦線の主役となった。

1997年、WWFは視聴率争いで一歩リードされていたWCWに対抗するために、これまでのプロレスの常識を覆すソープオペラ調のストーリー、アティテュード路線に切り替える。以降、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンザ・ロックトリプルHらを中心とした王座争いがドラマ仕立てで展開され、WWFの会長であるビンス・マクマホンまでもが王者になるということもあった。

2001年12月9日に開催されたヴェンジェンスではWWF王座とWCW王座を統一したWWF統一王座が新設され、クリス・ジェリコ、ザ・ロック、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、カート・アングルの4名によるトーナメントの結果、クリス・ジェリコが初代統一王座を戴冠した。今なおジェリコは「一夜でロックとオースチンを倒した唯一の男」と喧伝されている。

2002年8月25日に開催されたサマースラムでの統一王座戦ザ・ロックvsブロック・レスナーでレスナーがロックに勝利し王座を奪取。当時統一王者はRAW、SmackDown!両方の番組に出ることが可能であったが、レスナーはSmackDown!専属となり名称もWWE王座と改称される。以降はSmackDown!が王座を管轄し、RAWには世界ヘビー級王座が新設され、WWE王座と同等の扱いの王座となった。

2005年4月3日に開催されたWresleMania 21ジョン・シナJBLから王座を奪取し、6月のドラフトで王座を持ったままRAWに移籍。

2008年開催のドラフトでは、トリプルHが王座を持ったままSmackDown!へと移籍。 翌2009年開催のドラフトでも、トリプルHが王座を保持したままRAWへと移籍。

2013年TLC戦で、ランディ・オートンが、ジョン・シナとの王座統一戦で制し、名称もWWE・世界ヘビー級王座と改称される。これにより、11年間同じ最高位の王座としてあった世界ヘビー級王座は廃止されることになった。

また、名称はWWWF世界ヘビー級王座、WWWFヘビー級王座、WWFヘビー級王座、WWF世界ヘビー級王座、WWF王座、WWF統一王座、WWE統一王座、WWE世界ヘビー級王座、WWE世界王座などを辿って現在の名称となった。

歴代最多戴冠はジョン・シナの13回(2017年1月29日戴冠時)。

Wikipediaより

 

 

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【非売品】 WWE世界ヘビー級チャンピオンベルト(現行モデル)レプリカ

2017年11月02日 15時38分22秒 | プロレスグッズ

メーカー WWE公式ライセンス品。

全長約1,280mm

重量約2.6kg。

ストラップ本革にカスタマイズ済。

CRAFTED BY SCOTT THIBODEAUの刻印有。

収納袋無。

WWE世界王座(The WWE World Championship) は、アメリカ合衆国プロレス団体WWEにおける王座の一つである。王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。

王座創設はWWEの前身であるWWWF設立前の1963年1月25日とされる。初代王者はリオデジャネイロでのトーナメントを勝ち抜いたバディ・ロジャースで、決勝の相手はアントニオ・ロッカとされている。もっとも、このトーナメントは実際には行われていない(なお、この前日の24日にはトロントでロジャーズ対ルー・テーズNWA世界ヘビー級王座戦が行われ、ロジャースが王座転落)。その数か月後、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノがロジャースを圧倒的な試合展開で下し、以後約8年間の長きに渡り王座を保持した。

1971年よりプエルトリカンペドロ・モラレスが新王者となり、イタリア移民のサンマルチノに続くニューヨークのマイノリティのヒーローとして活躍。以後、ショーマン派のスーパースター・ビリー・グラハムやアスリート系のボブ・バックランドが戴冠した。1979年には日本でアントニオ猪木が王座を獲得したが、猪木の戴冠についてはWWEが認めている時期と認めていない時期があり、現在の公式年表に猪木の名はない。しかし2010年の猪木のWWE殿堂入りを機に再び認められる可能性もある。

ビンス・マクマホン・シニアが死去し、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻がスタートした1984年からは、ハルク・ホーガンを主軸とした王座争いに移行。ランディ・サベージアルティメット・ウォリアーなども王者となり、WWFのファミリー・エンターテインメント路線を牽引した。ホーガンがWCWに移籍した1993年以降は、ニュー・ジェネレーション路線としてブレット・ハートショーン・マイケルズが王座戦線の主役となった。

1997年、WWFは視聴率争いで一歩リードされていたWCWに対抗するために、これまでのプロレスの常識を覆すソープオペラ調のストーリー、アティテュード路線に切り替える。以降、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンザ・ロックトリプルHらを中心とした王座争いがドラマ仕立てで展開され、WWFの会長であるビンス・マクマホンまでもが王者になるということもあった。

2001年12月9日に開催されたヴェンジェンスではWWF王座とWCW王座を統一したWWF統一王座が新設され、クリス・ジェリコ、ザ・ロック、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、カート・アングルの4名によるトーナメントの結果、クリス・ジェリコが初代統一王座を戴冠した。今なおジェリコは「一夜でロックとオースチンを倒した唯一の男」と喧伝されている。

