ピエロの綱渡り

お勧めできない綱渡り人生

自由の綱渡り

2015-01-17 | よしなしごと -随想
 帯状疱疹からは回復したが、慢性的に疲れていて、今は大きな口内炎に上唇の裏を支配され、左眼に痛みがあり、真っ赤に充血している。ノドは隙あらば痛くなる。鏡の、無精髭だらけの疲れた顔を見ると、まったく中年の行路病者の態で、自分で驚く。

 始終、憂鬱なモノトーンで、我ながらよく酒に逃げないものと思うが、それも体の弱いせいで、多くを飲むことも毎日飲み続けることも、すぐ体を壊すためにできない。頑丈な体ならきっと飲み続け、アル中になっても不思議はない。ご先祖様が、予めブレーキを設定しておいてくれたようだ。

 甘いものは数少ない気晴らしの一つ。冷凍ケーキは、食べる分だけ切って保存できて便利、原料も比較的キチンとしており、そこらのパン屋のケーキより安いうえに旨かったりする。
 これがいま冷凍庫にある分だが、セールで買っていたらこんなに増えた。一つあたり、八人分はある。


 息抜きにくだらない動画を見てみると、おもしろいほど、くだらないことで笑う。笑いに飢えていることがよく判る。気がかりを無くし、軽い気分で、バカ笑いしながら楽しい酒を飲みたいと切に思うが、そのためにも仕事を済まさないと。
 で、また重い気分へ戻る。

 討論というものが、昔から好きではない。
 現存する日本人作家でもっとも敬愛する野坂昭如氏(長生きして頂きたいものだ)が、以前流行った討論番組に出ていたとき、当時はしゃべり下手なオッサンくらいに思ってたが、あれは氏としてはやむにやまれない気持ち(とテレビで稼ぎたい気持ち)だったのかもしれないが、氏の本領はやはり文筆にあるので、今ならああいうものに出てほしいとは思わない(実際にもムリだろう)。
 新しい発見が一つでもあればよいが、互いの議論はまずかみ合わないどころか、徒労感が残ったり、残念で悲しくなったり、失礼なのがいて不快にさせられたり、ということばかりが心に残る。
 だいたいが各自好き勝手を云い合うばかり、他人への敬意などまず感じられず、そんなところでエネルギーを費やしてもしようがないという気になる。「学校で行われている討論というやり方によって、以前に知られていなかった何かの真理が発見されたということも、聞いたことがない」(デカルト『方法序説』第6部、AT VI, 69, 4-6)。

 予想通り、フランス人の多くは「自由の権利の絶対性」を信じていて、「自由は相手の自由を尊重するところから始まる」というような「バランスのとれた自由」は支持されないようだ。知識階級はわかっているにせよ、子供のころから自由の絶対的価値を叩き込まれてきた大多数のフランス人にとってはやはり、「表現の自由は絶対」である。「暴力はダメだが侮辱する権利はある il faut distinguer l'offense de la violence; on a le droit d'offenser」と云う人までいて、それがおそらく、フランス人の平均的意見なのだろうと思う(そして日本人の目から見ると、子供じみたわがままな自由を振り回す人々は随所にいる)。
 それだけ自由の絶対性を信じていること自体、敬意と驚異に値する。これは多くの日本人にはおそらく決して理解できないだろうし、反対に、日本人の平衡感覚に富んだ自由は、多くのフランス人には理解されないことだろう。

 18世紀以来、幾度とない論争や事件を経て政教分離を果たし、ようやくにして獲得した神をも冒瀆する自由は、フランス文化では周知の権利でも、イスラムを始めとする他文化には共有されていない。たとえ一部の良識派はこの問題を再認識しても、多くの人はテロに目を奪われるあまり、また移民を自国に同化させてきた歴史もあり、文化間のズレを反省するには至らないだろう。それどころか、近年は押され気味だったフランス中華思想が再隆盛し、右翼の人気が高まることは容易に予想される。そして、フランス的自由のシンボルとしての「シャルリー」を支持することが、フランス的価値を支持するかどうかの踏み絵になるのではないかと恐れている。

 シャルリー・エブドは同じ調子を続け、ムスリムは怒り続け、フランス政府は軍隊を中東アフリカへ派遣。今回の事件で無関係な人が何人も犠牲になったが、日本なら確実に出る「シャルリー・エブドのせいで無関係の人たちが巻き込まれた」という意見は、多くのフランス人からはまず出ない。たとえシャルリー・エブドの風刺に同意しなくても、「彼らが何を表現しようが自由」だからだ。そしてどれほど強大な警察や軍隊でも、ゲリラの波状テロを完全に防ぐことはまずムリ、さらに中東アフリカで軍事力を行使すれば、現地の無関係な人が犠牲になる可能性も高い。
 どう考えても泥沼の現状からみて、悲しいことに、同様の事件は今後も起きそうだし、ということは、誰が巻き込まれてもおかしくない状況なわけである。実際、今回の事件の一つは、拙宅のすぐ近くで起きた。

 フランスの日本人留学生たちが今回の事件について意見を述べ合うのを、「安全地帯から石を投げている小学生の学級会並み」と喝破した御仁がいて驚いたが、どんな卓見を発しているかと思いきや、当のご本人がいちばん、いかにもわけ知り顔の小ざかしい糞ガキが狭い視野でこねくりそうな、無責任でくだらない理屈を並べていた。「僕が日本から出てくる気になった理由の一つに、日本では、こういう男から目も鼻もないのっぺらぼうの話を聞くのが、ともかくいやになったからと言うこともある」(金子光晴『ねむれ巴里』234頁)。
 日本の最高学府の院生らしい、こんなのがいずれ日本のアカデミズムか知識界で、「小学生」たちを「指導」するような立場につくのかと思うと、ただでさえ鬱な気分が、いっそう暗くなる。しかし多くの「小学生」たちは、そういうエセ知識人の小理屈に背を向ける賢明さを備えているだろうという希望も失いたくない。

 それにしても、「自分の畑を耕そう」と云ったそばから、耕せていない。一つのことを気にしだしたら、他のことが手につかなくなる性分、それに捉われているうち、気づいたら疲れ果てている。おまけに、不快や悲しみや後悔など、負の気持ちほどいつまでも引きずる。そんなことで、大切なものをすり減らしているように思えてならない。

追記:

モン・ドール、通常の倍ほどの大きさで迷ったが、セールに負けた。賞味期限の2週間前で既にトロトロ、ハイセツ臭、味はさほど悪くない、食べ頃を少し過ぎた程度かと思いきや、2時間後には腹痛、急行落下。普段よりいいチーズだが(高級店ブランド、しかし前からあまり好印象ではない)、皮を捨て火を通してダメならゴミ箱行き。他の人ならたぶん問題ないと思う。

再追記:
皮を捨て、火を通せばマシになった気はする。なにしろ皮がとりわけ臭い、こんなハイセツ臭のするモン・ドールなど初めて。びくつきながら結果を待ったが、急行落下こそなけれ、胃にチーズの存在感あり、しきりに出るゲップからはハイセツ臭。胃薬を飲んで寝たが、朝になっても存在感あり。やはり私の胃腸にはすでに不向きらしい。
腹立たしいので店名を書く、マリー=アンヌ・カンタンMarie-Anne Cantin。もう二度と買わない。

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