(写真は、御嵩宿の「蟹薬師・願興寺」と横浜のYさんの後姿)
御嵩宿に入ると、道は緩やかにカーブし、左手の御嵩公民館の
先を右折すると宿場町に入ります。
御嵩(みたけ)宿は、江戸時代には、宿の端にある天台宗の
古刹「大寺山 願興寺」(蟹薬師)を中心に発展しましたが、
宿場町としては大きくはありませんでした。
現在は、名鉄・広見線の御嵩駅が宿場の端にあるため、交通の
便は良いのですが、江戸時代の古い家は、それほど多くは
残っていません。
先ず、下の写真の「商家竹屋」に入ります。
そこへ、横浜のYさんも入って来たので、一緒に、ボラン
ティアのオジサンの「商家竹屋」の説明を聞きます。
それによると、
商家竹屋は、江戸時代末期、本陣職を勤める野呂家から分家
し、商いを中心として代々受け継がれてきました。
竹屋の商いは、店頭販売ではなく、金融業をはじめとして、
繭・木材・綿布などを扱っていました。
後年には、アメリカ製自動車の輸入販売、名古屋では竹屋街と
呼ばれる借家街の経営、あるいは、佐渡金山への投資など、
幅広い商売を手掛けていたとされ、いわば現代の総合商社の
先駆けだったそうです。
商家竹屋を出て、当時の面影を残す門構えの「御嵩宿本陣」跡
(上の写真)と「中山道みたけ館(下の写真)」の外観を
見ながら進むと、名鉄広見線の御嵩駅に突き当ります。
(御嵩駅)
駅の入口には「御嵩観光案内所」があったので、早速、御嵩宿
のウォーキング地図を貰います。
駅前の「大寺山 願興寺」(通称「蟹薬師」)(国要文)に
入ると、想像以上に荘重で立派な本堂で、それを取り巻く広い
回廊が目に入ります。
815年に伝教大師(最澄)によって創建された天台宗の古刹
ですが、火災により焼失、しかし、その後、庶民 が、板・柱
を持ち寄って再建したそうです。
本堂の薬師如来坐像は、子年の4月1日のみに開帳される
という秘仏だそうです。
御朱印帳に印を貰うため、願興寺住職の帰宅を待つという横浜
のYさんと、ここで別れて先へ進みます。
願興寺が、中山道の枡形の角になっているので、道は願興寺を
右にそしてすぐ左へ曲がります。
やがて、大きな道に合流して進んでゆくと、右手に「鬼の
首塚」の白い幟旗がはためいています。
祠の前には「鬼首塚遺跡」の石柱があり、祠の中には「関ノ
太郎首塚」の石碑がありました。
案内板によると、鎌倉時代、鬼岩の岩窟に住む「関ノ太郎」と
いう極悪人が村人を苦しめていました。
村人が「蟹薬師(願興寺)」に祈願したところ、関ノ太郎が
祭礼に現れるとのお告げがあり、そのお告げ通りに現れた
ので、それを捕え首を刎ねました。
その後、関ノ太郎の首を桶に入れ、都へ運ぼうとしましたが、
その首が次第に重くなり運べなくなったので、ここに桶のまま
埋めました。
それ以来、この地を「桶縄手」と呼ぶ様になりました。
「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんが、ここ「桶縄手」の「関ノ太郎」の言い伝えを
聞いて一句。
”桶縄手 今もその名を 朽ちさりき 塩漬けにせし
鬼の首かも”
(桶も縄も今もその名が朽ちていない様に、塩漬けにした鬼の首は今も朽ちない。)
「鬼の首塚」の脇には、子規の歌碑が建てられていました。
”草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす
野路の夕立”
首塚の先で右の脇道へ入りますが、直ぐに国道21号に戻り、
右手に「郷社 八幡神社」の入口の石塔を見ながら、暫く
国道21号に沿って歩きます。
国道21号沿いの下の写真の「比衣の一里塚跡」の石柱から
脇道に入り、田舎道のアップダウンを歩いてゆくと、再び、
国道21号に合流しました。
国道21号を暫くしばらく歩くと、もう左側に伏見宿の公民館
の建物が見えて来ました。
御嵩宿から伏見宿までは、約4キロです。
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