2002年8月25日に開催されたサマースラムでの統一王座戦ザ・ロックvsブロック・レスナーでレスナーがロックに勝利し王座を奪取。当時統一王者はRAW、SmackDown!両方の番組に出ることが可能であったが、レスナーはSmackDown!専属となり名称もWWE王座と改称される。以降はSmackDown!が王座を管轄し、RAWには世界ヘビー級王座が新設され、WWE王座と同等の扱いの王座となった。

2005年4月3日に開催されたWresleMania 21ジョン・シナJBLから王座を奪取し、6月のドラフトで王座を持ったままRAWに移籍。

2008年開催のドラフトでは、トリプルHが王座を持ったままSmackDown!へと移籍。 翌2009年開催のドラフトでも、トリプルHが王座を保持したままRAWへと移籍。

2013年TLC戦で、ランディ・オートンが、ジョン・シナとの王座統一戦で制し、名称もWWE・世界ヘビー級王座と改称される。これにより、11年間同じ最高位の王座としてあった世界ヘビー級王座は廃止されることになった。

また、名称はWWWF世界ヘビー級王座、WWWFヘビー級王座、WWFヘビー級王座、WWF世界ヘビー級王座、WWF王座、WWF統一王座、WWE統一王座、WWE王座、WWE・世界ヘビー級王座などを辿って現在の名称となった。

現時点での同王座の最多獲得記録はジョン・シナの12回である。

Wikipediaより

 

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【非売品】 IWGPヘビー級チャンピオンベルト(初代モデル)レプリカ

2017年11月02日 15時37分57秒 | プロレスグッズ

闘魂ショップで抽選予約限定100本で発売された初期、シリアル無しバージョン。

全長約1,320mm

重量約3~kg。

ストラップ合皮。

収納袋有。

木箱有。

 

IWGP

IWGPInternational Wrestling Grand Prix、インターナショナル・レスリング・グラン・プリ、国際レスリング大賞)は、かつて新日本プロレスが開催したIWGPリーグ戦の名称及び同団体が管理するチャンピオンベルトの名称。

概要

IWGPはプロレス界における世界最強の男を決めるという考えの下にアントニオ猪木が提唱したものである。各地域や各々の団体にチャンピオンベルトがある事で真のチャンピオンを決めるべき姿を確立する為の目的で当初の計画では日本で開幕戦を行い、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦して決勝戦をニューヨークで行う予定だったが計画が壮大すぎたことに加え、「プロレス界における世界最強の男を決める」と言うプランから、それぞれの地区で王者を抱えていたプロモーターからの協力も得られず、紆余曲折の末1983年5月6日に蔵前国技館で第1回「IWGPリーグ戦」を開催。第1回「IWGPリーグ戦」決勝のハルク・ホーガン対アントニオ猪木戦におけるハルク・ホーガンのアックスボンバーによるアントニオ猪木の失神KOシーンが有名。第2回「IWGPリーグ戦」でも両者は決勝で戦ったが長州力の乱入によるリングアウトでアントニオ猪木が勝利。

IWGPヘビー級王座に先駆ける形で1985年12月12日にIWGPタッグ王座、1986年2月6日にIWGPジュニアヘビー王座が創立され、本来の目的であったIWGPヘビー級のリーグ戦は1987年の第5回まで行われ、6月12日、第5回「IWGPリーグ戦」を制したアントニオ猪木に初代IWGPヘビー級王者としてチャンピオンベルトが授与された。以降IWGPはチャンピオンベルトの名称として現在まで受け継がれている。

IWGP構想

新日本プロレスの旗揚げ当時、世界最高峰のプロレス団体、最高の権威を持つと言われていたのがNWAであった。このNWAに加盟しなければNWAの世界王者も招聘することはできないし、タイトルに挑戦することもできなかった。しかし、NWA加盟は新日本プロレスにとって高いハードルであった。元々日本のプロレス界とNWAは深いつながりを持っていた。力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズを招聘してタイトルマッチも実現している。日本プロレスは崩壊するまで、NWAの加盟団体であった。NWAは1ヶ国(1地域)に1団体という規定があり、日本はすでに日プロが加盟していたが、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、アメリカ遠征時代の深い関わりから、臨時総会が開かれて加盟が認められている。これに対して新日本は、猪木の知名度がアメリカでは馬場よりも大きく劣ることもあって、ほとんど無視されているような状態であった。閉ざされていたNWA加盟への道を切り開くきっかけを与えてくれたのは、ビンス・マクマホンとマイク・ラベールであった。彼らは独占禁止法を盾に取ってNWAに対して訴訟を起こしてはどうかと提案。こうした経緯もあって新日本は1980年にNWA加盟が認められた。しかしNWAでは実務的な話しかされず、さらにチャンピオンを招聘してタイトルマッチができるのは既存のプロモーターだけという条件も付けられていた。何かと障害があり不自由が多いNWAでの活動に辟易していた新間寿は、ある時お経を読んでいるときにIWGPの構想を思いついた。時を同じくして、猪木から「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか?」という話があり、新間は「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と申し出た[1]

IWGP選手権ルール

  • 試合時間は60分1本勝負。
  • 試合の決着はフォール、ギブアップ、KO、リングアウト、レフェリーストップ、ドクターストップ、反則、ノーコンテストで決まる。いずれの場合も挑戦者が勝利した場合は王座が移動する。
  • 時間切れは引き分け。ただし両者リングアウトは適用せず、試合時間内であれば何度でも再試合とする。
  • 王座保持者は原則としてタイトル獲得後6ヶ月以内に防衛戦を行わなければならない。
  • いずれも対戦者同士の合意があればルールを変更することができる。

IWGP王座

1983年から1987年のIWGPリーグ戦を経て現在の新日本プロレスが認定するIWGP王座は以下の通り。

NEVER王座
封印された王座

 

IWGPヘビー級王座

IWGPヘビー級王座は、日本プロレス団体である新日本プロレスが管理する王座(タイトル)。

 

IWGPは元々は、「International Wrestling Grand Prix」というリーグ戦を意味するものであったが、1987年に開催された第5回「IWGP王座決定リーグ戦」の優勝者であるアントニオ猪木を初代チャンピオンとして防衛戦が行われ、現在まで継承されている。

 

タイトル制定以降、新日本プロレスを象徴する同団体で最も権威のあるチャンピオンベルトとされている。デザインは初代から4代目まであり、初代は1983年の第1回IWGPリーグ戦開催にあたって作成され優勝したハルク・ホーガンが初めて巻き、1997年まで使用されたが、旗揚げ25周年を迎えて一新された。

 

2001年PRIDEのリング上でアントニオ猪木から初代ベルト王者として指名を受けた藤田和之と、2代目のベルトを継承していた第28代王者スコット・ノートンとの間で4月9日大阪ドームで「IWGP新旧ベルト統一戦」が行われ、この一戦に勝利した藤田が2本のベルトを獲得したが、年末に練習中に右アキレス腱を断裂。2002年1月4日、防衛戦が出来ずに2本のベルトを猪木に返上。

 

その後、2代目のベルトを使用していたが、2005年7月11日、通算最多防衛記録を持つ橋本真也が逝去。天山広吉に勝利して再び王者となった藤田が、橋本の功績を称え、橋本家に2代目ベルトを贈呈することになり、新デザインを作成。9月30日にサイモン・ケリー猪木新社長就任披露パーティーにて米国で制作された3代目のベルトが藤田に授与された。10月9日東京ドームブロック・レスナーが獲得。その後、剥奪することになったが返還されることなく、新王者となった棚橋弘至が2代目ベルトを代用。

 

3代目ベルトはその後、IGF旗揚げ興行で新日本とは無関係に行われた防衛戦でレスナーを下したカート・アングルに渡ったが、2008年に第48代王者の中邑真輔がカートとのベルト統一戦に勝利して奪還に成功。3月2日、プロレスリングZERO1-MAX後楽園ホールのリングに上がり、佐藤耕平に勝利。試合後、橋本家に2代目ベルトを贈呈。その後イメージ刷新のため現行の4代目ベルトが制作された。

 

新日本プロレスリング認定の「プロレスリング競技者規約 IWGP各選手権ルール」第2条第1項によって体重100kg以上の選手を対象としている。しかし、2007年2月18日に棚橋弘至の持つ王座に金本浩二が挑戦したほか、現在も体重が100kgに満たない選手の挑戦があるため事実上体重の制限はなくなったと考えられる。

Wikipediaより

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【非売品】 UFC世界王座チャンピオンベルト(現行モデル)レプリカ

2017年11月02日 15時37分34秒 | プロレスグッズ

メーカーFIGURES TOY社製。

全長約126cm。

重量約3.6kg。

ストラップ合成皮革。

収納袋付。

Ultimate Fighting Championship(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ、略称UFC)は、アメリカ合衆国総合格闘技団体。

アメリカケーブルテレビPPVで始まった企画ではあったが、それまでブラジルで行われた何でもありルールの「バーリトゥード」と呼ばれる総合格闘技を世界に本格的に紹介することになった。「金網、究極ルール」という演出で、その後、世界各国において総合格闘技の大会が開催されるようになるなどの影響を及ぼした。

初期は体重無差別によるワンデートーナメントであったが、その後は階級別でのタイトルマッチによりチャンピオンを決定しており、かつて「ルール無しルール」による喧嘩大会の様相で始まったUFCは現在ではコミッションによる裁定、階級別によるマッチメイク等、確立したスタイルとして整備された。

Wikipediaより 

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【非売品】 アントニオ猪木 本人使用 闘魂タオル

2017年11月02日 15時37分04秒 | プロレスグッズ

闘魂タオル 本人使用済み。

昭和62年(1987年)8月19日 新日プロ「サマー・ナイト・フィーバー・イン国技館」両国国技館 アントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明、星野勘太郎、武藤敬司対藤波辰巳、長州力、前田日明、木村健吾、スーパーストロング・マシンで使用され、リングから観客席に投げたもの。

アントニオ 猪木(アントニオ いのき、: Antonio Inoki, 1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー実業家政治家日本を元気にする会所属の参議院議員(2期)、日本を元気にする会代表。本名:旧リングネーム:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂[3]」(当初は「燃ゆる闘魂」)。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。元妻は、女優倍賞美津子。倍賞との間に娘が一人いる。1991年イラクシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン[4]

プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。

新日本プロレス設立

日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンスタン・ハンセンハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

異種格闘技戦

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビア亡命したため、結局対戦は実現しなかった。

Wikipediaより

 

 

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【非売品】 力道山 日本人選手多数 直筆サイン

2017年11月02日 15時36分32秒 | プロレスグッズ

力道山のサイン色紙。

(画像1枚目)

昭和38年(1963年)8月3日の長野県飯田市の飯田市営今宮球場で書かれた直筆サイン色紙です。

他に木村政彦(書籍に直筆サイン)、遠藤幸吉、豊登、芳の里淳三、吉村道明、沖シキナ等からほぼすべての日本人選手の直筆サイン色紙多数。

日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレス、旧U.W.F.等。

力道山(りきどうざん、朝鮮語역도산(ヨットサン、Yeokdosan / Yŏktosan)、朝鮮文化語력도산(リョットサン、Ryeokdosan / Ryŏktosan)、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本プロレスラー。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シラク、김신락(Gim Sinrak / Kim Sinrak))。大相撲力士出身。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。

プロレス転身

その後二所ノ関部屋の後援者新田新作が社長を務める新田建設に勤務したが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカフリーメイソン系慈善団体「シュライン英語版フリーメイソン#関連団体も参照)」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者チャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。

1952年2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレス協会を設立する。シャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、テレビ放送が1953年テレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。しかし、木村は相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイルに適応できず、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。

後に木村は力道山とは袂を分かち、自身の団体で興行を打つものの、観客動員は芳しくなく、金銭的に窮地に陥った木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島」といわれる謎の試合に繋がっていった。

1954年12月22日、力道山は挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリーハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルールで行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという。しかし、初戦で木村の急所蹴りに激怒した力道山が突如と殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑ったままの木村政彦をそのままKO。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末に観客たちも驚き会場は静まりかえったという。この力道山が激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山が木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが由来とする報道もあり、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明となっている。後日、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言する。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時の試合舞台裏については謎が多く、様々な憶測や意見が出されることで、この試合をモチーフとし書かれた小説、エッセー等が存在する。近年では、ノンフィクションを謳う増田俊也著の 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が主に木村視点での綿密な取材を行い、ヒットしたことで話題となった。

大相撲出身の力道山が天下を取ったことで角界からプロレス入りする者が続出し、現在も日本プロレス界の付き人制度等、相撲の影響が垣間見える。

1955年キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦、奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座から分裂していた王座である)。力道山はルー・テーズパット・オコーナーカール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。

1958年4月、力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した。

1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり・・・」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り当新聞に激怒したという[10]

1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという。

1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂ナイトクラブニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。墓所は東京都大田区池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されている。

Wikipediaより

昭和38年(1963年)8月3日の長野県飯田市の飯田市営今宮球場で書かれた直筆サイン色紙です。

 

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【非売品】 NWA世界チャンピオン 直筆サイン

2017年11月02日 15時35分40秒 | プロレスグッズ

歴代のNWA世界チャンピオンの直筆サイン。

(画像1枚目)鉄人ルー・テーズ 直筆サイン色紙2枚、WRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚、直筆サインポートレート1枚

(画像2枚目)野生児バディ・ロジャースWRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚、ディック・ハットン 直筆サイン色紙1枚、マットの魔術師 パット・オコーナー 直筆サイン色紙1枚、荒法師 ジン・キニスキー 直筆サイン色紙1枚、直筆サインポートレート1枚

(画像3枚目)ドリー・ファンク・ジュニア 直筆サイン色紙1枚、テリー・ファンク 直筆サイン色紙1枚、美獣 ハリー・レイス 直筆サイン色紙1枚、南部の麒麟児 ジャック・ブリスコ 直筆サイン色紙1枚、直筆サイン入ブロマイド1枚、アメリカン・ドリーム ダスティ・ローデス 直筆サイン色紙1枚 

その他 ジャイアント馬場/トミー・リッチ/リック・フレアー/ケリー・フォン・エリック/ロニー・ガービン/リッキー・スティンボート/スティング/藤波辰巳/蝶野正洋/ザ・グレート・ムタ/バリー・ウインダム/ダン・スバーン/小川直也/ビル・ゴールドバーグ等/以下 ジュニアヘビー ダニー・ホッジ/ヒロ・マツダ/ケン・マンテル/ネルソン・ロイヤル/レス・ソン・ソントン/ジェリー・ブリスコ/タイガーマスク/ザ・コブラ等 以上 直筆サイン色紙各1枚

NWAは、アメリカ合衆国プロレスプロモート連盟。正式名称はナショナル・レスリング・アライアンスNational Wrestling Alliance、全米レスリング同盟)。

複数のプロレス関連組織がNWAを名乗ったが、今日において一般的にNWAと呼ばれるのは、このナショナル・レスリング・アライアンス(全米レスリング同盟)である。そのため、本項では全米レスリング同盟についてを中心に記述している。

歴史

発足

1948年7月に、アイオワ地区のプロモーターであるピンキー・ジョージが中心となり、セントルイスのサム・マソニックやミネアポリスのトニー・ステッカーら5人のプロモーター達と共に結成された。第二次世界大戦後、プロレスを再興させるために「世界タイトルの認定」を行い、世界王者を抱えることによって興行的に大都市のプロモーターに対抗する意図があった。あくまで連盟であるため非営利組織であったが、談合カルテルとしての側面を持ち合わせており、1956年には独占禁止法違反により司法省に告訴された。

黄金期

当初、ピンキー・ジョージは、アメリカ中西部地区に限った統一世界王座の構想を持ち、NWA結成を呼びかけたが、瞬く間に加盟するプロモーターの数が増え、間もなく発足メンバーの1人であるサム・マソニックに実権を奪われた。以降、1960年代から1970年代にかけては、マソニックのリーダーシップにより黄金期を形成。ボブ・ガイゲルフリッツ・フォン・エリックエディ・グラハムジム・バーネットジム・クロケット・ジュニアなどのプロモーターが繁栄テリトリーを築き、フラッグシップ・タイトルのNWA世界ヘビー級王座はプロレス界における世界最高峰の王座とされた。しかし、1980年代前半に入り、ケーブルテレビの普及やオイルショック以降のガソリンの高騰(当時多くのレスラーは現在以上に車で移動していた)、WWFとの興行戦争などにより、低迷する加盟地区が続発、NWAの力も衰退していくことになった[1]

衰退期

1984年、WWF(現:WWE1983年まではNWAの一員だった)が豊富な資金とケーブルテレビの活用を背景に全米に勢力を拡大し始めると、次第に興行に行き詰まる地区が続出。AWAバーン・ガニアと組んで対抗しようとしたが、資金力と団結に劣るNWAに勝ち目はなく、衰退の一途をたどり始める。1980年代後半に入ると王者リック・フレアーを擁するノースカロライナ州のプロモーター、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化しNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制は形骸化。ダラスのプロモーターで元会長のフリッツ・フォン・エリックのようにNWAからの独立に活路を求める者まで出る始末だった。しかし、ジム・クロケット・プロモーションズもWWFとの興行戦争に敗れ経営難となり、1988年11月の当時、テレビ放映権を持っていたテッド・ターナーに買収され、新団体、WCWが発足する。WCWでは買収後はNWA王座とWCW王座のタイトルマッチを並行して行っていたが、1993年にWCWもNWAから脱退した。

衰退後

WCWの脱退後もNWAは団体として存在するものの、マイナータイトルの1つという位置付けにすぎず、かつての威厳はない。1994年8月、当時加盟していたECWにおいてNWA世界ヘビー級王座の王座決定戦が行なわれたが、王座を獲得したシェーン・ダグラスは「こんな王座に価値はない」とチャンピオンベルトを投げ捨てる暴挙に出た(この一件でECWは脱退している)。かつての権威を取り戻す動きを起こしても、WWEの勢力が強く、また当時とはプロレスの位置付けや見方が大きく変わっているために、苦戦している。

その中でも2002年に設立されたTNA(Total Nonstop Action)はNWAに所属する団体の中で急速に勢力が拡大している団体であり、単一メジャーのWWEに次ぐ勢力となりつつある。元WWE出身の選手も多く在籍する。しかし、2007年5月にNWAと業務提携を終了、NWAからタイトルを剥奪され 、TNA独自の新タイトルに切り替えることになった。

その他、ジョージア地区のNWAアナーキー(NWA Anarchy)は、2005年4月まで存続した団体、NWAワイルドサイド(NWA Wildside)の後を継いで、毎週全米とカナダで週1回のテレビ番組を供給している。NWAプロ・レスリング(NWA Pro Wrestling)は、ルチャ・リブレを取り入れたスタイルでアメリカ南西部地区、カリフォルニア地区、ニュージャージー地区を中心に興行を行なっている。

2008年には、EMLL(現:CMLL)のスターであったブルー・デモンの息子、ブルー・デモン・ジュニアがNWAメキシコ(NWA Mexico)を創立。彼はルチャドールで初めてNWA世界ヘビー級王座に就いた。

現在

2012年テキサス地区のブラウンズビルのプロモーターで、NWA会員のブルース・サープが加盟団体の保険制度に不正があるとし、NWA理事会に提訴するが、NWAの専務理事がこれに応じなかったため、裁判となり、同年8月にサーブがNWA標章の権利を勝ち取り実権を掌握。これ以降、NWAは加盟プロモーターによる合議制から、加入希望者がNWAに対し標章使用料を支払うライセンス制度に変更され、現在に至っている。

日本のプロレス団体との関係

日本では、日本プロレス(以下日プロ)が1960年代後半にNWAへ加盟したが、それ以前にも正式な加盟はしていなかったものの、力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズの招聘を実現させタイトルマッチを組むなどNWA本部とは友好な関係を構築し、正式な加盟後も日プロは崩壊までメンバーであった(名義人は芳の里淳三)。

全日本プロレス(以下全日本)に関しては、ジャイアント馬場アメリカ遠征時代からNWAとの関わりが強く、全日本創立直後に芳の里がすでに加盟していたにもかかわらず臨時総会まで開いて加盟が認められている(全日本と友好関係にあったアマリロのプロモーター、ドリー・ファンク・シニアの強力な働きかけによるとされる)。1984年より馬場は、全日本の会長の立場で4期に渡って日本人唯一のNWA第一副会長を務めた。だが、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化したことによってNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制が形骸化したことや、NWAから「鶴田天龍の世界ヘビー級王座への挑戦は認めない」という指示が出たことにより、全日本はNWAとの関係を見直すようになり、最終的には脱退し、団体内での闘いにシフトしていった。

新日本プロレス(以下新日本)に関しては、当時の社長であったアントニオ猪木が加盟を申請したが、NWA側から拒否され、坂口征二新間寿が新日本側の加盟名義人として申請し加盟を認められている。だが、NWAへの加盟は認められたものの、世界ヘビー級王座のタイトルマッチは全日本のみに限られ、新日本では、世界ヘビー級王座のタイトルマッチが行うことはできなかったりと、待遇には差があった。猪木はこれを逆用して「NWA王者は俺が恐くて挑戦を逃げた」と国内で宣伝し、日本のファンには受けたが他のレスラーやプロモーターからは顰蹙を買った。その背景からNWAを脱退していたWWWF(現:WWE)と提携を結び、WWWFがNWAに再加盟してWWFに改称した後もNWA反主流派同士として関係は続いた。その後、WWFと提携解消に至ると、全日本がNWAと徐々に疎遠になっていったのとは対照的に、NWAとの関係を深め、当時提携していたWCWと連携し空位になった世界ヘビー級王座の決定トーナメントを開催するなどしていたが、WCWがNWAから脱退したことで、新日本もNWAとの関係を見直し、脱退している。

女子では日本女子プロレス(以下日女)が創立して間もなく松永高司を名義人として加盟していたが、松永は日女を離脱して全日本女子プロレス(以下全女)を旗揚げしたためそのまま全女に移るも、1970年にWWWAの権利を獲得したのもありNWAとの関係は疎遠になっていた。しかし、1970年代末期に全女はファビュラス・ムーラとその一門をNWAチャンピオンとして招聘し、ムーラの女子王座をナンシー久美に、女子タッグ王座を横田利美&塙せい子にそれぞれ挑戦させている。2000年にはNEO女子プロレスが加盟しNWA女子パシフィック王座&NEOシングル王座を創設している。

2001年橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONE(以下ZERO-ONE)がNWAに加盟し、実質的な日本支部として活動を行い、「NWA」の冠の付いた王座を複数認定していた。2004年にZERO-ONEが崩壊したことで関係は一時途絶えるが、後継団体のZERO1では引き続き独自に「NWA」の冠がつくタッグ王座の管理・認定を続けた。2011年にはZERO1がNWAに加盟(実質的には再加盟)したことで、これらZERO1が管理するNWA王座もNWA側により追認された。しかしザ・シーク(2代目)が持つNWA世界ヘビー級王座の剥奪に抗議したため同年限りでNWAから脱退し、同じNWAの略称を持つ独自の組織たる「ニュー・レスリング・アライアンス(New Wrestling Alliance)」を立ち上げた。一方、ZERO-ONE崩壊後、当時新日本取締役だったサイモン・ケリー猪木がNWAに加盟し、再び新日本と関係を持つが、サイモンの新日本退社とIGF旗揚げに伴い、新日本はNWAから脱退し、代わりにIGFが加盟して現在に至っている。IGFでは澤田敦士がNWAヘリテイジ王座を獲得しており、NWA傘下当時のZERO1主催の大会「火祭り」にNWA枠として出場した。

なお全日本と新日本の他にも、国際プロレスの社長、吉原功も1970年に加盟申請しているが、日プロによる妨害工作で却下されている。また、大木金太郎韓国のプロモーターとして加盟している。新日本脱退からZERO-ONE加盟まではI.W.A.JAPANレッスル夢ファクトリーUFOが加盟していた。I.W.A.JAPAN創始者のビクター・キニョネスプエルトリコのプロモーターとして1994年から2001年まで加盟していた。

2013年3月、NWA側から新日本へ挑戦表明の映像が公開され、同年4月開催予定の新日本両国国技館大会への参戦を直訴し、世界ヘビー級王座、世界ジュニアヘビー級王座、世界タッグ王座のタイトルマッチが行われるなど、再び交流を持つようになった。だが、あくまで新日本では、同団体の王座であるIWGPを格上の王座として対応している。

2015年、NWA世界女子王者サンタナ・ギャレットスターダムに参戦し、同団体にて世界女子王座のタイトルマッチが行われることになった。

Wikipediaより

 

 

 

 

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【非売品】 AWA世界チャンピオン 直筆サイン

2017年11月02日 15時35分18秒 | プロレスグッズ

歴代のAWA世界チャンピオンの直筆サイン。

(画像1枚目)AWAの帝王 バーン・ガニア 直筆サイン色紙2枚

(画像2枚目)ドン・レオ・ジョナサン 直筆サイン色紙1枚、原爆男 ウィルバー・スナイダー 直筆サイン色紙1枚、ドクターX 直筆サイン入写真(ビル・ミラー 直筆サイン色紙1枚)

(画像3枚目)粉砕者 クラッシャー・リソワスキー 直筆サイン色紙1枚、マッドドッグ・バション 直筆サイン色紙1枚、鉄の爪 フリッツ・フォン・エリック 直筆サイン色紙1枚、その他 エドワード・カーペンティア

その他 ディック・ザ・ブルーザー(直筆サイン色紙と直筆サイン入ポスター:ディック・ザ・ブルーザーとブルーザー・ブロディのW直筆サイン ディック・ザ・ブルーザーの妻の証明の手紙付き)/ドクターX(=ザ・デストロイヤー) 直筆サイン入ポスターとポートレート/ニック・ボックウインクル/オットー・ワンツ/ジャンボ鶴田/リック・マーテル/スタン・ハンセン/カート・ヘニング/ラリー・ズビスコ/マサ斎藤等 以上 直筆サイン色紙各1枚

アメリカン・レスリング・アソシエーションAmerican Wrestling Association、略称:AWA)は、1991年までアメリカ合衆国に存在したプロレス団体

概要

1960年5月。バーン・ガニアミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを脱退して設立。ミネアポリスを本拠に、シカゴミルウォーキーオマハデンバーおよびカナダウィニペグなど、アメリカの北部地域を活動領域とした。形式上はNWA同様にアメリカ各地のプロモーターの連合体であったが、実際には一つの「団体」であり、実権はプロモーター兼プロレスラーのガニアが掌握していた。会長はスタンリー・ブラックバーンらガニア以外の人物が務めていた。

フラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座には、当時のNWA世界ヘビー級王者だったパット・オコーナーを初代王者として独自に認定、オコーナーをAWAとNWAの統一世界王者とし、ガニアとの指名試合を勧告する。しかし、オコーナー側は正式なブッキング要請がないとして対戦を拒否。これにより1960年8月、AWA世界ヘビー級王座はガニアに移動。以降、ガニアはAWAのオーナー兼世界チャンピオンとして一時代を築いた。

かつてはNWAやWWWF(後のWWF)と並ぶ全米3大メジャー団体であり、アンドレ・ザ・ジャイアントハルク・ホーガンロード・ウォリアーズなどが最初のブレイクを果たしたのもAWAのリングだった。WWFがNWA傘下に入っていた時期は、フラッグシップ・タイトルのAWA世界ヘビー級王座NWA世界ヘビー級王座と並ぶ2大世界王座とされたこともあった。

また、オーナーのバーン・ガニア自身がオリンピック出身だったこともあり、レスリングバロン・フォン・ラシクラーズ・アンダーソンクリス・テイラーブラッド・レイガンズ)や重量挙げケン・パテラ)などのオリンピック代表または代表候補の選手を積極的にスカウトし、AWAでデビューさせている。1970年代からは「ガニア・キャンプ」と呼ばれるプロレスラー養成所を開設。団体内に自前のジムを持つことは当時のアメリカのマット界では珍しい事例であり、トレーナーにはガニア自身に加え、ビル・ロビンソンコシロ・バジリを起用して新人選手を育成した。キャンプの出身者には、リック・フレアーリッキー・スティムボートサージェント・スローターなど、後にNWAやWWFの世界王者となったレスラーも少なくない。

インディアナ州インディアナポリスWWAテネシー州メンフィスCWAテキサスサンアントニオ地区、カナダのモントリオール地区とも提携し、1982年からはソルトレイクシティサンフランシスコに進出するなど勢力を拡大したが、1984年に始まったWWFの全米マット制圧に際し最初のターゲットにされ、ハルク・ホーガンをはじめとする主力選手やスタッフ(ブッカーのジャック・ランザ、アナウンサーのジーン・オーカーランドマネージャーボビー・ヒーナンなど)を次々と引き抜かれたため、一気に弱体化。WWFへの対抗手段として、NWAのジム・クロケット・プロモーションズやCWAとの合弁事業組織「プロレスリングUSA」を立ち上げ、各地で合同興行を開催したが、ジム・クロケット・ジュニアとの確執などでNWAとの共同路線も頓挫。本拠地ミネアポリスでの観客動員も激減し、団体としての活動は1991年に終了。権利関係は後年になってWWF(現:WWE)に買い取られた。そのため、近年ではWWE 24/7にてAWAの試合も放送されている。

日本との関わり

日本のプロレス団体とは、NWAが日本プロレスと提携していたため、その対抗策として1970年より国際プロレスと提携。AWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアをはじめ、AWA世界タッグ王者チームのマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス、初来日の「まだ見ぬ強豪」だったダスティ・ローデスワフー・マクダニエルなど、AWAのスター選手が続々と国際プロレスに来日した。その一方で、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフなど、国際プロレスに参戦していたヨーロッパの選手がAWAに登場し、彼らのアメリカ進出の契機ともなった。しかし、団体のエースだったストロング小林の離脱やTBSのテレビ放送打ち切りなどで経営状態が悪化した国際プロレスは、高額なブッキング料が必要とされるAWAとの提携を1975年に解消、カルガリーに居住していた大剛鉄之助をブッカーに、カナダを外国人選手の新しい招聘ルートとした。

以降、AWAは全日本プロレスと提携を開始したが、もともと全日本プロレスは国際プロレスと友好的な関係にあったこともあり、1979年から1980年にかけては、当時のAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルが国際プロレスに再登場し、ラッシャー木村大木金太郎を相手に防衛戦を行った。1981年の国際プロレス崩壊後は日本での提携先を全日本プロレスに絞り、1984年にはジャンボ鶴田が日本人初のAWA世界ヘビー級王者となっている。活動末期の1980年代末からは、マサ斎藤の仲介で新日本プロレスとも関係を持つようになった。女子では1980年代後半にジャパン女子プロレスと接点を持ち、AWA世界女子王者シェリー・マーテルが来日して防衛戦を行っている。

Wikipediaより

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【非売品】 WWWF世界チャンピオン 直筆サイン

2017年11月02日 15時34分55秒 | プロレスグッズ

歴代のWWWF世界チャンピオンの直筆サイン。

(画像1枚目)人間発電所 ブルーノ・サンマルチノ 直筆サイン色紙2枚、WRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚、直筆サインポートレート1枚

(画像2枚目)スーパースター・ビリー・グラハム 直筆サイン色紙3枚、WRESTLING LEGENDS直筆サインカード1枚

(画像3枚目)大巨人 アンドレ・ザ・ジャイアント 直筆サイン色紙1枚(当時、アンドレはファンにサインしなかったので新日プロの柴田レェフリー経由で入手)、その他モンスター・ロシモフ 直筆サイン色紙1枚とアンドレ・ザ・ジャイアントとジャイアント馬場の寄せ書き直筆サイン色紙1枚付き)、超人 ハルク・ホーガン 直筆サイン色紙2枚

その他 イワン・コロフ/ペドロ・モラレス/スタン・スタージャック/ボブ・バックランド/アントニオ猪木/アイアン・シーク/ランディ・サベージ/アルティメット・ウォリアー/サージェント・スローター/ジ・アンダーテイカー/リック・フレアー/ブレット・ハート/ヨコズナ/スティーブ・オースチン/ザ・ロック/HHH/ビンス・マクマホン/クリス・ベノア/クリス・ジェリコ/ジョン・シナ/カート・アングル/AJスタイルズ/ブロック・レスナー(直筆サイン入ポートレート)等 以下 ジュニアヘビー カルロス・エストラーダー/藤波辰巳/剛竜馬/タイガーマスク/ダイナマイト・キッド等 以上 直筆サイン色紙各1枚

WWE: WWE, Inc.World Wrestling Entertainment)は、アメリカ合衆国プロレス団体及び興行会社

2002年以前はWWF: World Wrestling Federation1979年3月1日以前はWWWF: World Wide Wrestling Federation)という名称であったが、まったく同じ略称の World Wide Fund For Nature世界自然保護基金)に名称の改変を求める訴訟を起こされて敗訴してWWEに改めた(ちなみに近年販売されているオフィシャルなDVD等においては過去の映像の中で「WWF」の語が発せられた場合は全て「WWE」と訳出されている。マークやロゴの場合はぼかしなどで修正していた)。2012年に世界自然保護基金との交渉により映像や音声の修正無しでの過去の映像の使用が可能になった。ちなみに設立当初の WWWFの読みは「スリー・ダブル・エフ」である。

1999年より株式を公開(当初はNASDAQ、現在はニューヨーク証券取引所)しているが株式の約8割をオーナーであるマクマホン・ファミリーと関係者で保持しているために会社の経営権は不動となっている。なお取引所内で使われる証券コードもWWEである。

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